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【1】平成の大雪 その1 4

◇ ◇ ◇


試験は予定より数時間遅れで始まった。


席にかなりの空きがある。


ここまで辿り着けなかったのか、あるいは最初から諦めてしまったのか。


ちらりと横目で見る窓は結露でまったく外が見えない。


けど、雪は止む気配がない。


来れなかった学生の事情もわかる。


けど、様々な理由があっても、受験できなければ何も始まらない。


間に合って良かった。


最初のうちは気が昂ぶっていたから気にならなかった寒さが、時限を重ねるにつれてこたえてくる。


何度もすべって転んだ雪は身体を確実に冷やしていた、ポケットに入れた使い捨てカイロのあたたかさがありがたかった。


一科目目、二科目目と試験は順調に進み、最後の科目、英語を残すところまで来た。


英語。


やっぱり苦手なんだよね。


裕は指をすりあわせて息を吹きかけた。


今年はヒアリング問題が多めに用意されていると予想されたが、その通りの問題構成だ。


模試で何度か体験済みだけど……聞き逃さないようにしなくちゃ。


そして試験時間がやってくる。


先に筆記、最後にヒアリング試験の順番で英語の科目は進み、今日の試験は終了する。


筆記は、途中、えんぴつさいころの出番があった。コロコロ転がしたりもしたが、なんとかマークできた。


ここまできたら神頼みするしかないよ、と、次の試験の開始を待った。


筆記止め―の合図が校内アナウンスで流され、次に、ヒアリング試験内容についてのガイダンスが始まり、続いて参考問題が続く。


この早さで、問題は読まれていきますよ、という案内なのだが、試験場の空気が一気に張りつめた。他の受験生の戸惑いが伝わってくる。皆、考えることは同じだ。



うわー、早い。

癖がひどい。

聞き取れない。

想像以上だ。

ついていけるかな……。



ご多分に漏れず、裕もぽかんとする。



だめ、あがりそう。もうだめ。白紙回答になる!


おばあちゃーん!



頭が真っ白になりかかった時だった。



ぷちり。


いきなり音声が途切れたのは。


裕はぱっと顔を上げた。彼女だけではなく、他の学生も、試験官も、そろって教室前方に据えられているスピーカーを注目する。


「そのままで待つように」言いながら腰を浮かせた試験官の声にかぶって、スピーカーからはもごもごと会話が流れてくる。


「どうしたんだ」明らかに焦っている声だ。


「テープが、ヘッドに噛んでしまったようです」静かに語る声は……



うわああ。叔父さんだあ……



裕は思わず頭を抱える。


「噛んだのはわかる、スペアを用意したまえ」


「スペアもなにも、ここまでヘッドに食い込むと引き出すのにも時間がかかります」


「何とかしたまえ、尾上君! 直せないのか」


「プレイヤーとテープの予備を出しましょう、そちらの方が早い。どのみち、これはもう使えません」


「そ、そうだな!」



ごそごそごそ。


放送室の面々があっちこっちをひっくりかえしているらしい音が聞こえてくるが、何の解決にも繋がっていないのが、あたふたした様子から伝わってきた。


そこへ、ばたんとドアを開け、勢い良く駆け込んできた職員の声がかぶさる。


「先生! マイクが! 入ったまんまです! 全て筒抜けになってますーーー!」


なにーー!! と素っ頓狂な声が上がり、続いて放送はぶちりと切れた。



ざわざわざわ。


生徒達は口々に不平不満を言う。


「どうなるの」


「おいおい、試験始まるのか?」


「だめだ、もうだめだあー」


「滑るー」


「落ちるー」


「落ち着きなさい、みんな、落ち着いて! 指示があるまで待って! 今様子を見に行くから! そのまま待っていなさい!」


試験官が大声で指示を出し、監督生が数人、教室を出入りして隣の教室と行き来する。向こう側の校舎から、「奴はいないか!」「どこにいる!」と誰かを探す声が、裕たちの元まで聞こえてきた。



えっと。今の名前。



裕は首を傾げる。



聞き間違えじゃなかったら……あいつのこと?



スカートの上からポケットの辺りをさぐる。


まだまだ温かい使い捨てカイロを彼女に放って投げた、彼のことだ。


「いたあーーー!」


「すぐ放送室へ行け! いますぐー! ダッシュー!」


悲鳴のような声と、どたばたと走る足音。


「……何事だ……」


試験官のつぶやきに応えるように、こつこつとマイクを叩く音の後に、若い男の声がスピーカーから流れてきた。


「音声、入ってますかあ?」


やっぱり。


「聞こえてますか? オッケー? それはよかった」


あいつだ。


人のことをいつまでも『ひろし』と呼んでくれる、彼だ!


目を半目にして、裕はスピーカーを凝視する。


後ろでこそこそ出す指示を、はいはいと受け流して彼は続けた。


「これからヒアリング試験問題を、ぶっつけ本番で音読することになった。自分もとちらないようにするんで。せいぜい耳の穴かっぽじいて聞いて答えるように」


こらーっ、余計なことは言わんでよろしい! と後ろで叫ぶ声と、まあまあと諭すおそらく叔父の声が交互にする。


二つ返事で、彼は後ろにいるであろう教官を受け流し、続けた。


「これも何かの縁だ、受験生諸君。全力を傾けろ、俺も、時間通りに終わらせてお前らを帰せるようにつとめるから。で、学校で会おう!」


何かっこつけちゃってるの。


裕はえんぴつをぐっと握り締めた。


でも……力をもらえる気がするのは何故?


がんばれとエールを送られている……と思うのは私だけなのかな。


二三、指示が出された後に中断していたプレ問題が再開される。そして本試験。


あれ、と裕は思う。


さっき流れた声とまったく同じなのに、癖も何もない。


これは、正統なキングスイングリッシュだ、叔父も似たような発音をしているからわかる。


濁りなく聞き取りやすい、心に染みる言葉の端々が心地良い。


そうだ、叔父さんが言っていたっけ。


彼の英語力はピカイチだ、英語と米語の微妙なニュアンスの違いや発音まできちんと区別して再現し、使いこなせるのだと。


テープの問題を吹き込んだのも、今、マイクの前で音読しているのも、どちらも彼が担当していたんだ。


ずっとこのまま終わらなければいいのに。



いつまでも聞いていたいのに……



試験時間の三分の一にならんとするヒアリング試験は、裕にとっては流れるようにスムーズにあっという間に終わってしまった。


白紙にならずに提出できた試験、自己ベストに近い出来だった。



終わった。

試験終わった。



そして……長い日がこれから始まる。



試験終了の合図と共に裕は教室を飛び出した。


外はとっぷりと暮れ、止む気配が見えない雪は固く積もりに積もっている。


これから、両親が待つ、祖母の元へ行かなくては。


電車、動いているの? 先にお父さんたちに連絡した方がいい?


公衆電話はどこ??


校門前には、保護者らしき大人たちが傘をさして受験生を待ち侘びている姿が見られた。その群れを抜けようともがいていたら、がしっと腕をつかまれた。


「ああ、いた! 良かったわ! 会えて!」


「秋良……?」


こくり、頷く相手は、裕の従姉だった。


「秋良、仕事は? フライトだったんでしょう?」


「ええ、そうなの!」


客室乗務員の彼女は一見してわかるまとめ髪とメイクと旅支度をしている。着替えもそこそこ、制服にコートをひっかけて飛び出してきたのがもろバレだ。


「元の空港に引き返すか、関西方面とか別のところへ行っちゃうかと思ったのだけど、無理矢理羽田に降りてくれたのよ、助かったわ!」


「ホントは成田着なんだよねえ」


「ええ、そう。お客様には災難だけど、私にはありがたかったわ」


「うん……」


そこで従姉妹同士、がしっと抱き合った。


「おばあちゃん……」


「ええ、聞いているわ」


「死んじゃったんだって」


今さらのように泣けてきた。そう、今は故人を惜しんで泣く時だ。


「とにかく急ぎましょう、もう空の便は使えないわ。新幹線が辛うじて動いているらしいの。行けるところまで行くわ。いい?」


「う、うん」


ここは非常時に慣れた従姉の存在がありがたかった。


「裕、秋良君」叔父、慎一郎だ。


「慎一郎さん」


「君が帰って来てると義姉さんから連絡が来たんだ」


「加奈江叔母様から?」


「そう。合流できたのなら、後は頼んでもいいね」


「はい、おまかせください。母達へは……」


「私の方からすぐ電話を入れておく、気をつけて行きなさい」


「ええ」


じゃ、裕、行くわよ、と、ヒールなのになんでこんなに早く歩けるんだと感心する足取りで先を行く従姉に腕を引っ張られ、ふと振り返ってみた。


叔父の向こう側にいたのは、彼だった。


目が合ったと思ったら。強く頷かれた気がした、行って来いと。


裕は言った、彼に向かって、「ありがとう!」と。


今日はほんとうにありがとう。


そして彼の名を……


叫びたかった。



けれど、往来を行く数多の人に遮られ、届かなかった。



いいえ、それは言い訳。



ほんとうは「ありがとう」も言えなかった。


照れくさかったから。



人の名前を口にするのが恥ずかしくなることもあるんだ。



非常時だというのに、何で気になってしまうんだろう。


裕は何度も自分に問い掛け、反芻した。



のろのろ動く新幹線が、雪を食むように進む、結露だらけの車窓を見ながら。



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