即行劇
本多沙織には、長い間片思いをしている相手がいる。今日は沙織の所属する卓球部が休みになったので、彼を最近できたショッピングモールに誘ってみることにした。自分の席で軽く深呼吸をして気持を落ち着かせてから、彼の席まで歩いていく。
「綾太君」
「ん?」
彼と目が合う。心臓がうるさい。
「今日、部活ある?」
「今日?ないよ。顧問が休みで急になくなったんだー」
綾太君がへらっと笑った。「ああもう、好きだなー」と思う。
「あのね、駅前に新しいショッピングモールができたんだけど、よかったら一緒に行かない?」
「いいよ」
「本当!?じゃ、じゃあ、後でね」
「うん」
あくまでも平静を装って自分の席まで帰る。心臓はうるさいままだ。顔が火照っているのが触らなくても分かった。
「…彼女、いるのかな」
今までずっと気になっていた疑問を思わず口に出す。綾太君がいろんな人に告白されているのは知っているけれども、恋人がいるという話は不思議なことに聞いたことがない。
「でも、オッケーしてくれたってことは…」
沙織の期待するような視線に気づいたわけではないだろうが、不意に綾太がこちらを見た。慌てて沙織は視線をそらす。午後の授業は、それほど苦ではなかった。
伊藤綾香には、自慢の彼氏がいる。整った顔立ちに、線は細いがしっかりとした体つき。誰にでもわけ隔てなく接することができる寛大さ。誰もがうらやむ理想の彼氏だと綾香は自負しているが、唯一、愛する彼にも許せない部分があった。彼は少し、人当たりがよすぎるのだ。今も…ほら、あからさまに好意を向けている女に対して、彼は微塵も疑う様子なく談笑してしまっている。彼女としては不安で仕方ない。浮気の心配はないが(なぜなら、私と彼は愛し合っているのだから)、あれではいくらなんでも相手の女が可哀想だ。容姿端麗な彼にあのような笑顔を向けられては、たとえ脈がなくとも、勘違いしてしまうのも仕方ない。綾香は大きくため息をつく。完璧な彼氏を持つのも、いろいろと大変なのだ。贅沢な悩みに、今度は人知れず笑みを漏らした。
放課後、綾太と沙織は並んで歩いていた。オープンしたばかりのショッピングモールの前は、平日とはいえ人であふれていた。大勢で連れ立っている団体もあれば、カップルと思しき男女もいる。沙織は自分たちもああ見えているのかと、そちらが気になって仕方なかった。だから近づいてきた同級生に、話しかけられるまでは気がつかなかった。
「綾太君やっときたー」
沙織には何が起こったのか理解できない。反射的に隣にいる綾太を見る。意外なことに、彼の方も困惑した表情を浮かべていた。
「あれ?沙織ちゃんじゃーん。なに?偶然?」
「え?」
「綾太君は私と約束してたんだもんねー」
「は?」
綾太君の表情が曇る。そんなことはお構いなしに、同級生ー綾香は話し続けた。
「綾太君は私と付き合ってるんだから、あんまりちょっかい出さないでよ」
沙織は綾太を見る。綾太は静かに首を横に振った。
「付き合ってないよ」
「もう、いい加減怒るよ?綾太君がいくら恥ずかしがりやでみんなに優しいからって、そんなのあんまりだよ!」
勝手なことをまき散らす綾香。戸惑う綾太。見かねた沙織が口をはさんだ。
「そんなこと言って、綾太君は否定してるじゃない。綾太君の気持ちとかかんがえたことないんでしょ?いったい綾太君の何を知ってるの?」
綾香が突然黙って沙織を見た。
「なにを?」
綾香の背筋を冷たいものが走る。
「何をって、全部だよ!全部全部知ってるよ!普段起きるのは六時半、朝ご飯は和食のが好き。お家は五人家族で下にちっちゃい弟君と妹ちゃんがいて、休日は家の裏にある公園に二人を遊ばせに行ってるよね?たまに弟君と妹ちゃんがいない日は、一人でおばあちゃんの家に行って、お手伝いしてるんだもんね!まだまだ言えるけど、何が良いかな?あ、佐藤先生が従兄とか?」
なぜか輝いた目を向けてくる綾香に沙織が何も言いだせずにいると、隣の綾太が口を開いた。
「ごめん、本多さん。俺、気分悪いから帰るね」
「えー、綾太待ってー」
「ちょ、あんたが待ちなさい!」
間一髪で綾香の腕をつかんだ沙織。綾香はジロリとこちらを睨む。
「…なによ」
綾太が逃げるのを確認して、沙織はつかんでいた綾香の腕から手を離す。
「あんたなんかに綾太君は渡さないから!」
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