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「――っ!?」
聞こえるはずの無い声に動きが止まった。生徒達を見ていた視線が、何を追って良いのか解らずに彷徨う。心臓が大きく脈打つのが解った。その音がやけに耳に響く。
背後で教室に入ってくる音が聞えた。足音が後ろで止まる。
「ねぇ」
声を掛けられるが振り向けない。逢いたくない相手がいる。願って已まない相手が後ろに。呼ばれる声に胸がざわついた。衝動を抑えるために鞄を持つ手に力を込めた。
「…ねえ」
そんな背中に相手の手が触れてくる。その手に心臓が跳ねた。けれど、それは感づかれないように装う。
背に触れた手が離れていく。それでも鼓動は収まってくれない。余りにも心臓の音が煩いものだから、後ろに立つ相手に聞こえないかと焦った。
「…ねぇってば。……何で向いてくれないの?」
「……」
訊ねられるが答えられない。夢見の所為で気まずいのだ。何の為に朝から避けていたと思うのだろう。いや、相手は夢の内容など知らない。――いい迷惑か。
諦めたように瞳を一度硬く閉じ、ゆっくりと振り向いた。
「…お前が何で此処にいる?」
振り向いた先には、大きな目を向けて微笑む姿があった。
「やっとで振り向いてくれたね」
頭一つ分小さい視線に目を合わせると、零れ落ちそうな瞳を細める。細めた瞳は夕日に晒され光を帯びた。
そんな姿に胸が震え、唾を飲み込んだ。見続けることが出来ずに顔を逸らしてしまう。
「…答えになっていない」
逸らしたいと思っていても、見ていたいと思っているからか。視界の端にはちゃんと目の前の相手が映る。その視界に少し剥れた顔が映った。
「何だよぅ、怒っているの?…だって…来年受験だから。受ける所を下見しに来ちゃ悪い?」
「――なっ!?お、お前、此処を受ける積りなのか!?」
初耳の情報に思わず顔を向けてしまった。
「そんなの…僕は聞いていないぞ!?」
驚く顔に、大きな瞳は「してやったり」とにんまりと笑った。それから背後にある席に座る。
「だって言ってないもの。その驚く顔が見たくて」
そう言うとガッツポーズを決めた。眉間に皺を寄せながら、自分も自身の席に持たれた。
「…お前の頭で此処を受けれるのか?」
そう、此処は進学校だ。成績が万年中の下の頭でこの学校に入れるはずも無い。一年前程に勉強を見てやった時も、こんなに頭が悪くて高校に行けるのか密かに案じた位だ。
渋い顔をして見てくる視線に対し、これまたニッと笑った。
「ご心配無く。成績は去年から上がりまして、今は上の上位かな。だから、先生に此処の高校はセーフラインだって」
白い歯を見せながらピースして見せた。それに対して口を噤んでしまう。
成績が低い事は知っていた。だから、レベルの高いこの高校を選んだのだ。――後を追って来れないように。全ては計算の上。そう思っていた。
(成績が上がるなんて…)
誤算だった。
何の為に離れたのだろう。小学から気付いたこの想いに、中学には耐え切れずに、高校は違う場所へと来たのだ。
小さい頃から、何時も付いて回るこの瞳が大切だった。何者からも守らなくてはと思っていた。大事にしてきた。そう思っていた気持ちが、何時の間にか違う感情へと摩り返られていた。
自分の気持ちなのに、自分でも気付かずに――だ。
耐え切れなくなった中学時代。歳がいっても相変わらず付いてくる瞳に、何時しか冷たくするようになっていた。気付かれては引かれてしまう。知られたら側にいられなくなる。そう考えるととても恐ろしかった。だから解られないように冷たく接した。
だが、そんな態度にもめげずに甘えてきた。微笑んできた。
その笑みが自分の想いとは違う気持ちだと知っているから、邪な目を逸らさずにはいられない。逸らさないといけないのに、耳はこの声を望んだのだ。そして、己の欲望は触れる体温にざわついた。
そして耐え切れずに進学校であるこの高校を選んで――――逃げた。
「…ねぇ、聞いている?」
セリフにどきんとした。それを隠すために更に眉間の皺を深くすると、鞄を乱暴に掴んで教室から出ようと歩き出した。
「あっ!待ってよ!」
驚き、慌てて後を付いて来る。
「…ねぇ、待ってってば!」
無視を続けて教室を出た。昇降口辺りまで来る。それでも小走りで付いてきた。
「ねぇ、待って!!お……」
行き成り立ち止まる背中に、頭一つ分低い背がぶつかった。振り向かずに冷たく言い放つ。
「……お前にそんな風に呼ばれたくない」
次に紡がれる言葉が解った。だから立ち止まった。その口からそんな風に呼ばれるには、まだ心の整理が付いていない。まだ時間が欲しかった。そう呼ばれる為の時間。この気持ちを亡くす為の――。
背後で息を飲むのが解った。けれども、それを気に留める事も無く昇降口を下りていった。




