第16話 悪者ども
アイレンブルフ家の邸宅は高級住宅街のほぼ中心、周囲を他の金持ちの家に囲まれた堅牢な造りのマンションの最上階にある。
その最上階全てがサスキアの自宅であり、現在は未亡人となったアイレンブルフ夫人がその所有者ということになっていて、夫人とサスキア、コルネリアと夫人の世話をする女中の4人が暮らしていた。
だがサスキアとコルネリアが毛織物商組合の方に行っており、夫人と女中も出かけている今、その家にはファン・ラインとヘラルトの二人しかいなかった。
「これでもしアイレンブルフ夫人が帰ってきたら、あの人本当に卒倒するんじゃないかな?」ヘラルトが楽しそうに言う。
「今の俺たちがやっている事といったら不法侵入以外の何ものでもないからな。娘についた悪い虫が今度は家にまで押しかけてくるなんて、判事の前で金切り声をあげてる彼女の姿が目に浮かぶぜ」
「その心配はないだろう」ファン・ラインは無表情に言い返す。「カレルがコルネリアから聞いた話では、夫人は今、街を出ているはずだ。サスキア達の方もハーランが上手くやってくれるだろう。それよりもちゃんと家の中の様子を頭に叩き込んでおけよ。それから分かっていると思うが、痕跡は一切残すな」
ヘラルトが気のない返事を返し、ファン・ラインもそれを咎める事はせず、ゆっくりと居間から廊下を抜けて、誰のものとも分からない寝室へと入った。
ベッド、クローゼット、鏡台、テーブル、無造作に置かれた装飾品、などなど。
女性の部屋だろうとは思うが、誰のものかはもう少しあら探ししてみない事には分からない。
鏡台の周りの高価そうなアクセサリーからすると夫人かサスキアの寝室だろうとファン・ラインは見当をつけた。
「夫人のベッドがそんなに気になるか?」
ヘラルトが部屋の入り口からニヤニヤしながら声をかけてきた。「サスキア一人ならまだしもその母親にまで手を出そうなんて、いくら財産目当てでもやり過ぎだと思うな」
「何故夫人の部屋だと分かる?」ファン・ラインは冷やかしを無視して聞いた。
「部屋の趣味を見れば分かるさ。それにサスキアがそんな派手な首飾りをしているのを見たことがあるか?」
ヘラルトの視線を辿り、鏡台に無造作に置かれた首飾りに目をやる。
確かに見覚えのないものではあったが、それがサスキアのものではないと、どうして言い切れるだろう。
たかが画家の工房に顔を出すだけなら、高価な首飾りなど必要はない。
ファン・ラインはくるりと向きなおると、彼の脇を通り過ぎながら言った。
「ここはもういいだろう。どのみちここまで入り込まれるようでは、誰も守りきれやしない」
廊下を通り抜け、ファン・ラインは突き当りの窓を調べる。
窓の外は日の当たらない脇道に面していて、夜中であればそこから侵入しても人に見られるおそれはないだろうと思った。
「なあ、本当に敵はここを攻めに来ると思うか?」
ヘラルトはファン・ラインの後を追いながら聞く。
その声には先程のような軽薄な色はなかった。
「向こうが俺たちを標的にした場合、充分考えられることだろう。闇に紛れて動き回る俺たちを捉えるより、夜は眠りこけている女衆をエサにおびき寄せる方がずっと簡単だからな。でもそれは俺たちにとっても同じ事だ」
ファン・ラインは深く息を吸い、同じくらい時間をかけて吐き出すと続けて言った。「俺はこちらの動きが敵に知られていても、おかしくないと考えている」
ヘラルトは後ろでフムと声にならないような声を出したが、表情が見えないので、彼の反応から彼がどう考えているかを窺い知ることはできなかった。
ファン・ラインは廊下に面した別のドアを開ける。
入った瞬間、それがサスキアの寝室だと分かった。
落ち着いた色調の家具で統一された部屋の雰囲気もそうだが、とりわけ匂いが何よりも雄弁に、それがサスキアの居室だということを示していた。
続いてヘラルトも部屋に入る。
彼にもそれがサスキアの部屋だと分かったはずだが、以外にも彼は軽口を叩かず、黙ったままだった。
「ここは角部屋だな。通りに面した窓と脇道に面した窓、追い詰められてここに逃げ込んだとしたら、脱出はこの窓からという事になるだろう。三階から無事に飛び降りる手段があった場合の話だが――」
「ファン・ライン、本気でサスキア達を囮にするつもりなのか?」ヘラルトは真顔で聞く。
「……別にこっちから狼男を探し出せれば、それに越した事はないさ。でも状況から考えるに、奴らがこっちの動きを読んで手を打とうとする方が早いだろう。俺が望んだことではないが、それで狼男が捕らえられるなら結果的には悪くない」
「本当にそれでいいのか?」ヘラルトは言う。「俺たちがコソコソせず堂々とやっていれば、奴らはわざわざサスキア達を狙ってくる理由もないはずだろう」
「それは俺たちのやり方じゃない」ファン・ラインは一蹴した。
「相手の戦闘能力が未知数である以上、真っ向からやり合うのは危険だ。俺は仲間を危険な目に合わせる訳にはいかない」
「だが代わりに危険な目に遭うのはサスキアだぞ。お前はわざわざ自分で話をややこしくしているんだ」
そう言いながらヘラルトはサスキアのベッドに近付き、腰掛ける。
その無神経さに何故だかムッときて、我知らず苛立ったような声が出た。
「おい、何が言いたいんだ?」
「それだよ。お前はサスキアに特別な感情を抱いている。だがお前は同時に、その女が犠牲になることを仕方ない事だと考えてしまっている。 ――いや違うな、お前は彼女が犠牲になることを望みはしないが、あえてそれをする事で自分を追い込もうとしているんだ。何に対する罰か知らないが、自分に厳しくしているつもりで実は他人を巻き込もうとしているんだぞ、お前は」
言い返したい事が山ほど頭に浮かんだが、一つとして言葉にならなかった。
ただ一刻も早くサスキアの部屋から出たかった。しかしそれをするためには、ベッドに座ったままこちらを凝視しているヘラルトに背を向けなくてはならない。
何故かは知らないが、それはどうしてもできなかった。
「一応聞くが、他に方法があるのか?」長く続いた沈黙のあと、ファン・ラインはやっとの思いで口を開く。
ヘラルトはこちらを見つめたまま、無表情に返した。
「特に思いつかないがな、ただお前が他の方法とやらを考えてみた事があるか、気になったんだ」
「……無くはないさ。でも時間もかかるし手間もかかる。そうこうしている内に結局サスキアが狙われる事だってあり得る。いいか、俺たちがこうして奴らを追っていて、奴らが俺たちを狙う理由がある。そしてサスキア達と俺たちの間に何らかの関係性がある限り、彼女らが狙われる理由は存在しつづけるんだ」
ヘラルトは無言で立ち上がる。
話はひとまず終わったと判断し、ファン・ラインは廊下に出た。
そこから客間に入って辺りを見渡す。大きな窓から日光が入るためこの部屋は邸内で一番明るい。その向こうはバルコニーになっており、通りに面しているはずだが、人に見られると具合が悪いので近付かないことにした。
人の気配を感じて玄関を見ると、外にいたフェルナンがちょうど音も無く侵入してきたところで、暑い日差しの中に長く外にいたためか額に汗が浮かんでいる。
慎重に玄関の扉を閉めると彼は言った。
「外の様子はひとまず把握した。何ヶ所か潜むのに都合のいい場所があるから、見張るのは何とかなるだろう」
ファン・ラインは頷いた。「よし、こっちも一通り見終わった。ヘラルト、そろそろ引き上げるぞ、俺たちのいた痕跡は残していないな?」
彼はまだ黙ったままで、ゆっくりと頷くと先にたって玄関に向かう。
フェルナンが玄関ドアの隙間から周囲を見渡し、素早く外に出た。
ヘラルトもその後に続こうとするが、ファン・ラインはその肩に手を当て、彼を押し留めた。
「一体なんだ? せっかくフェルナンが外を確認してくれたのに、すぐに出ないとまたタイミングを計らなくちゃならなくなるだろ」ヘラルトは批難するように言う。
すぐには言葉が出ず、ファン・ラインはしばらく口をつぐんだ後、自分でも信じられないほど情けない声で聞いた。
「なあ、俺は本当に…… サスキアに対して特別な感情を持っているのかな?」
ヘラルトは目を丸くしてファン・ラインの顔を見つめる。やがて肩を落として呆れたというように言い返した。
「そんな事は自分で考えろ。まったく、大の男が吐くセリフじゃないぞ」
確かに彼の言う通りだと思った。