第10話 酒場の老人
フランス・ハルスは酒場と酒を愛する、老境の画家だ。
酒も好きで、酔って騒ぐのも好きで、それを見て絵にするのも好きだ。
だが何よりも人間が好きだった。
彼の描く絵にもそれが表れており、彼の絵には陽気に騒ぐ酒場の風景を描いたものが多いのはそのためなのだろう。
だが彼は決して、単なる楽観主義者ではなかった。
彼は人間が好きだからと言って戦争や犯罪、政治の舞台裏で行われる取引などの、人間の汚い部分から目を逸らしたりはしない男だった。
それは酒場や港で交される噂話や、政治家や富裕商人が集まる会合で囁かれる秘密、そして独自の情報源から得られる情報などを収集するという形で現れていた。
そうして収集した情報を彼がどう利用しているのか、ファン・ラインは知らなかったが、ともかく彼は情報通としても有名な男で、自らそうした事を喧伝したりはしないが、彼の知識を得たいという者には大抵、気前良く答えをくれるという話だ。
ファン・ラインがハーグの酒場で、テーブルを挟んで向かい合っているのはそういう男だった。
「リュッツェンの英雄くんがわざわざこんな年寄りのところまで足を運んでくれるとは、なかなか光栄だね」
老人はビールの杯を前にしてにこやかに言う。
「昔の話です。今はアムステルダムで絵を描いていますよ」
ファン・ラインが言う。
「あなたと同じ様に…… とは言えませんがね。こっちはまだ駆け出しで、借金を返すために右往左往している有様ですから」
この国で今、最も評価されている画家と自分を同列に並べて考えることはできない。
彼の絵は国家元首であるオラニエ公にも高評価を得ており、彼自身オランダを出た事はないのだが、国外でも結構な評価を得ているとのことだ。
老人は笑みを浮かべた口元に杯を近づけ、喉を鳴らして一気に呷った。
「昔の話だけではない。そんなに謙遜しなくても君たちの話は耳に届いているよ。君もヤンくんも、ラストマンの工房にいた頃から有望な若手だと聞いている。それにしても、今日来たのは、画家としてではないのだろう? まさか私の絵を見るためだけに、わざわざアムステルダムからやってくるはずがない」
「そんな事は…… ないです」
ファン・ラインは言い当てられて、さも気まずそうに言い返す。
実際にハルス老人の絵は好きだったし、見る機会があれば是が非でも見たかったが、それ以上に聞きたい事があってやって来たのは事実だ。
「いや…… すみません、実はあなたに聞きたい事があって来たんです」
老人はファン・ラインに笑いかけて言った。
「そう申し訳なさそうな顔をしなくても、君が何を考えているかくらいは分かっているよ。しかし君は、本当に嘘がつけない男なんだな」
恥ずかしさを隠そうとして杯に口をつける。
次の瞬間、ファン・ラインは口に含んだビールを吹き出しそうになった。
「君はヤン・リーフェンスの素性を探りに来たのだろう?」
「! ……何故それを?」
老人は彼に『何を考えているか分かる』と言ったが、まさかそこまで見透かされているとは思いもよらなかった。
彼の事だから、情報収集の手はアムステルダムにまで伸びていることは間違いないだろうが、ファン・ラインの身辺にまでそれが及んでいるということは彼か、もしくはその周辺に彼が興味を持つような何かがあるのかもしれない。
どのみち、その情報をハルス老人に提供した者は、彼の身近にいる人間だ。
ファン・ラインは顔から血の気が引いていくのを感じた。
「そうショックを受けないでくれ」ハルス老人は平然と言った。
「別に君たちを調べたからと言って、君たちに敵意があるわけでも、何か疑いを抱いている訳でもない。それはこの情報を提供した者も同じだ」
――だからといって安心しろとでも?
ファン・ラインは何とか自制心を取り戻して杯に手を伸ばす。
どのみち質問しに来た以上、知られるのは時間の問題だった。
身近な人間に内通者がいることを気にしなければ、先に知られたところで不都合はない。
だが精神的な警戒は緩めなかった。
「実はヤンだけではなく、もう一人、素性を知りたい人間がいます。 ――あなたは色んな事情に通じていて、教えを乞う者には寛容だと聞きました。質問に答えていただけますか?」
ハルス老人は笑い出した。
「君はどうやら考え違いをしているようだ。確かに私は基本的には、情報の見返りなど求めたりはしない。だがそれは素人相手にどうでもいいような話を聞かせる場合のことだ。相手がプロならこちらもそれなりの態度で臨む。有り体に言えば『取り引き』としてそれを行う。そしてそれに見合った情報を提供するという訳さ」
「あなたの言うのはつまり、情報のプロという事でしょう? 私は情報屋にもスパイにもなった覚えはありませんよ」
「だがヤン・リーフェンスはプロだ」
老人のある種あっけらかんとした言い方に、ファン・ラインはまたビールを吹き出しそうになった。
「彼は海軍にいた頃、今の私のような事を任務にしていた。時には自ら他国に乗り込んで、軍隊や政治の動きに関する情報を盗み出していたらしい」
ハルスは先程とは違う、重苦しいような低い声で言う。先程の柔和な笑みは消えており、表情もいつの間にか、戦闘に臨む兵士の目つきをしていた。
プロの時間になったのでプロの表情になった、という事なのだろう。
「君が求める情報はプロの領域に属するものだ。ならばプロとしての取り引きをするのがスジというものだろう」
ファン・ラインには次に続く言葉が分かっていた。
情報の世界での取り引きにおいて、情報は商品であると同時に通貨でもある。
情報が欲しければ、それに値することを教えろ。ということなのだろう。
どのみち借金のある身で、彼のような大物と取り引きできるほどの金を持っているはずがない。
ハルスにもそれは分かっているはずだ。
「そうは言っても私はただの売れない画家です。あなたと取り引きできるような材料は持ち合わせていませんよ」
「何、そう大層なものを要求するつもりはないよ」ハルスは言う。
「さっきも言ったように私は君達に興味を持っている。 ――いや、君に興味を持っていると言って良いだろう。君は傭兵として戦争に参加し、パッペンハイムを討ったことで英雄になった。それが何故、今さら画家になる? 私はその理由が知りたい」
「答えは簡単ですよ、戦争が嫌になったんです。それだけですよ」
ファン・ラインは感情を混じらない声で言う。
もちろんそれで相手が納得するはずはなかった。
「戦争が嫌なのは皆同じだ。私が知りたいのは、そこに至るのに、一体何があったか、ということなのだよ。そもそも君は傭兵だった。望んで戦争に参加していたのだろう?」
ファン・ラインは表情を動かすまいと、顔をこわばらせて見せる。
しかし脳裏では、激しく過去の記憶が再生されていた。
デンマーク軍の敗走、ハンブルクでの無為な日々、スウェーデン軍と王の上陸。
部隊の仲間たち、他の傭兵連中、戦いの最中で出会った人びと。
焼け落ちた家、荒れ果てた畑、村、街。
戦死した者。戦闘に巻き込まれ、死んだ者――。
老人は射抜くような目つきでファン・ラインを見つめ、言った。
「君はあの戦争で何を見たのだ?」