第6章 寝ぐせ姫のほんとの秘密(4)
時間をかけて根気よく総一郎と母を説き伏せ、みつきが事件後初めてイギリスに行くことになったそのとき、総一郎は父のいるところだと、少し遠くの墓地にみつきを連れだした。みつきが初めて目にした父方の姓の墓石の存在に、みつきはその時初めて父の死と同時に母の強い拒絶の意味を知った。なんとなく分かってはいたけれど、ようやく会えた父親はすでに帰らぬ人となっていた。父の墓石にすがりつき花を手向けてから、長いこと手を合わせ続けるみつきの背中に総一郎がつぶやくように囁いた。
「父さんはな、あの事件の直後、お前が目を覚ます前に渡したいものがあるとアパートに向かって急いで車を運転していたんだ。そこで事故にあったんだ…あの日は雨が降ってたから前方の車のスピンに、スピードを出していた父さんの車は対応が遅れた…車は大きく大破して父さんは…」
総一郎はそこから先は苦しげに首を振るだけで声にすることができず、小さく鼻をすすりあげて涙に震えるみつきの肩にそっと手をあてた。
「みつき…母さんのことも恨むな…少し忙しすぎてお前に優しい言葉を欠ける余裕をなくしてるんだ」
分かるだろう?総一郎はまるでそう言う様にうなだれたままのみつきの肩を抱き寄せた。
みつきがイギリスで会った警官の遺族は、警官の妻とみつきと同じ年頃の女の子だった。二人はみつきの訪問の意図を悟ると笑顔でみつきを迎え入れた。
「わざわざ日本から足を運んでくださるなんて」
そんな風に温かく迎え入れられたこと、その事にみつきは驚くばかりだった。なぜ笑っていられるのか、そんな驚愕と戸惑いにみつきはいまにも叫びだしそうで、その顔色が優れない事に警官の妻がそっとみつきを抱き寄せた。
「あなた、まだ傷ついてるのね…かわいそうに…大丈夫よ、たくさん泣きなさい、悲しい時にはいくら泣いてもいいのよ」
みつきはその腕と言葉の優しさに思わず伝う涙をこらえ切れなかった。その場で崩れそうなみつきを更に温かく抱き寄せると、警官の妻はより一層あたたかな微笑みを浮かべてみつきを見つめ続けた。
「そしてたくさん涙を流したらあとは必ず幸せがきますよ。だから笑顔を忘れないでね」
「笑顔…?」
「そうよ、笑うの。心からの笑顔は何にも替え難いあなたの財産だもの。彼はあなたのその笑顔を守るために天に召されたの」
遺族の笑顔はみつきの胸に焼きついた。みつきを思い亡くした夫を思い浮かべた心からの笑顔に、みつきの心の氷が溶け始め、そこでようやくみつきは気がついた。自分がほとんど笑っていないこと、泣くことを我慢するだけで、笑うことができていなかったことに。それに初めて気がついた、謝罪に行ったその先でみつきは逆に教えられてしまった。
(―あたしがんばらなきゃ…もう自分のせいで総兄いが悲しい顔をしないように、みんなが自分を見てがんばろうと思ってもらえるようにならなきゃ…)
「ありがとう」
みつきが親子に向けた笑顔それがみつきが取り戻した最初の笑顔だった。
イギリスから戻ったみつきを待っていたのは、色あせた小さなピンク色の紙包みとそれを前に沈痛な面持ちでみつきを向かえた母の姿だった。
「みつき…これを…」
言葉少なに差し出された紙包みにみつきは一瞬いぶかしんだ視線を投げたけれど、そこにはさまれている小さなメッセージカードに懐かしい父の筆跡を見つけると、みつきは何を考えるより先に奪うように紙包みを手にしていた。
『愛しい小さなお姫様へ パパから愛を込めて』
色あせた包みにかけられたままのリボンを震える手でゆっくりと開くと、そこにはみつきの名前の彫られた小さな腕時計がみつきを暖かく迎え入れた。長い時を経てようやく手にしたその腕時計は、電池も切れてその時のみつきにも小さすぎた。けれど、みつきはそれを大事に包みなおすと、不安げに見守る母親に向かって小さく頭を下げた。
「ありがとう…ごめんなさい…お母さん」
最後にもらうはずだった父からのクリスマスプレゼント、みつきは父のぬくもりを残すその時計を父がくれたそのままで留めておきたくて、電池もバンドもそのままに父の写真の隣に飾り続けている。
「さっき窓が割れたとき…窓が割れた音も怖かったんだけど、ほんとは…ほんとはみんなが助けてくれようとしたその腕が…怖かったの…」
大きな音に驚いてうずくまったみつきを心配してくれたその気持ちはありがたかった。けれど過去の恐怖に苛まれ、みつきは救援に差し伸ばされた友人の腕をとることができなかった。
「怖かった…」
みつきはまた少し体を震わせながら自らの肩を抱きしめるように小さく体を丸めて呟いた。一成はそんなみつきを見ていられなくて、そっとみつきを抱きしめた。
「みつき…大丈夫だ…もう何も怖くない」
一成がゆっくりとみつきの髪を撫でながら抱き寄せた腕の中でみつきは強張った体をそっと一成にもたせかける。
「…カズ…ごめんね…」
みつきは一成から視線をはずすとうつむいた。そうして顔を伏せたみつきが困ったように眉をひそめているのが、一成には切なかった。
「何で…謝るんだ」
「だって、イヤでしょ…こんな面倒な子…」
「面倒ってなんだ…?何が面倒かわかんねぇ。お前が悪いわけじゃないんだ。お前はよくがんばってるよ」
一成はみつきの泣き顔を見つめながら、みつきの頭をくしゃっと撫でた。
「お前にそんなことがあったなんてわかんねぇくらい、お前はちゃんと笑ってたぞ」
「…カズ…」
「お前には俺がいる。お前の父親の代わりくらいいつでもしてやる」
みつきの涙がまた溢れ出そうで、一成は少し優しくけれど少し強めにみつきに言い聞かせた。今の沙紀に同じことが起こったら、そんなことを考えるだけで苦しいけれどみつきはそれを実際に体験しそして今も向き合おうと努力している。
(―俺がお前を守ってやる)
総一郎の頑なにみつきを守ろうとするその思いも、過去の苦しみと今も戦うみつきの思いも、様々なことを改めて目の当たりにして、そこに生まれる強い思いに一成は身を固めていた。
みつきは過去の苦しみに負けないようにまっすぐ前を見据えながら、それでも時々不安げに後ろを振り返っている。みつきが泣くのは見たくない、けれど泣くことを我慢しているのを見るほうがもっと辛い、一成はその事に気付かされていた。
「カズ…ありがと…」
みつきがまだあふれる涙をそのままに、一成をきゅっと抱きしめた。一成は抱きつくみつきの中に、もっと幼くて泣きながら父を求める姿が見える気がしていた。その子は一成が手を離すと泣きだしそうで、一成はみつきの髪をなでる手を離せなかった。
「…カズ…」
「なんだ?」
「いつか話さなくちゃって思ってて…でも、いつ言ったらいいか分かんなかった…だからね…聞いてくれてありがと…」
辛かっただろう、一成はこんな話をみつきにさせたこと、みつきの背負っていたものの大きさを考えるとみつきの頑張りが辛かった。一成はこれまで以上にみつきを愛おしく思いながらこんな話を聞く機会を与えてくれた保健医にどんな顔をしていたらいいか分からない、そんな気まずい感情で振り向いた場所に保健医の姿はなかった。いつのまにいなくなったのだろう、一成は珍しく気を利かせたのだろう保健医の粋な計らいにふっと微笑んだ。
「なあみつき。ハルがお前にって買っておいてくれたぞ」
「わぁ…ハルちゃん…」
みつきは一成に差し出されたいつものジュースを抱きしめると、嬉しそうに頬ずりした。そのいつものみつきと変わらぬそぶりに、一成はやっと肩の力を抜くことができていた。
「洋平も浩もお前のこと心配してた」
「そなの?千秋ちゃんも心配してくれてたから、みんなに明日お礼言わなきゃ」
みつきはジュースを嬉しそうにながめながら、ベットからぴょんと飛び降りると微笑んだ。
「まずはカズに…ありがと」
ぺこりと頭を下げたみつきの寝ぐせがまた元気にぴょこりと跳ねていた。一成はその寝ぐせごとみつきを抱きしめて放さずにいたいと思うほどその姿が愛おしく思えた。けれどその思いをこめてみつきに伸ばした一成の腕は、保健医の不意の登場に行き場を失いさまよった。
「おう、おわったかぁ?車用意してやったから、帰るぞぉ」
保健医の声音は全てを計算しつくしているのかいないのか、軽薄でいて計算高く響き渡る。一成は抱きしめそこねた感情をどうにもしようがなく、溜め息まじりに保健医を一瞬睨みつけた。
「まだお邪魔だったか?」
保健医が一成の耳元に囁いた声音はあきらかなからかいを乗せていて、一成の怒りを買っていた。不用意な保健医の計算高いそぶりに翻弄されて、一成は保健医を殴りつける代わりにその脛を後ろから蹴り上げた。




