第8章 寝ぐせ姫の涙(10)
一成は皆の温かさに感謝しつつまっすぐにみつきの家をめざして走り続けていた。そして弾む息のままオートロック式マンションによく見る入り口のインターフォンの前に立ち、カメラ付きなのを思い出した。
走り続けたことで浮いた額の汗、北風に乱れきった髪、それらを軽く手直ししてからインターフォンに手をかける。一度目のチャイムのあと、少しの間をおいてもう一度ボタンを押した。
(―みつき…出てくれ…)
一成は二度目のチャイムの後にもみつきの反応がないことを悟ると、頭をもたげる不安に瞳を閉じた。不在なのかそれとも居留守を使っているのか、一成は後者でないことを祈りながらインターフォンの前でみつきの気配を伺っていた。
(―だめか…?)
一成は何かを振り払うように2、3度大きく頭を振って、ふ~と大きく息をつき何もない壁を睨みつけた。そして気を取り直すように一度咳払いをしてから居住まいを正し、少し震える指で3度目のインターフォンを鳴らした。これで出なかったらマイスナに行ってみよう、一成はそう思いながら緊張と不安にしめつけられる胸を押さえた。
最後のチャンスとばかりに意を決した一成の想いは、チャイムの音と共に掻き消えた。長い沈黙は一成の闇を広げたけれど、一成が最後の望みにマイスナに足を向けたその時、一成の耳にみつきの舌足らずな声が届いた。
「…カズ…?」
機械を通して少しくぐもっているけれど、それは確かにみつきの声だった。一成のあきらめにしぼみきった心が再び期待に膨らみ始め、その声音が緊張と興奮に高まるのをようやく抑えながら一成はインターフォンに詰め寄るように口を開いた。
「みつき……ちょっと……ちょっと、今……話せるか…?」
何から話すか、その前に、まずはみつきに対面することが大きな課題だった。ここを乗り越えられなければ、目の前の扉は硬く閉ざされたままだ。一成の呼びかけのあとのみつきの長い沈黙に、一成は膨らんだ期待が音を立ててしぼんでいくように感じた。
「悪い…迷惑…だったな…」
思わず浮かべた落胆に絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。床に置いたカバンを取ってせめてみつきに未練がましく見えないように、一成は精一杯の虚勢を張ってきびすを返した。マンションの自動ドアが小さな音を立てて開いたとき、一成の足が止まった。
「待ってっ…カズっ」
みつきの叫びにも似た声がすがるように一成の背中に追いついた。その声に一成の虚勢はもろくも崩れさっていく。
「みつき…」
なりふり構っていられない、みつきの呼びかけに一成は弾む胸を押さえられなかった。けれど、再度詰め寄るように覗いたインターフォンからはみつきの重苦しい声が届いた。
「…どぞ…入って…」
かちっと、第一の扉が開かれた音が一成の耳に届いたけれど一成の落胆は広がっていた。
「…ああ…悪い…」
一成はみつきの抑揚のない声音に広がる不安と緊張に顔をこわばらせたけれど、開いた扉の向こうにかすかな糸をたどるように足を踏み出した。
一成は第二の扉の前に立ってもう一度チャイムを鳴らした。コートとカバンを片手に一成はみつきにどんな顔を向けるべきか迷いながらしばらく待っていた。
「お待たせ」
みつきは顔を伏せたまま一成を中に招き入れたけれど、明らかに一成と視線を合わせないよう努めているように見えた。一成はそんなよそよそしいみつきの様子に胸を鷲づかみにされたような痛みを覚えた。どんな顔で何を言おうか、そんな逡巡は無駄骨に終わった。
「ごめん…突然…」
ぎりぎりと締め付けられるような胸の苦しさの中でそれだけを搾り出すと、一成はみつきに招かれるまま一歩足を踏み出した。玄関先でする話でもないけれど、上がりこむのもはばかられるようなみつきの態度、一成が二の足を踏めずに立ち尽くしているとみつきが伏せた視線のままぽそりと囁いた。
「どぞ…あがって…あたしも話…あるの…」
第二の扉は開かれた、残された扉はあと一つ、みつきの心の扉だけだ。けれどその扉はとても遠くて、一成はその遠さに思わず呆然とする自分を抑えられなかった。みつきの話、それはみつきの声の調子からして決して一成にとって喜ばしい内容でないのは明らかだった。期待のかけらすら見えないようなみつきのそぶりに、一成はなぜここまで走ってきたのかその意味すら見失いそうだ。
「悪い…」
一成はゆっくりと居間に向かうみつきの背中につぶやくと、もたつく足をどうにか革靴から引き剥がし強張る足をひきずるようにしながら居間に続く廊下を歩き出した。
「コーヒー…でいいよね…?」
みつきは一成の制止も聞かずに台所に立ち去っていく。体育祭以来のみつきの部屋は相変わらず殺風景だった。あの時も意外にも生活感のない部屋に一成は驚いたのを思い出していた。
2LDKのマンションは一人暮らしには広すぎる、大して使う事のない居間にあの時はクッションすら置いてなかった。けれど、そこに今は座り心地の良さそうなソファが増えていて、一成はその輪郭を辿りながらあの時はみつきと二人きりの空間に変にドギマギしていたことに思いを馳せた。
『お前の部屋、殺風景すぎるぞ…せめてソファとかクッションとか置けよ』
思わず不平をもらしたその口調は胸の鼓動を誤魔化すために、かなりぶっきらぼうになってしまっていた。みつきは一成の淹れたコーヒーを冷ましながら、その一成の口調にむうっと頬を膨らませていた。
『だってぇ…この部屋ほとんど使わないもん。ご飯はカウンターで済ませちゃうし、テレビもベットも机も、全部向こうのあたしの部屋にあるんだもん。ここには洗濯干す時くらいしか入らないの』
みつきは口に含むには少し熱めのコーヒーにちょっとだけ口をつけて一口ごくりと飲み干すと、手にしたカップの中を興味深げに覗きこみそこに何かを探すようにしながら口を開いた。
『カズはコーヒー淹れるのも上手なんだねぇ』
『はぁ…?』
『あたしねぇ、いっつも濃いか薄いかどっちかになっちゃうんだよねぇ。こんなにちょうどいいのってできないんだぁ…カズってすごいね』
たかがインスタントコーヒーだ、瓶の裏に書いてある分量どおり入れればだれでも同じ味になるはずだ。それをまるで神業のように褒め称えるみつきの言葉に、一成はかなりくすぐったい思いでいた。
『イ…インスタントだぞ?』
『うん、わかってるよ?でも上手なんだもん。カズにできないことってなんかあるのかな?』
『そりゃあるさ…俺はそんな完璧な人間じゃねぇよ』
一成は首をかしげて問うようなみつきの視線を受けながら、その気恥ずかしさにふっと視線を絨毯に彷徨わせた。するとその視線を追いながらみつきが這うように一成の体に迫ると、その瞳を煌かせて微笑んだ。
『カズはあたしのお父さんだもん、すごいに決まってるよ。ほら、東都に行きたいって言ってたときも、あたしねカズなら絶対だいじょぶだって思ったんだよ。カズがいなくなっちゃうのは少し…ううん、すごい寂しいけど、でもカズはだいじょぶだもん。きっと受かるよね』
『みつき…』
『えへへ…カズ、がんばってね』
みつきはまるでその日が一成の卒業式のようにすでに涙を浮かべて微笑んでいた。何で泣いているのか、それを思うと一成の腕は自然とみつきを抱き寄せていた。
『ばか…まだ先の話だろ?』
『でもあっという間だよ…きっと…カズならだいじょぶだもん』
みつきは合格発表の日のことでも思い浮かべているのだろうか、瞳を閉じてその口元にうっすらと笑みを浮かべていた。一成はそんなみつきの確信に満ちた言葉を受けながら、もうこの瞬間が永遠に続くなら大学などいけなくてもいいとすら思ってしまっていた。この柔らかなクセ毛を慈しむために夢を諦めても惜しくない、一成はみつきが頬寄せるこのあたたかさを放さないでいられる方法は何か算段しながら囁いた。
『…受けないかも…しれないだろ?』
『え~…なんでぇ』
『なんでって…』
一成の囁きに口を尖らせるみつきに、一成は思わず本心を言ってしまいそうになる。お前と離れたくないからだ、そんな言葉がついて出るのを一成は必至にのみ込んでいた。今思えば意ってしまえばよかったと思う、けれどそんな後悔をし尽くして今一成は外と変わらぬ冷え冷えとした空気に身を震わせている。
あの時の殺風景だった部屋に増えたのはソファだけではなかった。リビングの片隅に置かれた味気ないダンボール、折りたたまれたままのそれらには有名な引越し業者の会社名が大きく印刷されていた。
―みつきは…みつきは学校を辞めるんだ…
元が搾り出した言葉の意味、そして中庭で自分に手を振っていたみつきは『ばいばい』と別れを告げていた。あれはその場から立ち去るという意味ではなかった、みつきが一成自身に最後の別れを告げるものだったのかもしれない。そのことに思い至ると先程話があると言ったみつきの言葉に一成の内側の焦燥が募っていく。そうして一成の焦りと不安が高まりながら一成の頭を混乱に貶めていると、突然響く沸騰を知らせるやかんの甲高い音に一成はその体をびくりと強張らせた。




