第14話 1600ギルダーの契約
また人が死んだ。
今度の被害者はフランスの商人で、本国の弾圧を逃れてやってきたこの街のフランス人とは違い、たまたまビジネスでこの街を訪れた旧教徒のフランス人だった。
医師の所見によると死因は内臓破裂によるショック死、被害者は全身に打撲創を負っていることから、複数人による殴打を受けたものらしい。
普段であれば港町によく見られる喧嘩沙汰として片付けられる一件だが、狼男事件の影響下にあるアムステルダムの街ではそうは見られず、大方の住民はこの事件を狼男事件の反動による、新教徒住民の旧教徒狩りによるものと見ていた。
少なくとも被害者は旧教徒であり、今までの狼男事件の被害パターンや街に流れる狼男の素性に関する噂からして狼男の仕業とは考えていない様子で、サスキアはその事を、街の噂で知ったらしいコルネリアから聞き、早速そのことを工房のファン・ラインらに話しているところだった。
「自警団もいよいよ頭に血が昇ってきたみたいね。きっと旧教徒側も黙ってはいないわ。報復合戦が始まらなければいいのだけれど」
「そりゃ無理だ、こういう話はどうしたって後を引く。狼男だって未だに犯行を続けているんだ。犯人が見つかったところで、そうそう治まるような事はないだろ」
ヘラルトが工房の椅子に深く腰を沈め、他人事のように言うと、サスキアはその様子を横目でジロリとにらみつけた。
「軽く言ってくれるけど、あなただってこの前は大変な事だって言ってたじゃない。それにこの街に住んでいる以上、あなた達も無関係じゃないでしょうに」
「特にファン・ラインはそうかもしれないな」横で聞いていたヤンが口を挟んだ。
「ファン・ラインは危ないな。本人がこんなのんびりした男でも、一応リュッツェンの英雄だ。そのことが狼男に知れたら狙われる可能性だってある」
サスキアはハッと息を呑み、それを見たファン・ラインがフゥと溜め息をついて肩をすくめてみせた。
英雄扱いもそうだが、サスキアの見る限り彼は本気で身を案じられる事に、むしろ煩わしさを感じているようだった。
「俺が狙われるかどうかはともかくとしてだ。サスキア、君はそのフランス人が旧教徒だっていう事をどうして知ったんだ?」
「さあ? ともかくそういう話よ。どうしてそんな事を聞くの?」
ヤンとヘラルトが何かに気付いたようにファン・ラインの顔を見る。
サスキアはその意味が分からず聞いた。
「どういう事?」
「フランス人が自分で旧教徒と名乗ったとは思えないって事さ」
ヤンが言いながら促すようにファン・ラインを見る。
ファン・ラインはまた溜め息をついた。
「この事件で被害者が旧教徒だと知っていた人間が少なくとも二人いる。
犯人と、噂の発信源にいる奴だ。
犯人はどういう訳か知らないが、そいつが旧教徒だと知っていた。だからフランス人は殺された。だが噂の発端となった人物は、どうやってその事を知ったんだ?」
サスキアは首をかしげた。
確かに相手が新教徒か旧教徒かどうかは、本人に気かない限り判断できることではない。
フランスは旧教徒の国ではあるが、戦争では新教徒国家に味方しており、そもそもこの街に来るフランス人の大部分は迫害を逃れてやってきた旧教徒以外の者が多いのだから、フランス人だからという理由で旧教徒と判断できるものでもない。
しかしそれがどうだと言うのだろうか。
サスキアにはファン・ラインの質問の意図が分からなかった。
「知り合いだったら知っていてもおかしくないんじゃないかしら? 一体何が気になるの?」
ファン・ラインは首を振った。
「だとしてもだ、街がこんな状況なのに被害者が公然と旧教徒を名乗ったとは思えない。当人が死んだ後では尚更だ。だから彼が旧教徒だと知っていたのはごく少数に限られるんじゃないかと考えられる訳だ」
「つまり?」
「犯人と噂の発端は同一人物なんじゃないかと、ファン・ラインは考えているんだよ」
ヘラルトはそう言って立ち上がる。
「どこかに狼男事件を利用して旧教徒を追い出そうとしている奴がいる。こりゃ面白くなってきたぜ―― ファン・ライン、俺は少し調べてくる、絵描きよりもこっちの方がずっと面白い」
「君が絵を描いているところなんて、一度だって見たことがないんだけどね」
ヤンもヘラルトにつられるように立ち上がる。「さて、私も行くよ、用事があるんでね」
いつものようにヤンは行き先を告げずにどこかに出ていく。
もはや隠し事をしている事を隠すつもりはないようだ。
二人が去っていき、後にはファン・ラインとサスキアの二人が残された。
「ヤンはともかく、ヘラルトまで一体どうしたのかしら?」
静かになった工房でサスキアはポツリと言う。
ファン・ラインは仕事の道具が置かれた作業机に向かい、筆を手に取った。
「この状況が人為的なものであれば、そいつを排除することで状況を変えられるかもしれない。どのみち狼男とやらを捕まえない事には意味ないがな」
彼は手に取った筆の穂先を、そこに隠されている何かを探すように見つめていた。
「それにしても、ヘラルトの奴までこんな面倒に首を突っ込みたがるとは思わなかった。そんなに絵描きの仕事が嫌だったのかな?」
「そうは言わないけど、どう考えたってあなたのせいに見えるわよ。そもそもあなただって狼男事件にはちょくちょく首を突っ込んでいたじゃない」
ファン・ラインはフンと鼻を鳴らした。
「みんなそう言うけどな。俺は本当に狼男なんて興味ないんだ。 ――それよりもさっき自警団の事を言っていたが、それはあの昼食会で会った男のことなのか?」
「ヴァニング・クック氏のこと? 違うわよ、彼は元からこの街にあった自警団の団長だわ。それに彼らの場合、自警団とは呼ばれているけど実際は戦争で火縄銃手をやっていた人達の組合なの。確かに彼らも新教徒ではあるけど、今回の件とは無関係よ」
「そうか」
ファン・ラインは筆を机の上に置いた。
「どのみち彼らとは一度話しておいた方がいいかもしれないな。悪いがサスキア、彼らと会う事はできないだろうか?」
「もちろんできるけど、興味ないんじゃなかったの?」
「その通り、興味はない。だけどヘラルト達がああやって動いている以上、俺だけ等閑視している訳にもいかないだろう?」
アイレンブルフ家の名は、ファン・ラインが考えていたよりも霊験あらたかなものだったようで、殊この街において、その名は無制限の立入許可証に等しいものだということを、ファン・ラインは今さらのように気付かされた。
ともかくファン・ラインの希望した自警団隊長フランス・ヴァニング・クック氏との会見は、その日の内に果たされ、ファン・ラインとサスキアは火縄銃手組合の集会所、彼の居室で顔を合わせる事となった。
「やあ、ファン・ライン君にアイレンブルフ嬢、君たちのような名誉ある客人を迎えることができて光栄だ。くつろいでくれたまえ」
すすめられた椅子に腰を沈め、ファン・ラインは何となく居心地の悪さを感じた。
自分から言い出した事ではあるが、正直なところ彼とはできるだけ会いたくないと思っていたし、今のような気味の悪いほどの歓待を受けては、背筋に伝わる寒気を抑えられない。
ファン・ラインはとっとと話を終わらせ、ここから出て行こうと決めた。
「今日は突然お邪魔して申し訳ありません。実は狼男事件についてお話をうかがいたくて参りました」ファン・ラインは、天気の話題なんか持ち出されてはたまらないと早口にまくしたてた。
「こちらの組合はアムステルダム市長から、街の治安の一部を任されているという事は、こちらのアイレンブルフ嬢から聞いています。
その立場から、今回の事件をどうお考えなのか、お聞かせ願えますか?」
「これは耳が痛い話だね」クックは苦笑いして言う。
「我々としても狼男に関しては非常な関心を持っている。 ――と言えば語弊があるかな?
ともかく今回の事態について、我々としても懸念を抱いている。しかし組合でも夜間警備などの対策をとっているが、いまいち効果が出ていないのが現状だ」
ファン・ラインの予想に反し、クックはあまりにもあけすけに自分の非を認めた。
現時点では何もできていない、などと組合の長ともあろう者が軽率に言うべきでない気がする。
サスキアなどはクックののんびりとした態度に、少々苛立った様子を見せていた。
「事は狼男事件だけに留まりませんわ。一部の新教徒系市民による暴行は宗教的な内紛を誘発し、この街の治安を根本から揺るがしかねない問題となっています。
事と次第によっては、この火縄銃手組合の名誉にも関わってくるでしょう。より一層、早期の事件解決が望まれるところですわ」
「ずいぶんはっきり物を言いなさる」意地の悪い言い方をしたにも関わらず、クックは相変わらず平静な口調と表情で言った。
「それでファン・ライン君、わざわざアイレンブルフ嬢を連れて、我々の尻でも叩きに来たという訳ですかな?」
ファン・ラインは深く息を吸った。
ここに来た理由を考えれば、彼を怒らせるまではいかなくとも、彼に不愉快な思いをさせずに目的を達する事は不可能だ。覚悟を決めて言う他あるまい。
「どう受け取ってもらっても構いません。クック隊長、我々を狼男捕獲のために雇うつもりはありませんか?」
これにはさすがのクックも面食らったようで、彼にあまり好印象を抱いていなかったファン・ラインは初めて彼の驚きの表情を見るに及んで、内心でいい気味だとほくそ笑んだ。
たまには無礼な振る舞いに及ぶのも悪くはない。
サスキアも驚きの表情でこちらを見ている。
「それは…… 我々には任せておけないという意味かね?」
クックは開いた口から何とか言葉らしい言葉をひねり出した。
「そこまで言うつもりはありませんが、この街に住む者として今回の事態は看過できるものではありません。幸いに我々には戦場の経験があり、狼男と渡り合うだけの能力があります。それに少数の部隊なので敵にも勘付かれにくいという利点もあります。どうでしょう、まずは2000ギルダーからでは?」
どう繕っても礼を欠くことになるなら、いっそ無礼を通す他にあるまい。サスキアは心配そうな顔をしているが、ファン・ラインにも計算があった。
クックにしてみれば、最初にあれだけ愛想のいいところを見せていて、尚且つ自分達の手落ちを認めているのだから、今さら無礼を咎めて追い出すことなど出来ないだろう。
クックは落ち着きを取り戻して言った。
「2000は高すぎる。いくら戦争の英雄とは言え、我々は戦争をしようという訳ではない。1000ギルダーというところではどうだろう?」
予想以上に値切ってきた。
が、少なくとも商談には乗ってきている。本来ファン・ラインはこういう値段交渉に不得手なので、いつもはヘラルトにまかせっきりなのだが、今は自分でやらなくてはならない。
「戦争以外の経験がないのはそちらも同様でしょう。1800ではどうでしょうか?」
「我々にはこれまでこの街の治安を守り続けてきた経験がある。1200だ」
「その治安がおびやかされているのです。1750では?」
「だからと言って、我々には君達に依頼しなければならないという理由がない。君達なら狼男を捕らえられるという確証はどこにもないのだよ。だから1500、これ以上は出せないね」
「なら1600ギルダーでどうでしょうか?」
クックはしばらく考え込み、やがて頷いた。
「いいだろう、但し半分が前金、あとは成功報酬ということにしよう」
ファン・ラインも頷きを返して言った。
「いいでしょう。装備はこちらで揃えます。やり方もこちらに任せていただいて構いませんね?」
クックが仕方なしに頷くのを見て、ファン・ラインは手を差し出した。
「まあ見ていてください、必ずや狼男を捕らえてご覧にいれましょう」
「そういう大事なことをしでかす前に、俺たちに一言あっても良かったんじゃないか?」
工房のメンバーは狼男捕獲の仕事について、予想に反して驚きよりも苛立ちが先にきた様子で、クックと交した契約の内容を説明したファン・ラインは早速ヘラルトの説教を受けていた。
「ここの工房の親方は俺だぞ、それにお前だって絵描きは退屈だと言っていたじゃないか。金だって手に入る、申し分のない仕事だろう?」
「そりゃ傭兵としちゃ上等な仕事の部類に入るさ。だが俺たちは今は絵描きだ。絵描き以外で食い扶持を稼いだところで、次の仕事には繋がらない。むしろ傭兵部隊として認知されちまったら、それこそ絵の仕事が減っていくかもしれないんだぞ」
「その点はぬかりない、俺たちがこの件に関わっている事は秘密にしてもらう。クックとそう約束したんだ」
ヘラルトは呆れて頭を抱えた。
「そんなどうでもいいぬかりなさがあるんだったら、事前に俺たちに相談くらいしてくれてもいいんじゃないか?」
ヘラルトはヤンの方を向いた。
「あんたはどうだ? 一応ここではファン・ラインの次に偉いんだ。言ってやりたい事くらいあるだろう?」
話を振られたヤンは背を預けていた壁から身体を起こし、ヘラルト同様、呆れ顔で言う。
「そうだな…… まあファン・ラインにしてはよくやったと言ってやってもいいが……、一つだけ聞きたい。何故急にこの事件に関わりたくなったのか、その理由は何だ?」
「金だよ、それ以外にあるか?」
話はそれで終わりだった。
ヘラルトを始めメンバー全員の納得は得られないまま、ファン・ラインはスタスタと工房の二階へと上がっていく。
ファン・ラインの姿が見えなくなると、ヤンはフッと息を吐いてサスキアの方を向いた。
「一体どうしたんだろうな? 二人で話している間に何かあったのか?」
「何もないわよ。強いて言うならあなた達二人が事件を調べに行くと言ってから、急にヴァニング・クック氏に会いに行くと言い出したのよ」
ヘラルトは肩をすくめて溜息をつく。
「これ以上、奴の事を追及しても何も出てこないだろう。とにかく契約どおり、俺たちは任務を遂行するしかないな」
「そうは言っても今夜からというのは急に過ぎるだろう。夜間警備の仕事と言っても相手は狼男だ、まずはそれなり準備を整えてからかからないと……」
ヤンが言い終わるか終わらないかの内に、ヘラルトはツカツカと部屋の脇に置かれた木箱に近付いて、その蓋を蹴って開けた。
他の者が続いて木箱に近付くのに続いてヤンとサスキアは木箱の中身を覗き込んだ。
「これは…… 君達はこの街で戦争でもおっぱじめるつもりだったのかい?」
サスキアが顔を青くして見ている前で、ヘラルトらはカチャカチャとマスケット銃を分解し、手入れを始めた。
銃を手にした彼らの表情は、普段とは全く違うものだった。
「ヤン・リーフェンス、あんたも早く自分の銃を持ってこいよ。ファン・ラインも上で自分の銃を用意してるはずだ。さっさとしないとまた遅刻しちまうぜ」
注釈
ギルダーとは当時オランダで用いられていた貨幣単位です。
正確な指標ではありませんが、当時の羊一頭の値段が約10ギルダー、小麦1トンが約20ギルダー、大工さんの年収が約250ギルダーだったそうです。
要するに1600ギルダーというのは相当な大金で、ファン・ラインも相当吹っかけて言っちゃったという事ですね。