【1】平成の大雪 その1 2
この日、関東甲信越地方の天気予報は雪。見上げる空は燦々として青く、どこに雪がひそんでいるのだと笑ってしまうような空模様だった。
けれど、大雪に警戒しろと天気予報は普段よりうるさく報じていた。
「何があるかわからないから、交通機関が動いているうちに出るわ」母はあちこちに電話をかけながら慌ただしく仕度をした。
「ああ、一刻も早く出た方がいい」父もてきぱきと手配をする。
「私……」裕は茫然としていた。
おばあちゃんが、死んでしまった。
もうすぐ入試なのに。
そして、大雪? ホントなの?
パニック状態だった。
「おとうさん……」力なく裕は父の腕に縋る。「私も行く、おばあちゃんに会いたい」
政ははっとなる。
「お母さんとお父さんと一緒に出かける」
「入試はどうする、明日だろ」
「……行けないよ……」
しんとした居間で、時計の音だけがこちこち響く。
「行ってこい」父は娘の肩をばんと叩いた。
「ちゃんと、試験受けて、それから来い。おばあちゃんは待っていてくれる」
「父さん……」
「約束したんだろ、合格したら正月のやり直しをするって。じゃ、試験受けてこい! 必ず受かる保障はないが、棄権したら不合格決定だぞ」
あーう、と猫が鳴いた。合いの手を入れるように。
「そうね、がんばってらっしゃい」母も言う。
「けれど、雪が心配だわ、ここから都心まで出られるかしら」
「そうだな」
「今日中に学校の近くへ移動したほうが良くはないかしら」
「うん、その方がいい」
「姉さんは……だめね、もう母さんのところにいるから高輪の家は留守だわ」
「慎一郎に連絡してみよう、青山からなら、いくら雪がひどくても充分試験場までつけるだろう」
兄からの連絡を受けた叔父・慎一郎は心底申し訳なさそうに言った。
「残念だが……お役に立てそうにない」
「何でだ!」
「普段の年ならよかったのだが……自分は今年、入試の運営に深く関わっている」
「それがどうした」
「事情が事情だから多分、大丈夫だとは思うが、身内とはいえうちの学校を受ける生徒を自宅に泊めると問題視される可能性がある」
「監督だか責任者だか知らんが、それ辞退しろ! 緊急事態だからって!」
「無茶言わないでくれ、兄さん」
ちくしょう、使えない奴だ、と父は電話をがっちゃんと切った。
方々の宿泊先を当たってみた。どこもかしこも満室だった。予報を受けて部屋を押さえた企業にすでに押さえられた上に、もともと入試シーズンだったので予約が埋まっていて、裕が泊まれる部屋はどこにもなかった。
あと他に知り合いは……と両親が電話帳をめくっていると、裕は言った。
「大丈夫、私、自分のことは何とかする。ここから行く。もう子供じゃないもの、自分のことはなんとかする」
「だって、電車が止まったらどうするの」
「だってさ、予報でしょ。当たるかどうかわからないじゃん。こんなにお天気いいのに。雪降るとかあり得なさそう。あってもちらちら程度じゃない? 朝うんと早く起きて、始発電車に乗るつもりで行くから。だから、お母さんとお父さんは早く出て。私、がんばるから!」
何度も振り返りながら出かけた両親を送り出し、裕は目覚ましを片っ端から早い時間にセットした。
朝にあわせて、早く寝よう。
明日のことは……明日考えよう。
お隣さんに一週間分以上はありそうなごはんごと猫を預けた。
しばらく留守にします、面倒みてください、とお願いした。困った時はお互い様、と請け負ってくれた。嬉しかった。
たった数メートルの距離、仰いだ空は灰色だった。
ぞくりとする。
雲が厚い。天気予報……当たるかもしれない。
どうか、外れて。降ってもいいけど、ちらちら程度で止まってほしい。
祈りながら広い家にひとり、寝た。せめて猫を抱いて寝たかった。寒くて、時々涙が浮いて来たけど、試験のことだけ考えた。
めざましが鳴るより早く起きた翌朝、異様に静かだった。
朝ってこんなにしんとしてたっけ。そして……寒かった?
まさか、と裕は飛び起き、窓へ向かった。
そこに拡がるのは一面の雪景色。
積もった雪はすでにうっすらレベルではなかった。
彼女は青ざめる。
大変! 急がなきゃ!
大慌てで服を着替え、コーヒーを飲んで、ばたばたと家を飛び出した。
家から出た電車はほぼ定時出発。
最初のうちは順調に運転してると思われた。でも、徐々にスピードは遅くなる。
そして止まることが多くなった。
ポイントを飛び越す度に鼻につくのは揮発油の匂い。凍りつかないように火が灯されていた。でもいつまで役に立つだろう。
まだ暗いうちに出たつもりなのに、外はどんどん明るくなってくる。
どうか運転見合わせになりませんように、少しでも早く着きますように!
だって、あと少しで受け付け開始時間なの!
焦る彼女の心にまったく添わず、電車はちっとも動かない。
やっとのことで試験場の最寄り駅に着いた時は、受付時間はもとより、試験開始時間にも間に合っていなかった。
終わっちゃった。
私の受験、これでおしまい。
ばいばい、夢のキャンパスライフ……
人がまばらな、真っ白い駅前で、裕はぺたりと座り込んだ。
睫毛に雪が絡んで冷たい。けれど涙は熱い。
やっぱり、まっすぐおばあちゃんの所へ行ってればよかった。
父さんがいつも言ってるように、私は白鳳へ行けない人だったんだ。
私、子供だ。何にもできないんだ。
裕は、うわーーんと泣いた。
一度泣き声をあげたら後から後から涙があふれて止まらなかった。
雪は彼女の上にどんどん降り積もっていった。
ひろし???
雪と一緒に降り注ぐ、名前。
ひろし、って。
誰、それ。
違いますけど。
私、ひろしじゃない、ゆうです、ゆう。
「やっぱ、ひろしだ。だろ?」
頭上から、驚く程間近から聞こえてきて、裕はぱっと顔を上げた。
「ぶっ!」
「きゃっ!」
とても勢い良く顔を上げたので、裕は相手とごっつんこする形になった。
「痛い…………」
うずくまり、額を押さえる彼女に、相手は口元を押さえ、言った。
「危ないなあ、この女は! ちったあ回り見ろ!」
ちゃら、とキーホルダーが金属音を立てる。
この音は、そしてこの声は。
「あんた……」
裕は目を三角にして睨んだ。