第7章 寝ぐせ姫の最初の一個 (7)
「カズ先輩っ、みつきがっ…」
そこまで元が叫んだ時、開け放った窓から中庭に響くみつきの声がこだました。
「カズっ…カズっ」
元のただならぬ様子と中庭から届くみつきの助けを求める声、一成は一瞬でなにか逼迫した事態が巻き起こっていることを察すると、中庭のみつきへ視線を投げた。みつきがいつも以上に危うい足取りで鬼気迫るものをまといながら走る姿に一成は眉をしかめた。そして何があったのか、そう思う間もないくらいすぐに、みつきに追いすがろうとする女子の集団が見えたとき、一成は何かを悟っていた。
「みつきっ」
一成が思わず声をあげた瞬間、集団からは幾分距離をとっていたみつきが、突然何かにつまずいて両手を広げたまま泥雪を盛大に跳ね上げながら水溜りに没していった。
「みつきっ」
一成の体はなにを考える間もなく走り出すと、部室の入り口でにこやかに女生徒の対応をしていた洋平を突き飛ばし、群がる集団をかき分けて一直線にみつきを目指した。
「カズっ?」
洋平は押しのけられて2,3歩たたらを踏みながら、振り返りもしない一成の背中へ首をかしげた。まだまだ盛況な部室前に一成が姿をあらわしたというだけで、何かがあったのがわかる、洋平は一成を追うように出てきた浩一郎たちを捕まえて事情を問いただした。
「浩、どうしたの?」
「早瀬が女子に追いかけられて中庭で倒れたっ、そのまま集団に囲まれて動く様子がないんだ。頭打ったりしてるかもしれない、洋平も行くぞっ」
ぐいっと浩一郎に勢いのまま腕を引っ張られ、洋平の腕からはもらったばかりのチョコレートの包みが廊下にばら撒かれた。
「みんな、ごめんね~、カズの一大事だからゆるして~」
洋平は緊迫した浩一郎の声音とは別にゆるゆると手を振りながら、自分の取り巻きの女生徒達へ微笑みながら浩一郎に引きずられていく。
「あ…あのっ」
「瑠奈ちゃん…」
「みつきちゃん、どうしたんですかっ?」
瑠奈が集団の向こうから連れ去られていく洋平に駆け寄っていた。その声はいつもよりずっと張りがあって、一度もどもることはなかった。洋平は瑠奈の真剣な様子に足を止めると、浩一郎が中庭に向けていた足を一瞬引きとめた。洋平は瑠奈の不安げな瞳を静かに見つめ返すと、いつも湛える口元の笑みだけはそのままに首をかしげた。
「僕にも分からないよ。わからないけど、ただ事じゃないと思う。瑠奈ちゃんも行く?」
「はっ、はいっ」
「ん、じゃ行こ」
洋平は瑠奈のほっそりとした手首を掴むと廊下に群がる集団をかき分けながら、瑠奈が押しつぶされないように最大限に配慮して中庭へ足を進めていく。瑠奈の片手には小さな紙袋が握られていたけれど、それは集団を抜ける際に無残なほど形を崩していた。
階段を一段飛ばしにするのすらもどかしく、一成はその中ほどから一気に飛び降りた。頭の中はみつきのことでいっぱいで、軽やかに舞い降りた一成に頬を染める女生徒の姿など目にもとめる気配はない。いまだに中庭から届く女子の嬌声を耳に、一成は嫌な予感に胸をざわつかせていた。
「お前ら何やってるっ」
中庭に走りこんだ一成は泥雪を跳ね上げてみつきに駆け寄っていた。しかし、みつきは集団に取り囲まれてその姿が見えなかった。それでも一成には不思議とみつきの泣き声が聞こえるような気がしていた。集団の向こうで泣いているのだろうみつきの声なき声に向かって一成は必死に腕を伸ばしていた。
「みつきっ、おいっ、どけって…みつきっ」
一成がみつきをもとめた叫びは集団で追跡する高揚感の前にあえなくかき消されていくけれど、狂気にも似た集団の感情の高まりに一成は繰り返し食い下がるしかない。そして何度目かにあげた一成の声に集団の外側にいた一人が嬉々として振り向いた。
「カズ先輩っ」
絶叫に近いその呼びかけに、集団を構成していた女生徒達が一斉に振り返った。
「きゃあ、カズ先輩っ」
「これ、受け取ってくださいっ」
「カズ先輩っ、カズ先輩っ」
「お願いします、受け取ってくださいっ」
口々に自分勝手な思いを叫びあげながら一気に一成のほうへなだれこんだ集団の向こう、そこにみつきが体を震わせながらうずくまっていた。
「みつきっ…おいっ、お前らちょっとそこどけよっ…おいっ」
みつきはきっと泣いている、声をあげずに体を震わせているみつきの小さな体が一成の焦燥を煽り立てる。一成は集団の流れに逆らいみつきに手を伸ばしたけれど、集団で押し寄せる波の力に押され思うようにならない。
「お前ら邪魔だって言ってんだろっ、どけよっ」
女子といえど侮れない集団の力に、いくらか近づいた距離もあっけなく押し戻されてしまう。一成は集団の向こうに体を震わせるみつきを見ながら唇をかみ締めた。
「カズ先輩っ、お願いします」
「きゃあ、カズ先輩っ…」
あんなみつきをほったらかして、こいつらは何も思わないのかっ?一成は誰にともない集団を構成する全てに激しい憤りを覚えその手をぎゅっと握り締めた。その一成の制服や腕は、いろんな手によっていろんな方向へすごい力で引っ張られていた。
(―絶対に泣いてるっ、声を出さずに泣いてるはずだっ)
一成は集団の上を色とりどりに舞い上がる包みの向こうで小さな体が震えているというのに、そこへ誰一人意識を向けない異様なまでの光景に身の毛がよだつ思いだった。
「みつきっ」
一成はみつきが見えているのに届かないのがもどかしくて、精一杯の怒りをこめて声を張り上げた。一瞬女でもいい、殴ってやろうかと思い、けれどそんな憤りを必死に踏みとどまった。そしてその怒気と勢いをこめてもう一度一成は声を限りに叫んだ。
「いい加減にしろっ!お前ら邪魔なんだっ!」
その怒号に一成が傍にいるという事実に興奮しきった女子の群れが一瞬静まり返った。ようやく届いた一成の憤りは、集団の高揚を沈めるには十分な威力を持って轟いた。
「どけ、邪魔だ」
今度は叫ばなくても、一成が少し動くとその方向に道が開いた。勢いをそがれた集団は一気にその形を崩し、意気消沈した面持ちの面々に向かって一成はちっと一度舌打ちした。
「お前ら、みつきになんかあったらただじゃおかねぇ、覚えとけよっ」
顔も名前も知らない女達、その顔を一人一人憎々しげに睨みつけてから、一成がうずくまるみつきに駆けていく。千秋は集団の中ほどに佇みながら、取り返しのつかないことをしてしまった驚愕に身を震わせていた。
みつきよりもずっとずっと前から何年も思い続け、万に一つも受け取ってもらえないだろうチョコレートを儚い可能性を信じて毎年作り続けてきた。けれどそんな千秋の長年の想いをよそに、みつきは事も無げに受け取ってもらったのだと笑っていた。それを目にしたとき、千秋は長く苦しい片想いを踏みにじられた思いで我知らずみつきを睨みつけていた。
(―私いったい…なにをしたの…?)
今年は諦めようと思っていた。みつきがいるのだから諦めなくてはいけないのに、千秋はどうしても諦めきれずに徹夜で用意した包みを抱きしめてその場に崩れ落ちた。元と慶太が中庭にたどり着いたとき、泥雪にまみれた中庭の冷たい石畳に座り込んで千秋が肩を震わせていた。
「千秋…」
元の大きな手が肩に触れ、慶太の腕が千秋をそっと助け起こした。それを見上げた千秋の頬を伝う涙が痛々しかった。いつもは気丈な気質を感じさせる表情は跡形もなく、慶太はその悲しみを誘う千秋の瞳を抱きしめてしまいそうになる。
「元…慶太…」
「風邪引くぞ…?」
慶太が泥だらけになりながら涙を拭う千秋をうながし校舎に消えると、元は中庭の悲痛なまでの光景にその手の拳を握り締めていた。




