第8章 寝ぐせ姫の涙(7)
翌日から3月に入り、一成の億劫な3大イベントの一つである誕生日が今年も巡ってきた。一成はまだ芽吹きもしない桜並木をいつも以上に足取り重く校舎に向かっていた。自分でも信じられないほどの未練がましさ、一成はそれに深く自己嫌悪しながら、諦めきれない葛藤に身を置いていた。恋も初めてならこんな苦しみも初めてだった。
一成は重く沈みこんだ表情のまま、いつも通りに学校に足を運びいつも通りに無造作に手紙を捨てた。ただいつもと違うのは一成へのバースデイプレゼントがそこに加わっているという点だけだった。けれど一成はそれも通常と変わらぬ動作で何の感情も浮かべぬままゴミ箱に放り込んだ。
今日は一成の誕生日というだけでなく、黎明学園にも卒業式という大きな行事が控えていた。講堂に向かう生徒の波を遠巻きに見つめながら、一成は知らずとその瞳がみつきを探している事に気がつくとその視線を床に這わせていた。
(―諦め悪いな…俺…)
一成が自らの行いを自嘲しながらその足を止めたとき、その視界に概ね順調な回復を見せているみつきが映りこんだ。一成はまるで計ったようなみつきの登場に胸が躍るのを堪えきれない。けれどこうして見つけたからといって声をかけられるわけでも、ましてや触れることも出来ない事にかわりはない。それでもこのほんの一瞬の胸の高まりが、今の一成にとって唯一生気を運んでくれる瞬間であることも間違いはない。退院した直後よりは元気そうなみつきの姿に一成は束の間の穏やかさを取り戻していた。
(―だいぶ元気になったか…?)
しかしそう思う一方でここ数日のうちの中では今日のみつきは一番元気がない様に見えたことに一成の瞳が少し曇った。相変わらず自由に跳ねているクセ毛も、いつもより乱れがちでくたりとしていることも気になった。
(―あんまり寝てないのか…?)
不安げに見つめる一成の目に映るみつきの瞳が、少し赤みを帯びていてその瞼が腫れぼったい。元がそのことを指摘しているのだろう、みつきは元に目元を指差されて何度も擦りあげていた。そうすればするほど瞳の赤みは増し、瞼の腫れが増すように見える。一成がその光景に眉根を寄せていると、ふとみつきが一成を見た。
それは本当に不意のできごとだった。きっとみつきは一成が見つめているとは思ってもいなかっただろう、みつきと一瞬目の合った一成の瞳はあきらかな動揺を浮かべてすぐに正反対の方向へと流れていった。
「みつき?」
元はみつきの視線が元から流れ、あらぬ方向で動きを止めた事にいぶかしんだ声をあげていた。一成がみつきの手を離し、みつきから大きく距離をとるようになると、みつきの隣は一成から元に自然と移り変わっていた。ずっと望んでいたことだったけれど、元はそれがうれしいような悲しいような複雑な思いでいた。そして今、みつきのその視線の先に一成がいることにはかなりな不快感を表さずにはいられなかった。
「みつき、そろそろ行くぞ」
元は卒業式の行われる講堂に向かってみつきを促すと、みつきは一成の背中にひきつけられていた目線をそのままに2、3歩足を進めてたたらを踏んだ。
「あぶないっ…みつき、ちゃんと前見て歩けって。いつもカズ…」
カズ先輩に言われてんだろ、元は言いそうになった言葉を慌ててのみこんで咳払いを繰り返した。
「行くぞ、みつき」
「…ん…」
心ここにあらずのみつきの返事、元はいつまでも一成の背中を見つめ続けるみつきの腕を力任せに引っ張って、講堂に足を早めた。
「いたい…いたいよ、元ちゃん」
みつきが元の腕の力に顔をしかめ、ようやく前を向いて歩き出すと元はそこでやっと腕を離し、その足を止めた。みつきは突然立ち止まった元に体をぶつけながら、みつきから離れた元の腕が小さく震えているのを目にしていた。
「元ちゃん…?」
「忘れろよ…もう…」
元の搾り出した声音はその腕と同じくらい震えていた。元の苦しさと悲しさと悔しさと空しさをのせて震えていた。みつきは元の震えに首をかしげて、知らず知らずとその眉尻を下げ、不安げな声を絞り出していた。
「…なんのこと…?」
「カズ先輩の事に決まってんだろっ?俺は今ほどカズ先輩を見損なったことはなかった。お前がほんとに大事なら、あんな風に避けたりするわけないんだっ、さっさと忘れちまえっ」
元の辛らつな言葉にみつきは泣きそうなほど顔を歪めてその場に立ち尽くすしかできなかった。元に言われなくてもみつきにだってそんなことは十分すぎるほど分かっていた。ただ出来ないだけだった。一成を忘れて何も気にせず笑うことが出来るなど、この先どう頑張っても出来そうになかった。みつきは卒業式に向かう生徒の波が二人を不思議そうに見つめながら流れていく中、むき出しのコンクリートの冷たい床に呟いた。
「そだよね…あたしやっぱりカズに避けられてるんだよね…?」
「みつき…ごめん…俺…」
みつきは元の謝罪に大きくかぶりを振って元の震える腕にすがるように頭を下げた。分かっている、一成に避けられ決して近寄るなと強く拒絶されていることは身にしみている。そして毎日毎日そんなことを感じながら過ごす事に、みつきも限界を感じてた。
「いいの…悪いのはあたしなんだもん…嫌われて当然だよ」
みつきはそれだけをようやくいいきると、思いのほか器用に人波に紛れてその姿をかき消した。みつきの笑顔は不自然なままだ、元はみつきが失ってしまったあの微笑みを取り戻すために一成の存在が必要不可欠なことを知っていた。けれどそうするためには二人の仲を取り持たねばならない、そのことが分かっていてもどうしても自分の気持ちに整理がつかないまま時が過ぎていた。
(―みつきが嫌われているわけない。カズ先輩がいつも未練がましくみつきを見つめているのを俺は知ってるんだ…みつき…なんでお前はそれに気がつかないんだよ…)
しかし、それを伝えたところで事態が好転するだろうか、元にはそれすらもわからなかった。病み上がりのみつきの笑顔、少しこけた頬と顔色の悪さだけがみつきの笑顔を強張らせているわけではない。
(―あいつは無理やり笑ってるんだ…笑いたくないのに、笑ってるんだ…)
元は無理に笑うみつきも見たくなければ、かといって一成の無責任な態度にも腹が立つ。傷つけるだけ傷つけたくせに未練がましい視線を向けてみつきを惑わす一成に、このまま素直に引き渡すような真似だけは元はしたくなかった。
(―俺はどうしたらいいんだ…どうしたら…)
元が人波が途切れはじめた廊下の壁に握り締めた拳をたたきつけて、しばらく己の心の葛藤を推し量っているとその肩に慶太の温かな手が軽く触れていた。
「元…どうした?」
「慶太…俺…もうわかんねぇ…」
元は差し伸べられた慶太のやさしさにうな垂れて、背中をたたかれる事に不思議と安堵していた。どうしたらいいのかもどかしさだけが募る毎日に、友人という心の糧があるだけでも人は勇気付けられる。それではみつきの心の支えはなんだろうか、元はそれが自分でないのだけは確実に分かっていた。自分の力などみつきの中では微々たる物なのだ。
(―みつき、俺じゃあカズ先輩の変わりは出来ないんだよな…?)
元は講堂のざわめきにまぎれながら、一人静かに心に渦巻く感情を推し量っていた。みつきは千秋と瑠奈の隣に佇んでまたぎこちない笑顔を浮かべていた。




