第7章 寝ぐせ姫の最初の一個 (8)
一成が泥雪の中にうつぶせたみつきに駆けつけたとき、みつきはただ小さく丸まりながらその体を震わせていた。一成は溶けてしまった泥雪でできた水溜りに膝をつき、みつきの震える背中にそっと手をかけた。
「みつき…大丈夫か…?」
一成がみつきの震えに手を添えるとその体が大きく強張り、血の気のうせた強張った顔つきのみつきが一成を振り仰いだ。その瞳は一成の声音におののいた様に見開かれ、言葉なく一成を見つめていた。
「みつき…俺だ…もう大丈夫だ…」
一成はみつきの思考が凍りついたような顔つきと震え続ける体を抱き寄せると、その温もりにみつきの恐怖が溶けるように祈りながらかき抱いた。みつきは一成の腕に抱き寄せられてもその体を強張らせたまま動く気配を見せない、一成はその違和感に瞳を閉じるとさらにきつくみつきを抱きしめた。
「みつき…みつき…」
一成の呼びかけにもみつきは体を震わせるばかりでその小さな腕が一成を包むことがない。一成は泥雪のただ中でみつきの涙と泥で汚れた頬を指で優しく拭いながら、不安に駆られるままみつきを見つめていた。すると寒さと恐怖に震える唇から耳に届かないほど小さな囁きがようやく漏れ聞こえた。
―お父さん…
みつきが小さく、そうつぶやいた気がした。寒さと恐怖に強張るその唇の動きが、一成の心を締め付けた。みつきの瞳はいまだ一成を捉えることがなく、遥か遠い記憶の闇に捉われてしまっていた。
「みつき…」
みつきの瞳が自分を捕らえ、もう一度自分を見つめて微笑むことを祈りながら、一成は血の気のうせたみつきの冷たく冷え切った頬を包み込んだ。どうかこのままみつきが自分の手から離れていかないように、もう一度腕の中で自分を見つめてくれるように一成が祈る思いでその頬の泥を拭った時、みつきの唇がまたかすかな動きを見せていた。
「ぉ…と…」
温かな涙がみつきの頬を伝って流れ落ちると、うっすらとその瞳に一成が映りこんだように見えた。
「みつきっ?」
一成とみつきの目が合った…合ったはずだった。
「お父さんっ」
みつきの強張ったままの瞳が一成を見た後、ようやくみつきが声をあげ、自分の腕の中で泣き始めた、けれどみつきは一成ではなくそこに父を求めてすがり付いていた。
「怖い…怖かった…お父さん…」
「ごめん…ごめんな…みつき…もう大丈夫だ…」
あの時の、あの幼い時の、みつきを取り囲んだ無数の腕、みつきの心はあの時の思いに捕らわれて、恐怖の記憶の中に落ちていた。一成はみつきがすがりつくように自分をかき抱くその体を必死に抱きしめ返しながら、何度も優しく囁き続けた。
「もう大丈夫だ…ごめんな…もう大丈夫だ、みつき」
どうかすると震えてしまいそうな自分の声を必死に落ち着かせて一成はみつきに語りかける。みつきはその一成の声音に応えるようにうなずきながら、やがて吸い込まれるように暗い闇に沈んでいった。そして一成の腕にずしりとのしかかる体の重みが一成の安堵を一瞬にして奪い去った。
「おい…おいっ、みつきっ」
一段と血の気の失せた顔色に反応の無いみつきの体、まるで人形のように命を感じない体の感触が一成の叫びをむなしく響かせた。
みつきが気を失った頃、晴彦、浩一郎が中庭にたどり着いた。洋平も瑠奈の手を引きながら中庭へ降り立つと、中庭の中ほどで己自身も泥だらけになりながらみつきを抱きしめている一成の傍へゆっくりと近づいていった。一成はその気配に頭を小さくあげたけれど、すぐにかき抱いたみつきの髪にその顔を埋め繰り返しみつきの名を呼び続けていた。
「みつき…みつき…目を覚ませ…みつき」
秋口に体育館で倒れたときにくらべ、今回は明らかに事態が深刻に見えた。みつきの顔色は青というより白に近く、ぐったりと力を失った腕や足に生気を感じない。必死にかき抱く一成のしぐさも我を失い、ちらりと覗くその瞳の赤さが3人に衝撃を与えていた。
「…俺、先生を呼んでくる」
浩一郎が一成とみつきにかける言葉を失い、洋平と晴彦に事務的な口調でそう告げると足早に校舎に向かって走り出した。洋平と晴彦は、その浩一郎の背中を見送るとやがて遠巻きに成り行きを見守っていた集団に詰め寄った。一歩近づくたびに後ずさる集団にむかって、晴彦が珍しく感情を露わに誰より先に言葉を発していた。
「…なにをした…」
いつも柔らかな晴彦の尖った声音と澄んだ瞳の凍てつくような冷たさ、そこに常に無い憤りを目にすると、集団を構成していた女生徒達はすっかりすくみあがり顔を伏せてその身を寄せ合った。
晴彦は互いの体を寄せ合って互いの罪を擦り付け合うようなそぶりに辟易しながら、ただ黙って俯いた頭の一つ一つを睨み付けていた。そうして無言のまま攻め立てられる中、やがて一人がこらえきれずに泣き始めた。そうなるとその涙はあっという間に広がってどの子か分からないくらい肩を寄せ合って泣いている中から、途切れ途切れの釈明が聞こえてきた。
「…わ…私…み…みつき…みつきちゃん…ちゃんに…カ…カズ…カズ先…輩に…ち…チョコ…」
涙に声をつまらせながらの釈明の合間に、二人の冷たい視線を伺うように上向けられる視線が、まるで涙で二人の非難の目をそらそうとしているように映ってしまった。洋平はそれだけで十分だとばかりに、ため息をつくと冷たい瞳ですすり泣きを遮った。
「僕はあんまり女の子には怒らないけどね、今日は言わせてもらうよ」
洋平が女子達のすすり泣きに睨みを利かせ、大きく息を吸い込んだ。
「自分で手渡す勇気がないなら、持ってくんなっ」
洋平が一喝すると、ふんっと鼻息荒く一成のもとへきびすを返し、瑠奈がその後ろから駆け寄っていく。
「…君達は間違ってるよ…二人がかわいそうだ…」
晴彦は小さなため息混じりにその身を翻すと静かにその場を立ち去った。すすり泣いていた女生徒の何人かがその場に泣き崩れてしまったけれど、それには洋平も晴彦も振り返らなかった。
「みつきちゃん…」
瑠奈は泥だらけの雪の中で一成に抱きしめられているみつきに一粒涙を流していた。その震える肩へそっと手を当てながら洋平が静かに口を開いた。
「瑠奈ちゃん…」
洋平の手が触れても瑠奈の瞳は悲しみをたたえたまま一成の腕の中で瞳を閉じているみつきを見つめ動かない。いつもならばつま先まで朱に染めて言葉を失うだろう瑠奈の常にないそぶりにも、洋平ですらいつもの軽口がでないようだ。晴彦も洋平と瑠奈の傍らでどうにもしようのない光景に悲痛な表情を浮かべて佇むばかりだった。
「早瀬っ、大丈夫かっ?なにがあった」
保健医が浩一郎に連れられ、あわただしく保健室から駆け参じたのはそんな時だった。保健医の到着に無言のまま顔を上げた一成の瞳は不安に満ちていた。ぐったりと力ない手足に、血の気のうせた顔、浅い呼吸に震えた体、保健医はみつきの様子を手早く観察すると不安げにその様子を見守っていた一成と目を合わせ小さくうなずいた。
「森、救急車呼ぶぞ。保健室まで運べるな?」
保健医の問いかけに一成の瞳が暗く澱んで沈みこんだ。救急車を呼ぶほどに状況は悪い、一成はある覚悟を決めたように保健医にうなずくと自分のブレザーをみつきにかけてからその体を抱き上げた。
「カズ先輩…」
「みつきちゃん…」
無言のままにみつきを抱き上げる一成の姿に、多くの生徒がすすり泣いていた。中庭を見通せるエントランス、校舎の窓という窓、あらゆるところから二人に同情を寄せる小さなざわめきが巻き起こっていた。けれど、一成にはその末端すらも届かなかった。一成はただみつきを抱き寄せ、みつきの瞳が開くことを祈るばかりだった。
病院の救急外来の外に、また救急車が到着した。これで何台目かというくらいひっきりなしに横付けされるその殺伐とした空気の中、一成はその赤い回転灯の光を視界の片隅に捉えていた。
救急車で運ばれてからもみつきの意識は戻らず、すぐに点滴をされ検査に回された。だいぶ前にみつきは運ばれて行ったのに、混んでいるのか手間取っているのかみつきはなかなか戻らなかった。
一成はみつきの帰りを待つと同時に、今こちらに向かっているであろう良太夫婦と、そして総一郎夫婦を待っていた。一成はその瞬間を身じろぎ一つせず、ただ冷たい床の一点を見つめて迎えようとしていた。
総一郎に会ったらまずどうするか、それを救急車を待つ間みつきを抱きしめ温めながら考えていた。保健医が救急車が来たようだと一成に声をかけるまで、一成はずっとみつきを抱いていた。
混沌とした闇の中をさまようみつきは身動き一つせず、毛布にくるまれて眠っているように見えた。少し温まったからか先ほどよりは顔色もいいように見えることに、一成は小さく安堵の息をもらした。けれど、これまでにない強張った表情に血の気のうせた顔色は一成の表情を強張らせ続けた。
「みつき…」
担架が保健室の廊下に止まり、保健医がそれを迎えに廊下に出た。救急隊員の声が聞えてから一成は別れを惜しむようにみつきをぎゅっと抱きしめ、まだ血色の戻りきらないひんやりとした頬に軽く口付けた。
「ごめんな…」
一成の熱い吐息に氷が解けるように目が覚めないだろうか、一成は少しの期待をこめたけれど、一成の唇に触れたみつきの頬はただ冷たく、ひたすらに冷たく、一成の心を凍らせた。
保健医にも浩一郎たちにも着替えるように言われたけれど、一成はその間も惜しんでみつきのそばについていたかった。泥だらけのまま抱きしめたみつきの体、手を離したらそのまま泣き出しそうで、そしてもう二度と自分の手の中に戻らないような気がして、どうしても離せなかった。
病院の外で回っていた回転灯はいつの間にか消え、救急のあわただしさだけが静寂の中に響き渡っていた。一成は胸に刻んだ覚悟を前に、身じろぎせずに総一郎の到着を待っていた。保健医はただその傍らに腰をかけて、一成の刺すような視線の先にあるものを熟考していた。
どのくらい時間がたったのか少しのようでいて長い、そんな奇妙な感覚を感じる時を過ごし、静寂の中に自動ドアの開く音が一成の耳に届いた。一成はその音に顔を上げ自動ドアを振り仰いだ。そろそろ着くはずだ、そう思っていた人物の姿をその視線の先に捉えた。
総一郎は学校からの連絡を受けてからまた壊れそうなほど携帯を握り締めた。留美が一足先に車のキーを手にしなかったら、留美でさえも置いたまま自宅を飛び出していただろう。総一郎は留美が出来る限りの速度で高速を飛ばしているのを感じながら、頭の中を駆け巡る最悪の事態に胸を押しつぶされそうだった。
一成ならば…そう期待してしまった自分に歯噛みしながら、総一郎は何度も何度も自分の膝をたたいて悔しがった。
「総一郎、少し落ち着きなさい。みつきなら大丈夫」
「よくもそう冷静でいられるなっ」
留美にとりなされてもあらゆる事に憤慨しきった総一郎が落ち着くことなど到底できるはずがない。総一郎が憤りのまま怒鳴りつけるとそれから二人は口をきかなかった。留美は自分の言葉などこの状況で総一郎には響かないことを嫌というほど感じながら何度目かのため息をついた。けれどそれと同時にこれから十中八九するであろう総一郎の行動が分かるだけに言わずにいられなかった。留美は次々と流れていくセンターラインの白線を目に捉えながら、前を向いたまま小さなため息をついた。




