第15話 ビジネス・タイム
ファン・ラインら工房のメンバーが狼男捕獲に向けて動き出してから約半月、表面上は何も変わりなく、アムステルダムの街は宗教間の紛争という不穏な影を孕みつつも、いつもどおりの顔を見せていた。
だがサスキアの頭の中では、そのどこかでファン・ライン達が影ながら目に見えない脅威と真っ向から向かい合っているイメージが消えずにいる。
仕事を請け負って以来、ファン・ラインはサスキアに工房への出入りを禁止しており、しばらく顔を見ない内にサスキアの中でのファン・ライン像は、日増しに強く逞しくなっていった。
サスキアはそんな子供じみた妄想を恥ずかしく思いながらも、目の前の問題を全て解決してくれる英雄の存在に期待していたのだ。
アイレンブルフの令嬢として生まれ、常に人々から愛情を受け取る側の人間であったサスキアには、通俗的な意味で愛情を注ぐ相手というものが存在しなかった。
そのためか少女時代から自分をお姫様のように思い為し、危険を顧みずに窮地を抜け出させてくれる騎士の物語を夢見てきたわけだが、それが20を過ぎるまで続いてようやくそれらしきものを見出したのだ。
それだけに、なかなか解決の兆しの見えない今の状況と妄想の不一致がサスキアを悩ませているのも事実であり、遅過ぎた思春期を埋め合わせる英雄の存在を、サスキアは多少の焦燥感を持って待ち詫びていた。
「お嬢様、着きましたよ」御者のサミュエルが振り返って声をかける。
今日は家のビジネスの関係で人と会う用事があり、現在サスキアは毛織物商組合の会館に向かっている最中である。
工房に行く事もなく、厳しい母に外出を戒められていたサスキアにとって、コルネリアを連れての外出は久々のことであった。
一行を乗せた馬車は計測所近くの広場で止まり、二人を降ろす。
計測所というのはその名の通り、品物の量を計測する場所なのだが、取引した交易品はここで量目を証明しない限り市場へは出せない。
そのため輸出や輸入などの取引が行われる主要都市には、必ず計測所が存在する。
そしてその街の取引は常に計測所を中心に行われていた。
コルネリアを連れ、広場から少し歩いて会館の中に入ると、建物内は毛織物商人達でごった返しており、各所から取引する声が絶え間なく響きた。
ところどころに板書された数字はその日の品物の値段を表しており、サスキアには分からないが、その数字の差異がその場の男共を熱狂させているのかと思うと、どうしても自分が場違いに思えて仕方がない。
サスキアが目当ての人物を探していると急に脇から声を掛けてくる者が現れた。
「おや、アイレンブルフ嬢、珍しいですね」
声の主はヴァニング・クック氏で、いつもの穏やかな表情が顔に張り付いていた。
「あなたも毛織物取引に投資をなされているのですか?」
「ええ、父の代から馴染みの相手がおりまして、父の死後もずっと投資は続けているんです。そのお陰で家は破産せずに済んでおりますが、できればあまりこういう所には……」
クックはなるほどと頷いてみせた。
ビジネスの世界は基本的に男の世界であり、いくら上流の娘と言えど女性が顔を出すのはあまり歓迎されない。
アイレンブルフ家は当主であったサスキアの父の死後、未亡人となった母とサスキアの二人しかおらず、今のところサスキアしかビジネスの分かる者がいないのでその役目を担うこととなっているが、寛容なアムステルダムの気風と、名家の事情を知った商人達の理解がなければこうはいかないだろう。
それでもサスキアはこういう役目を好いてはいなかった。
「早く結婚相手を見つけて任せてしまうのが無難でしょうな。そういえば最近、ファン・ライン殿にはお会いになられましたか?」
ファン・ラインとサスキアの関係については、色々と尾ひれがついているものの、ほぼ周知の事となっているらしい。
その事はファン・ラインが余所者で、しかも元傭兵ということからあまり好意を持って受け入れられていないようなのだが、彼が自らそれを口にしたという事は少なくとも悪感情は持っていないという事の証左ではないだろうか。
どのみち何を否定したところで意味はない。サスキアは正直に答えることにした。
「私は今、工房への出入りを禁じられていて、彼ともしばらく会っていません。どうしてそんな事を聞くのです?」
クックは芝居がかった調子で、少し困ったような表情を見せた。
「実は彼ら工房のメンバーについて、どうにも挙動が掴めないのです。夜が明けると一応、報告は寄越してくるのですが、実際に夜中、彼らを見たという人間が一人もいないのです。我々の組合のメンバーも夜中、巡回はしていはいますが、彼らを見たという者は一人もいません」
「……まさか、サボっているのでしょうか?」
「それはないでしょう。狼男こそ捕まえていないようだが、少なくとも報告を見る限り街に出ている事は間違いなさそうです。現に一度、物盗りの類を捕まえて我々に引き渡してきた。これは一体どういうことなのですかね?」
サスキアはその場で考え込む。
以前聞いた話から察するに、彼らは隠れたり闇夜に乗じて動くことに長けているようではあるが、それは狼男とて同じことである。彼らに対して不審の念を抱いているクックに対し、この事を話して良いものだろうか。
考え込んでいるサスキアの様子をクックは求める答えを持っていないと誤信したようで、軽く別れのあいさつをするとすぐに人の波に紛れてどこかへ行ってしまった。
サスキアもすぐに用事を済ませて組合の建物を出ると、その後を追いかけてくる者がいた。
と言っても人目につくほどの事ではない。サスキア自身も話しかけられて初めて、その存在に気付いたほどだ。
「サスキアお嬢さんにコルネリア嬢、こんな所で一体何を?」
馬車に乗り込もうという時になって声をかけられ、二人はギョッとして振り返る。一見して見覚えの無い、ありきたりな商人の格好をした人物だが、声には聞き覚えがあった。
「あなた…… もしかして、ハーラン?」
「ご名答」ハーランはしてやったりな笑顔を向けてきた。
ありきたりな商人の、と言っても上等な服を着て、付け髭に髪もだいぶいじってあり、普段よりもやや年をとった印象を受ける。
状況から見れば富裕商人に化けて、何かを探っている最中なのだろう。
それなのにわざわざ露見する危険を冒してまで話しかけてきたのは何故だろうか。
その答えはすぐに本人の口から聞けることとなった。
「すみませんが港の近くまで乗せてってもらえませんかね? この衣装は借り物なんで、歩き回って汗だくにしたくないんです」
コルネリアがたまらず吹き出す。
不躾な頼み事ではあるが、サスキアもハーランの率直さに思わず笑い出した。
「いいわよ、どうせ家に帰るだけだもの。乗りなさい」
サスキアが言うと、ハーランは意気揚々と馬車に乗り込む。
馬車が動き出すとハーランはすぐにしゃべり出した。
「すみませんね、どうにもこういう格好は慣れてなくて…… それにああいう場所もたまに顔を出すくらいなら珍しくていいんですが、私にはなかなか……」
「それにしては随分と場に溶け込んでいたじゃない。それにしてもあんなところで何をしていたの?」
ハーランは少し考え込む様子を見せた後、意を決したように口を開いた。
「実はファン・ラインの指示で調べものをしていたんです。この格好も彼の指示でして……」
「何を調べていたの?」
サスキアが言うとハーランは首を振って答えた。
「それは言えません。そもそもこうやってあなたとの接触自体、ファン・ラインに禁じられているんです。まあこれは――」と身振りで馬車の中を示す。
「ちょっとした情報公開といったところです。さっきちょっと話しているのを聞いたんですが、俺たちが何もしていないと思われるのは心外ですからね」
立ち聞きなどというお行儀の悪いことを、さらっと告白するハーランのあけっぴろげな態度には、サスキアも呆れるばかりだ。
オランダ人は元来そういう性格ではあるのだが、まさかドイツ人のハーランの方がそれらしく見えるというのは、自身が旧弊な人間になったようで少し考えさせられる。
よりにもよって〝あの〟ドイツ人に――。
サスキアは気を取り直して言った。
「じゃあやっぱりあなた達、ちゃんとこっそり仕事をしているわけね。私を除け者にしてまで何をやっているかと思えば、意外とちゃんとしているじゃない」
「無論ですよ、ファン・ラインだって何もあなたに邪険にしようってつもりはないんです。ただこの件に関わると、あなた達だって狙われかねない。だからこっちもこっそりとやらざるを得ないんです。もっとも――」とハーランはコルネリアの方を向いた。
「ファン・ラインだってそれほど野暮ではないですからね、まあ多少の事は大目に見ているようですから、私だって少々の事は許されるでしょう」
コルネリアは顔を赤くしてうつむく。
彼女がそれほど大胆な行動に出たことに、サスキアは少なからず驚いた。
それも自分にすら内緒にしていたとは。
「カレルだってその辺りの事情は分かっていて、気を付けてはいるでしょう。でもあなた方もそのつもりでいた方がいい。特に夜は気を付けて下さいよ。ファン・ラインの読みだと、そろそろ向こうも動き出す頃だそうですから」
港が見えてきたところで馬車は停まり、ハーランはにこやかに手を振って走り去る。
再び馬車が動き出すと、コルネリアは申し訳なさそうに言った。
「お嬢様、申し訳ございません。お嬢様に黙って……」
「いいわ、仕方ないもの。でも今後は自重なさい。さっきハーランが言ったように、あなただって狙われる可能性があるのだから、彼らの弱点を作ってはいけないわ」
コルネリアは黙って頷く。
サスキアはアイレンブルフ家の紋章付きの馬車から、通り過ぎる町並みを眺めながら物思いにふけった。
――本当に私達は彼らの弱点になり得るだろうか?
カレルにとってのコルネリアは、間違いなく弱点になり得る。
もしコルネリアが狙われることとなったら、あの誠実な美少年は身を挺して彼女を守るだろう。
だがファン・ラインはどうだろうか?
彼自身と私達を天秤にかけた時、彼なら間違いなく私達を助けるだろう。
だがもし、私達と仲間の命を天秤にかけた場合、彼らのマクデブルグの話を聞いた限りでは、仲間の命を優先することは充分に考えられる。
サスキアは首を振って不安な想念を払い除けた。
そもそもそれらの話は、ファン・ラインらを敵視する者が現れた場合のことである。
それを避けるために彼らは、味方であるヴァニング・クックの自警団にすら動きを隠して行動しているのだから。