第7章 寝ぐせ姫の最初の一個 (9)
車が病院に到着すると、総一郎は留美がエンジンを切るのも待たず一目散に駆け出した。あっという間に小さくなっていく夫の背中を見送りながら、留美はまた大きく息をついた。普段からアツい人であることは留美も重々承知している。それがみつきのこととなると普段の倍以上、いやそれではきかないくらいに燃え上がってしまう。
(―正直、ちょっと妬けるね…)
留美はもう一度自嘲気味なため息とともに自分の気を静めるように車のエンジンを切り、ふと目にした時計に留美はまた小さく吐息をついた。思ったよりも早く着いてしまった、自分も知らないうちに気が急いていたんだろう、そう思うと総一郎をなじることなど出来なかった。
(―わたしもまだまだね…)
後部座席に置いたカバンを手にとって、留美はゆっくりと救急外来にむかった。そうして留美が総一郎に追いついたときすでに総一郎は一成と対峙していた。
留美が初めてみつきに会ったとき、その笑顔の不自然さが気になった。そしてその不自然さの理由にすぐに思い当たった。総一郎に聞かされていた、みつきを守る理由。
(―まだ、傷ついているんだね…)
留美は小さな体で一生懸命生きようとするみつきのぎこちなさを見守りながら、今にも壊れそうな橋の上でしがみつくようにその揺れに耐えるみつきを見つめてきた。みつきは足元の揺れにおびえながらもその橋を渡ろうとしていた。それが夏に会った時変わったと思った。すぐに分かった、一成を見つめて微笑む笑顔にみつきの大きな変化をみてとった。
相変わらずみつきは危うい橋の上に立ってはいたけれど一人ではなかった。その手を引いてすすむ彼の姿がやけに大きくて力強く感じていた。おっかなびっくり歩みを進めていたみつきの顔は自信と安心に満ちてまっすぐ前を見ていた。みつきの笑顔が自然になっていた。ああ、いい男に会えた、留美はそう安堵していた。
けれど、橋は壊れてしまった。下に落ちていくみつきに手を差し伸べるの者はいるのだろうか。留美はそんな不安を感じて、二人の間の時間が止まってしまったかのような空気を、ぴりぴりと感じていた。
総一郎が固く両手を握り締めたまま一成を睨みつけた。一成はまっすぐにその瞳を見つめたまま歯を食いしばっていた。絶対に目をそらさない、お互いに長いことそう思いながら睨み合うように立ち尽くしていた。
このまま動かないのではないかとも思えるほど時間が経過したとき、保健医がただならぬ空気の中、ようやく体を動かして二人の間にたった。怒りと疑念にあふれた総一郎の目は、一成だけを捉えていて、保健医がその目の前に立つまでその存在に気がつきもしていなかった。
「早瀬みつきのお兄さんですよね」
穏やかな口調で話し始めた保健医に、総一郎は一成を睨み付けていた視線を引き剥がすと保健医に向かってようやく小さく頭を下げた。みつきが入学する時、みつきのサポートを依頼するために一度面会した覚えがあった。
「ええ、みつきが世話になりました」
「いえ、とんでもありません。今回の経緯をお話ししますから、こちらへ」
保健医は真摯な態度で一成から離れた場所へ総一郎を導くと、その隣に腰掛けた。保健医が小声で話すその話を聞きすすむうちに、総一郎の顔はますますこわばりそうして途中からその視線を一成に向け始めた。一成はその視線をまっすぐに受け止めながら、両手を強く、力の限り握り締めていた。
保健医の話を聞き終わった総一郎は、立ち上がると保健医に向かって深々と頭を下げた。
「うちの妹が大変ご迷惑をおかけしました。いろいろとお気遣いありがとうございます」
総一郎は言うが早いか、一成に向かう視線に怒りをたぎらせた。一触即発の雰囲気に、保健医はそれを諌めようと口を開きかけたけれど、それは一成の言葉に制された。
「いいんです。ここから先は俺と…総一郎さんの個人的な話ですから…」
今日、これまでの常とは違う保健医の対応に敬意を表し、いつに無く一成が丁寧な言葉を使った。けれど、決然とした物言いは口を挟むなといわんばかりに保健医を制していて、一成は眉根をしかめた保健医にすいませんと頭をさげた。保健医はそんな一成の態度、兄が来るまでの様子を見ていて、一成の気持ちを推し量った。何かを覚悟し、何かを待つようにしていたのは、このことかと彼は思っていた。そんな保健医の前で、一成は総一郎に向き直った。
「外に、行きましょう…ここじゃまずい…」
総一郎を促し、さっさと外に歩き出した一成の背中は思いつめた決意をたたえ、揺ぎ無い覚悟の上にその足を踏み出していた。
一成が総一郎を連れ出した救急車のいない病院の外は静まり返っていた。一成はそのひんやりとした空気の中をゆっくりとすすみ、慌しい出入り口からは少し離れたところで立ち止まった。
「先に…一言だけ言わせてください」
すぐにでも掴みかかりそうな総一郎を制して、一成が落ち着いた声音で口を開いた。まっすぐに見つめる目が、夏に初めて会ったときの一成を思い出させた。みつきの笑顔を変えた男にほんのわずかでも気を許したのが間違いだった、総一郎は苦々しい思いで一成をねめつけていた。
「今回のことはすべて俺の責任です」
一成はそう言うと、あの夏の日のように勢いよく頭を下げた。
「申し訳ありませんでしたっ」
総一郎の指をバキバキと鳴らす音、荒々しい声音が低く夜気を切り裂いて一成を襲った。
「それで済むと思ってるわけじゃねぇよな」
一成はその言葉に顔を上げて、総一郎を見つめ返した。総一郎を見つめる目は、変に穏やかで、けれど強い決意に満ちていた。
「覚悟は…出来てます」
そう答える一成の声はその目と同じに、この後自分に起こることへの恐怖など微塵も感じている気配はなかった。何かを決意した目をずっとしていたのはこのことだったんだよな、そう総一郎は確信して両手を握り締めた。
「いい度胸だ、それだけは褒めてやるっ」
声をあげるやいなや、総一郎は一成の左頬に渾身の拳をたたきつけた。どさりと体が硬い地面に叩きつけられ、一成は小さくうっ、と声を漏らした。身構えていても、歯を食いしばっていても、一成の体は浮き、軽く吹き飛ばされていた。
(―元とは大違いだ…)
一成はくらくらする頭を軽く振って、視界をはっきりさせてから膝をついて立ち上がった。
「一発で…いいんですか…」
一成が左手の甲で口端を拭い、絞り出すような声で言った。まっすぐ総一郎を捕らえる瞳に迷いは無かった。総一郎は複雑な表情を浮かべたけれど、一成の覚悟に敬意を表し右手を再度握りしめ力をこめた。
「腹ぁ、力入れろっ」
一成は腹筋に力をこめて総一郎の拳を迎えたけれど、それでもやっぱり総一郎の怒りがこもった一撃が一成の胃の辺りに命中すると体が少し浮いて一成はその場に崩れ落ちた。一成は何も言えなかった、何も言わずにただうずくまり胃から逆流してくるものをこらえていた。
「二度と面見せんな」
総一郎がうずくまる一成を一瞥し、足早に救急外来へと戻って行った。その捨て台詞は痛々しいほど覇気を失い、苦しげに搾り出されているようだった。総一郎は無言のままに外来のくたびれた長椅子にどかりと腰を下ろした。
夏とは比べ物にならないほどに、殴りつけた拳が痛かった。胸に渦巻く感情の激しさが、自分を取り込んで行くことをどうにも出来ずに総一郎は顔を伏せた。総一郎の脳裏には泥で薄汚れた制服に身を包み、総一郎をまっすぐに捕らえる一成の姿が思い浮かんでいた。
『結果的にこうなりましたが、原因は彼ではありません。この事態の誘因は彼にあるかもしれません。けれど、彼は懸命に早瀬を助けようとしていたんです。ずっと早瀬を守っていました。そして、同時に彼は自分を責め続けています。それで勘弁してやってください』保健医の言葉の意味は十分分かっていた。けれど、総一郎の握り締めた拳の痛みはいつまでも引くことなく、心の上げる叫びに疼き続けた。
一成は総一郎の気配が消えると植え込みに駆け寄って、こみ上げてきたものを吐き出した。のどのあたりに留まる苦いものを取り除くように、数回咳き込んだ。
(―やっぱ…腹はキツイ…)
一成は植え込みに体をもたれさせて瞳を閉じた。吐き出した苦さと殴られた痛み、これ以上はないほどの情けなさでまた涙がこみ上げてくるのをこらえ切れなかった。
(―みつき…ごめんな…俺はこんなことでしか、自分の責任をとれないんだ…)
一成が声を殺して一筋こぼれた悲しみに、顔をうずめて肩を震わせた。一成の頭上には昨日とは打って変わった満点の星空が広がり、冷たく澄んだ空気に光が瞬いていた。溶け残った雪が泥にまみれて物悲しく一成の傍らに積み上げられている。明日の朝には凍りつき、そして、すぐに溶けていくだろうそれを見ながら、一成の時は動きを止めていた。
みつきの苦しみも、自分の苦しみも、同じように簡単に溶けてしまえばいい。そして明日にはまたいつもの毎日が戻ればいいのに、足元から昇ってくる冷気に身震いし一成は星空にみつきを想った。早く元気になれよ、星空を見上げてそう祈るだけが、今の一成に残されたみつきとの通信手段だった。
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