【1】平成の大雪 その1 3
知ってる、こいつ。
叔父の研究室で何度か顔を合わせた、教え子だとかいう、彼。
この雪の中、信じられないくらいの軽装で、少し長い髪を風雪に遊ばせている。
ボトムのジーンズにはカラビナで止めたキーホルダーが複数ぶら下がっている。
名前は、忘れた。
……意地でも覚えてなんかやんない。
人のこと、出会い頭に『ひろし』だなんて呼んで。以来ずーっとそうなんだもの!
むかつくーっ!
「お前、何でここにうずくまってんの」
「あ、あんたに言う必要なんかないもん」
つーんと顔をそびやかして、裕は彼方を向く。
その際、涙で濡れた頬を手の甲で拭うのを忘れずに。
「あ、そうー」
立ち上がりながらぱんぱんと膝を叩いて雪を落とす彼は言う。
「てっきり受験に間に合わなくて困ってるんだと思ったんだけど? 違うんだ」
ぐっと言葉に詰まった。
「だよなあ、今、最初の科目の試験中だもんな。受験生がここでのんびり油売ってるはずないもんなあ」
意地悪だ、こいつ!
人が困ってるの見て、面白がってるんだ。
絶対こいつにホントのことなんか言ってやんない!
また、目の前が涙でぼやけた。
試験。間に合わなかった。
「……バチがあたったんだ」
裕は口走っていた。
「は?」
「おばあちゃんが怒ってる」
「何言ってる……」
「今日お通夜なのに入試の方を取ったから。おばあちゃん、悲しがってるんだ。お葬式より大切なことなんてないのに……」
「怒ってない!」
怒った声で、彼は言う。
「……亡くなったのか」
「うん」
「いつ」
「きのう……今日お通夜で……明日がお葬式……でも、この雪じゃ、今からここ出ても間に合わない……」
「場所、どこだ」
「新幹線で行くところ」
彼は、「そりゃ……間に合うかな」とぶつぶつ言いつつ、きっぱりと言い切った。
「間に合う! 試験受けてからでも充分間に合う! ばあちゃん、お前のこと待っててくれている!」
「根拠、あんの?」
「お前がはなから諦めてどうする!」
「うん……そうだね」
裕は風にあおられっぱなしの髪を撫でつけてまとめる。
「だけど、試験……もう始まっちゃったもん……」
頬を真っ赤にして鼻を鳴らした時だった。
「君、尾上先生のところの」何とも麗しい美声が届いた。
この声は。
裕は寒さと悲しさ染めたのとは違う、恥じらいの色を顔に浮かべた。
裕の叔父はとにかく背が高い。彼より背が高い男性に、裕は会ったことがなかった、今、現れた人以外では。
雪の中にあるとそのまま同化してしまいそうな整った容姿。近くに寄ると恐い、遠くでなら眺めていたい人。
「柴田……さん?」
こくり、頷いた相手は柴田麗だった。彼の隣には叔父の研究室で顔なじみの他の学生もいて、彼女に「やっほー」と手を振っている。
「君、受験生だろう、早く会場へ」麗は裕にそう言い、隣に立つ彼に向かって顔をしかめる。
「お前、案内は」
「ああ、これからするつもりだったけど」鼻の脇を指の関節でこすって彼は言う。
「ちょっと、話相手、してみた」
「お前という奴は……」麗は額を押さえる。
「私は他の受験生をピックアップするから、お前も役目に戻れ」
「ああ、わかった。すぐ行く」
「……どういうこと?」
大股に去って行く麗達の後ろ姿を見ながら、裕は聞いた。
「この雪だろ、交通機関が軒並み麻痺してるから、試験時間が繰り下がってるんだよ」
「じゃ、試験は」
「まだ始まってない。俺たちは今年、試験の監督役で学校にいて。今は受験生の案内に駆り出されてる。皆が皆、試験時間の繰り下げを知ってるわけじゃないから、お前みたいに絶望してる奴を拾って回ってるってわけ。車内放送で受験開始時刻を遅らせるって言ってなかったか? 鉄道会社に頼んだって話だけど」
「……わかんない……なんか言ってたかもしれないけど覚えてない」
「ま、そういうもんだよな、この天気だし……余裕なくて当然だ」
彼は手を差し出した。
「さあ、立て。いつまでもそこに座っていたいというなら止めないけど?」
「案内って……」
「ん?」
「会ったのが柴田さんの方が先だったら、同じ風にしてくれたのかな」
「ああ、多分な」
「私、あっちの方がいい」
「はあ?」
「柴田さんに。頼めないかなあ。だって、かっこいいし。王子様みたいだし。優しいもん」
「ああ、そうだろうさ! 王子様あ? 奴がかあ?」と口をとがらせ、文句を言う彼は、後ろ手で手を差し出した。
裕は、無意識でその手を取る。
指先が触れた瞬間。
ばちっと火花が散った……気がした。
「いてえ!」彼は叫ぶ。
「痛い……」と裕も出した指を引っ込めた。
「静電気かよ!」ぶるぶる手を振って彼は顔をしかめた。
「怒りっぽいだけじゃなくって放電もするのか、お前は!」
「あ、あたしじゃないもん! それを言うならあんたの方こそ!」
「ひとつ言えばふたつみっつ返ってくる女だな、お前は!」
さあ、と再度差し出された手を、今度も裕は握った。
雪にかまわず、まるでアスファルトの上を走るように歩く彼と、何度もずるずる滑る裕。
最初は引きずられ、転んだ彼女は、すってん! と派手に尻餅をついた。
すでに靴下は雪まみれ、素足なのだからタイツもストッキングもはいていない。
「あーあ」
彼は頭をぽりぽりかいた。
「東京もんは、ホントに雪に弱いな。……パンツ、丸見えだぞ」
「きゃー! きゃー! きゃー!」
少し短めのスカートはめくれかえり、まったく役立たずで下半身を見事に晒している。慌てて裾を直しても、もう遅い。
「見た! 見たでしょう!」
「見えたさ、仕方ないだろ。そんだけぱーんとひっくり返ればパンツのひとつやふたつ……」
「言わないでーっ!」
「そんだけ元気になったら、試験、受けられるだろ」彼は口調を和らげる。
目尻に柔らかい笑みを浮かべられて、裕はどきりとした。
何、今の顔。どうしてそんな顔するの。
さあ、立て! と裕は少し乱暴に立たされ、ほとんど引きずられるように腕をつかまれて雪道を歩いた。
いくつか四つ角を抜けた頃にはすんなり歩けるようになっていた。
彼が、合わせてくれているんだ。
二度目に手を取った時、静電気は起きなかった。三度目の今もそう。
けれど、静電気より衝撃的だった。
男の人の手を握るのは何も初めてじゃない。
体育の時間でダンス踊ったり。
これでも男子にもてないわけではなかったから、握手して下さいとか、言われたことも何度かあった。
でも、その誰とも感じたことがない調和。
掌を通して流れ込んでくる、温かな温もりは彼女の心にさざ波を起こす。
何なんだろう。何かがささやきかけてくる。
何かはわからない、でも、これは終わりではなく始まり。
今日、この時。
何かが始まるのだと思った。
彼女より先に往く、雪にけぶる彼の背中は広く、大きく、頼もしかった。
「ここまで来たら大丈夫だろ」
彼は校門を指差した。
煉瓦の隙間に雪が積もっていた。
「早く中へ入って雪をしっかり落として。温まってこい」
ばんと背中を叩いて、彼は裕を送り出す。
「これから……どうするの」
「俺のこと?」
フードに積もる雪を払い、今来た道に視線を配る。
「迷える受験生を一人でも多く探してくるさ」
じゃあな、と行きかけ、「これ、持って行け!」と裕にポケットの中身を投げた。
使い捨てカイロだった。
「いい、もらえないよ。これないと寒くない?」
「俺、北育ちだからこの程度の雪ならへでもない。お前の手の方が数倍冷たい。いいから使え。で、ついでに濡れたパンツも、乾かしとけ」
何てこというの! 顔を真っ赤にして裕は叫んだ。
「だっ……大っキライ!」
「そいつはよかった!」彼は陸上選手がトラックをすいすい走るように駆け出す。
ぷりぷりしながら校門をくぐって、後ろを振り返った時、もう彼の姿は見えなくなっていた。