第8章 寝ぐせ姫の涙(8)
一成はみつきの視線から逃れるように部室に飛び込むと、一人小さくうずくまった。何度も深呼吸を繰り返してみるけれど、うまく呼吸が出来ていない気がする、それほどに胸がつまり息が苦しかった。
(―もう…耐えられない)
泣いてしまえれば簡単かもしれないのに、どういうわけかあれから一粒も涙が出てこない。
一成は自らに対しても頑なな自分の心が恨めしく、ただその苦しみに耐えていた。身を寄せる暗闇は傷を癒すでもなく慰めるでもなく、ただ何も感じない空間だった。一成の後悔はバレンタインのあの日から消えることなく疼き続けている。
(―あれさえなければ…)
洋平にいつの日かアドバイスされたように、少し我慢してうまく立ち振る舞えていたら結果は変っていたんだろうか、そう思う一方できっとできなかっただろう自分が一成にはよく分かっていた。本当にうれしいと思ったみつきからのチョコの後に、欲しい物など何もなかった。それ以外の物を受け取ることなど、片隅にも思えなかった。
(―俺はばかだ…果てしないバカだ…言うべき時に肝心な事を何も言わず、後悔ばかりでみつきを傷つけた…言えるうちに言えばよかった…お前が好きだと言えばよかった…)
届かない想いはかなわぬ想いよりずっと苦しいことをようやく知った。こんな気持ちは知らなかった、知りたくもなかった。一成は涙の出ない苦しみと体の内側にたぎる感情が渦巻く息苦しさに身悶えた。
やがて中庭を見下ろす窓から卒業生の姿がちらほらと見え始めた。廊下で写真を撮りあう卒業生の中に在校生の姿も混ざり始めた頃、おもむろに部室の扉を誰かが叩いてそしてしばらくしてから扉が開いた。
「カズ先輩…」
小さく開いた扉の隙間から顔を覗かせたのは元だった。一成は元の訪問の意図を量りかね、かなり長いことその顔をしかめたまま入り口で佇む元を見つめていた。
「あの…カズ先輩…みつきに…みつきにもう一度チャンスをあげてくれませんか」
一成が元の来訪をいぶかしむ視線の中で元は居たたまれないそぶりでその瞳を床と一成と壁と、さまざまな場所へ移しながら口を開いていた。
「チャンス…?」
一成は元の言葉の意味すらもわからないとばかりに眉間のしわを深めて元を睨みあげた。すると、今度は元がまっすぐに一成の射るような瞳を見つめ返して力強く言葉を繰り出した。
「はい…あいつがまだ元気になってないのはカズ先輩も気付いてますよね?あいつがただ元気なふりをしてるだけだってわかってますよね?だからっ…だからチャンスが…欲しいんです」
言葉の最初は力強かった元の声音が最後には泣きそうなほど歪んでいた。元がみつきを思えば思うほど、その願いが切なる想いに駆られていく、一成は元の想いから視線をそらし中庭に向けて口を開いた。
「チャンスも何も…俺には関係ねぇから…」
一成はソファに座り頬杖をついたまま努めて気のないそぶりを装った。そうしなければ差し出された元の救いの手にすがり付いてしまいそうだった。どんな形でもみつきともう一度話すチャンスが与えられるなら、一成は全てを投げ打ってでも手に入れたいと願っていた。けれどそれは手にしてはいけない願いだった。決して、どんなことがあっても叶えてはいけない願いだった。
「カズ先輩…」
元には一成が背けた顔のむこうに抱えた思惑など見えるわけもない、元は表に見える一成の情けなさと冷酷さに憤り思い切りその胸倉をつかみあげ部室の壁に叩きつけた。
「おいっ、わかってんだろっ、いい加減ゆるしてやれよ」
力なく元にされるままに胸倉を掴みあげられ部室の柱に背中を打ち付けられても、一成は元を見ることもせず、その視線を床に彷徨わせたまま動かない。元はまるで人形を振り回すような空しさにますます腕の力が増していくのをどうにも抑えがたかった。
「みつきにあんな顔させて、あんたはほんとになんにも思わねぇのかよっ。あんたがちょっと優しくしてやればいいだけだろっ、なんでできねぇんだよっ…」
何度も胸倉をゆすりながら一成の閉じた心を無理やりこじ開けようとする元の腕、それは脇から伸ばされた浩一郎の腕に力強くつかまれその動きを止めていた。
「元…やめろ」
「大友先輩…でもっ…」
「元…」
言葉少なに元を制する浩一郎の瞳の悲しさに元がようやく一成を放すと、一成はそのまま力なく床に崩れ落ちた。その瞳はまた何も写さないまま、ただ現のものではない何かをその視界に捉えているようだった。
「カズ…すわりなよ」
一成は片腕を洋平に支えられようやくソファに腰を下ろすと、うなだれたままふっと笑みをこぼした。その笑みは口元だけが引き上げられて、他は何の感情も載せないなんとも奇妙な笑みだった。
「元…お前はいいな。いつもお気楽で、悩み事もない」
「なんだとっ」
「元っ…」
一成の侮蔑の言葉に元は色を成してまた一成に掴みかかろうとしたけれど、それは浩一郎に軽々と止められ、元はやり場ない拳に力を込めるだけで唸りあげた。
「俺はすげぇ悔しいんだっ。ほんとは俺がっ…俺があいつを元気にしてやりたいっ。でも俺じゃダメなんだっ。認めたくねぇけど、それはあんたにしかできねぇんことなんだっ」
浩一郎に押さえ込まれ元は泣きながら叫びあげていた。洋平と晴彦は元の叫びを耳にしながら顔を伏せ、居たたまれないまま拳を握り締めるしかできない。
「元…お前に言われなくても、俺は自分がなにをしてるか理解してるつもりだ」
「だったら」
「だから、これが一番いいんだ」
一成の口調は淡々として感情がなく、苦しさも辛さもなにも感じられないほどに冷たく響いた。元はその言葉の意味もわかりかねる上に、みつきに対してすべてを放棄したそぶりの一成の言いように握り締めた拳がまた色を成した。
「何言ってんだよ…そんなことあるかっ…頼むっ…お願いだから、みつきを許してやってくれ…カズ先輩…お願い…します…お願いしますから…」
元は浩一郎の腕から逃れようとしながら、けれど浩一郎に力技でかなうものがこの学校にいるわけないのは分かりきっていた。尻すぼみの言葉の最後はもう元の頭はうなだれたまま、悔し涙があふれていた。元のあがきは無駄に終わったけれど、それでも元の葛藤も一成の苦しみもすべて皆に伝わったはずだ。その場の誰もが元の願いが空しくこだましていく中動くこともかなわない。そうして最後に乱れた息の合間からうなるように搾り出した元の言葉に、一成ですら息を呑まずにいられなかった。
「みつきは…みつきは学校を辞めるんだ…」
「え…?」
「お前のせいで、みつきがこの学校を辞めるんだっ。なんでお前じゃないんだっ。なんでみつきなんだよっ。お前が辞めればいいじゃないかっ」
元が最後の力を振り絞って叫びあげた苦しみは、一成の中にいい知れない驚愕と焦燥を運び込んだ。
(―学校を…辞める…?みつきが…?嘘だろ…)
みつきが学校を辞めたら、きっと総一郎のところに連れ戻されるか、最悪アメリカの母親のもとに引き取られてしまうに違いない。そうなっては遠くから見つめることも出来なくなる、その事実に一成の思考回路が突然ショートしたように動かなくなっていた。
(―嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ…)
陳腐な言葉ばかりが一成の頭の中を渦巻いていく中、中庭から放たれた呼びかけが、一成の体を戦慄させた。
「カズっ」
少し舌足らずな甘えた声、少し震えながらも間違いなく自分を呼ばわるその声音。一成はその声の持ち主を振り返らずともすぐに思い浮かべていた。
「みつき…」
アルミサッシの軽々しい桟に手をかけて、ともすればこのまま中庭に飛び出しそうになりながら、一成はその声に知らずと聞き入っていた。
「カズっ、ばいばい」
みつきが中庭から大きく手を振っていた。何度も何度も手を振っていた。その顔はいつもと同じように一成を見上げて微笑んでいたけれど、一成はこの簡単な言葉の意味が分からなくなっていた。バイバイと振られているその手には、どんな感情がこもっているのだろうか。一成が何を言ったらいいのか分からずに、ただ立ち尽くすしかできないでいると、みつきがその視界の中で腕を下ろして走り去っていった。
「カズ…?いいの、追いかけなくて…?」
洋平が呆然と立ち尽くしている一成に声をかけても、一成はただ瞬くだけだ。情けないほど狼狽し、頭はまったく動かない。一成はアルミの窓枠を握り締めて、みつきが消えた校舎の入り口を見つめていた。
「カズ先輩…みつきのプレゼント貰いましたか…?」
「プレゼント…?」
元の唐突な問いかけに一成の思考がやっと働き出した気配がした。けれどつい今しがた久々に自分を呼ぶみつきの声を耳にしたばかりの一成が、元の言うプレゼントに心当たりのあるはずもない。一成が元の問いかけをいぶかしんでいると、元は少し気まずそうに口を開いた。
「…俺、昨日一緒に買いに行ったんです…みつきが、人混み怖いからって…」
「みつきが…?」
「今日渡すんだって言ってました…目、腫れてましたよね?緊張してねれなかったって言ってましたから…」
元が一成を見ようともせずに苦しげに口にした言葉に、一成は息を呑んでいた。みつきが選んだプレゼント、それはいったいどこにあるのか、一成は自分の手の中にそんなものの欠片もないことに頭をめぐらせると何かを思いついたようにその瞳を輝かせた。
「カズ…?」
一成は浩一郎の声音にようやく弾かれたように動き出すと、部室の外に積まれたままのプレゼントの山を抱えるだけ抱えソファの上にばさばさと落としていく。そして一成は無言のまま部室に散乱するプレゼントを見渡してから、一つ一つそれを手に取り開け始めた。




