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寝ぐせ姫~いつも一緒に~  作者: 蟻屋紋吉
第8章 寝ぐせ姫の涙
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第8章 寝ぐせ姫の涙(11)

 火にかけられたやかんから勢いよく立ち上る湯気と音の中、みつきは台所で白いカップをじっと見つめ微動だにしなかった。


「おい、みつき…お湯、沸いてるぞ…?」

「え…?あっ、ごめっ…」


 一成に声をかけられて、みつきは初めて甲高い汽笛のような音とともに立ち昇る大量の湯気に驚いたようにやかんに手を伸ばした。しかし、動揺のまま伸ばされたその手が立ち上る蒸気の上を横切るとみつきはその熱さに思わず手を引いていた。


「あっつ…」


 蒸気の熱さと一成に声をかけられた事に頭が混乱し、熱せられたやかんの取っ手の熱さに驚いたみつきの手が離れると、やかんは床に綺麗な放物線を描きながら落下し始めた。


「危ないっ」


 一成がみつきを強く引き寄せて、台所に飛び散る熱湯からみつきを遠ざけた。もし一成が引き寄せなかったら、いまごろみつきの足は熱湯にまみれ大惨事になっていただろう。みつきが先ほどまで立ち尽くしてたその場所にやかんがしゅうしゅうと熱気を湛えて転がっていた。


「大丈夫かっ?」


 湯気とはいえ沸騰した蒸気の熱さは想像に余りある、みつきより先に我に帰った一成が慌ててみつきの腕を引き寄せると、みつきはそんな一成の腕から自分の腕を守るように奪い返した。


「やっ」


 それはとても小さな声だった。けれどあきらかな拒絶がのせられたその声音に、一成は体中から血の気が引くのが分かった。一成から身を守るように背けられた小さな背中、そこから聞こえた小さな拒絶に胸を貫かれ、一成はその胸の痛みに悲しみが広がるのを抑えがたかった。


「ごめん…だいじょぶ…」


 みつきが絞り出した声が震えていた。みつきの声が何に震えてるのかなど考えたくない、一成はただ振り払われた腕を軽く握り締めそしてゆっくりと下に降ろした。


「こっちこそ…ごめん…」


 一成の絞り出した声は不安に駆られ、一成はあまりの苦しさにその場に崩れてしまいそうだった。プレゼントに浮かれてみつきが待っているような気になっていた。自分から手を放したくせにまた自分が手をさし伸ばせばそれで全部がもとに戻るんじゃないかと都合のいい事を考えていた。一成はそんな自分の浅はかさを、そして自分の思い上がりを攻め立てた。


「ううん…あたしのほうこそ…ごめん…」


 みつきは顔を背けたまま小さくつぶやくと、ヤケドした手を握り締め小さなボールに氷水を作った。もたもたと不器用に氷水に指を浸し、みつきはその唇を噛み締めていた。いつもより無造作にはねている髪、それは触れるととても柔らかく一成の手のひらに愛おしさを運んでくるはずだった。けれどいまはもうその髪にすら触れることも出来ない。


(―みつき…)


 一成はすぐそばにあるにもかかわらず、やけに遠く感じられるみつきの小さな体を見つめていた。こんなに近くにいるのに今は手を触れることも出来ない、触らないでと拒絶されたことなど今まで一度もなかった。大丈夫か、そう声をかけることも心配することすら拒絶されそうで一成はそれすら怖くて出来なかった。一成は押しつぶされそうな胸の苦しさから逃れて、その場から逃げ出したい気持ちになっていた。


(―言えない…怖くて言えない…お前に、言いたかったことがあったんだ…ごめんと謝って、そしてありがとうといって…それよりもっと、大事なことを伝えたかった…)


 ぎゅっと握り締めた拳でどうにもならない思いを握りつぶし、どこかに捨ててしまうことはできないのだろうか。一成は思いを伝えることの難しさの前に固い決意が打ち崩れていくような気がしていた。


「も一回お湯沸かすから…ごめん、カズ、ちょと待っててね」


 みつきがやかんに水を張り、もう一度火にかけなおしたのを視界の端に捉えながら一成はもう何も考えられなくなっていた。みつきはぎこちないながらに笑顔を浮かべ、立ち尽くしたままの一成のほうへ声をかけたけれど、一成はその顔を見ることが出来なかった。



 みつきは一成の視線があらぬ方向を向いている事にその笑みを曇らせ、そしてまた氷水に指を浸して小さく溶けはじめた氷をもてあそびながら口を開いた。

「カズ…あの…ありがと…さっき…かばってくれて…」


 途切れ途切れの言葉、その中にいつもならみつきのどんな思いが込められているか分かるはずなのに、今の一成にはその想いの欠片すら見つけることが出来ない。一成はみつきにいわねばならない言葉の中で一番最初に浮かんだ言葉を返事の変わりに口にしていた。


「…みつき…その…ごめん…」

「…え…?なんのこと…?」


 みつきは一成の謝罪にふとその瞳を瞬かせると、氷水から指先を引き抜いてタオルに包み込んだ。一成はその指先がまだ少し赤みを帯びていることを目にしながら、その指先とみつきの言葉からその瞳を逸らして口を尖らせるように言葉をつなげていく。


「何って…その…いろいろ…と…」

「…いろいろ…?」

「その…バレンタインのこととか…?」

「バレンタイン…?それならあたしが悪いんだよ…」


 かみ合わない会話、言いたいことが言いたい様に出てこないもどかしさ、一成は息の詰まりそうな会話にとうとう言葉を詰まらせた。謝るべきこと、言うべき言葉があふれ出すのに、それは何一つ一成の手につかめなかった。言葉の渦に翻弄されて一成はうまい言葉を探し出せないまま気まずい思いで口を開いた。


「いや…あれは俺のせいだ。俺がちゃんとうまく対処できてたら、お前はあんな思いをしなくてよかったはずだ」

「ちがうよ…カズのせいじゃないよ。カズはちゃんと助けてくれたでしょ?あたしがいろいろ面倒な子だからいけないんだよ…」


 互いが互いを悪くないと庇いあう、それならば一体何が悪くて自分達はこんな息の詰まる会話をしていなければならないのか、一成はすれ違う会話に何度も自問自答しながら頭をふるしかない。


「面倒ってなんだよ…お前は何も悪くないだろ…」


 みつきが一成の言葉のひとつひとつに首をかしげ、一成は握り締めた拳に力をこめて繰り返し自らを攻め立てる。答えの見えない言葉の押収に、とうとう生まれた沈黙をみつきの静かな声音が打ち崩した


「…もういいよ…」


 そのみつきの声音は執拗に自らを貶める一成の口調を諌めるのとも慰めるのとも違い、何かを諦めてしまったような悲しい響きを持っていた。


「もう…いいんだよ…」


 言葉を重ねるみつきの声音はひどく落ち着いていた。いや、落ち着いていたのではなくただ抑揚をかいていた。感情が欠落した言葉の羅列、その生気をかいた言葉にもなぜか一成はみつきが泣いているように思えた。そんな風に頼りなげにみつきの体が小さく震えているのに、一成は手を差し伸べることも出来なかった。


「…悪いのはあたしだけだよ…総兄ぃがカズを殴っちゃったのも、カズが殴られちゃったのも…全部あたしのせいだよ……誰だってこんな面倒な子…やだよね…」


 みつきが一成から視線をそらし、何かに耐えるように両手で自らの体を抱きしめた。その瞳は何も写さず、冷たい感情だけをのせているように一成には見えた。


「ごめんね…カズ…面倒なことに巻き込んで…」


 みつきの怒っているのとも憎んでいるのとも違うやけに冷たい瞳は、一成がこれまでに一度も見たことのないものだった。いつも喜びと希望を称えていたみつきの瞳とは思えないほど、そこにはすべてを割り切ってあきらめたようなむなしさが広がっていた。


「あたしね、学校辞めるの…辞めて総兄いのところに行って、夏には…お母さんのとこに行くんだ…」


 みつきの母のいるところ、そこは今の一成にはおいそれと追いかけていくこともできないほど遠い場所だ。一成はみつきの口調が事務的に動いていくのを見つめながら、思った以上に総一郎の素早い対応にただ立ちつくしかない。みつきは遠くに焦点を結んだまま動かない一成の瞳を見つめながら、その瞳が自分を見つめ返さないことに小さく吐息をつくと床板の継ぎ目に視線を彷徨わせた。


「今日はそれを話したかったの…」


 乾いた笑みを称えたみつきの声音が痛いほど一成の胸を貫いた。元に聞いただけでは信じるつもりなどなかったあのバイバイの意味に、一成はその場に崩れてしまいそうだった。


「カズ、来てくれてありがと。直接言えて…良かった」


 みつきは一成の中で出た答えとは違うゴールに辿り着いてしまっていた。スタートは同じはずだったのに、気がついたら二人はまったく違う場所に立っていた。一成が手繰り寄せた糸の先にみつきはいなかった。


「ありがと…カズ…」

「みつき…?」


 最後に背けたみつきの肩が震え、その頬に大粒の涙が伝い落ちていた。一成はその涙に腕を伸ばしそうになったけれど、その手はみつきに届かなかった。


「さよならっ」

「みつきっ」


 不意をついた形で走り抜けるみつきを一成は捕まえ損ねていた。みつきの涙に伸ばした腕が空を掴み、一成の目の前でみつきの寝室の扉が勢い良く閉じられてしまった。


「みつきっ、みつきっ」


 寝室の扉と一緒に、みつきの心の扉は頑なに閉ざされてしまった。一成が扉をたたく音とその呼び声だけが扉に跳ね返って一成に響きわたる。一成はすぐそばで聞こえるみつきの嗚咽に胸を押しつぶされそうになりながら、一成の言葉がみつきに届くように語りかけた。


「みつき…開けてくれ…ちゃんと話そう…みつき…」


 一成の呼び声はむなしくこだまし、体中に反響するみつきの涙が一成の足元を揺るがし続けた。立ち尽くす一成の耳に台所から再び沸騰を告げる甲高い音が届くと、一成はまたその音に体をこわばらせ少し迷ってから台所に入った。


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