第6章 寝ぐせ姫のほんとの秘密(3)
みつきが3歳の頃、みつきは両親の離婚と同時に、父が当時から単身赴任していたイギリスのアパートに移り住んだ。仕事で多忙を極めるみつきの父は、みつきとの時間を捻出するためにしばしば徹夜仕事も厭わなかった。みつきは母というものを知らなくても十分に父の愛を受けて育つことができていた。
しかしそんな慈愛に満ちた父に反し、みつきの母はいつも神経を尖らせ、みつきが少し大きな音を立てただけですぐに怒鳴る人だった。そんな母のぎすぎすした手をみつきは嫌い、母のもとへ行くことを強く拒絶し続けた。
「どうしても行かなきゃダメ?」
離婚の時の取り決めで一年のうちのほんの数日、母とともに暮らさなければならない時期が近づくとみつきは決まってすがるような瞳で父を見つめた。幼いみつきにそうされると、父はいつも困ったように眉尻を下げ、そしてみつきをなだめるためにいつもより強く、長くみつきを抱きしめた。
「これは父さんとみつきが一緒にいるために守らなくちゃいけない約束なんだよ?みつきが父さんと一緒にいるためには母さんとも仲良くしなくちゃダメなんだ、分かってくれるね?」
みつきは父の悲痛なまでの思いに諭されると玄関先に現れた母に向かってこわごわ手を差し伸べた。
「早くしなさいみつき、時間がないんだから」
母はみつきを父のもとから連れ去る時、いつも名残惜しげに抱擁を繰り返す二人を冷たい声音で引き離した。みつきはそんな母親の態度に抗議の声を上げることもできず、ただ冷たい手に引かれながら面白くもない暗闇を行く飛行機に何時間も揺られて過ごした。
短期間の契約を過ぎるとみつきは踊るようにイギリスのアパートに舞い戻り、みつきを迎える父の胸に飛びついた。
「おかえり、父さんの小さなお姫様は元気だったかな?」
小さなみつきの手をとる父の手は、大きくていつも温かかった。みつきを褒めるときの満面の笑顔はみつきをこの上なく安心感と幸福感で包み込み、その頃のみつきにとって父の愛情が何よりも大切な宝物だった。
しかし、そのみつきが9歳になった時、思いもかけない事件に巻き込まれた。あれはみつきが父へのクリスマスプレゼントを胸に抱え、きれいに飾り付けられた町をクリスマスソングを口ずさみながら歩いていたときだった。もうすぐ自宅というところで、急にみつきの目の前が真っ暗になった。あとはもう分からない、みつきが気づいたときには狭くて暗い闇の中だった。
『イギリスで邦人少女誘拐 3日間監禁される』新聞の見出しにはそう書いてあったから、みつきは3日の間そうしていたのだと後で知った。長い時間を暗闇と恐怖に耐えながら、みつきは体を震わせていた。
「おうちに帰して…お父さんに会わせて…」
声をあげて泣くと静かにしろと怒鳴られ、みつきは母にそうされたときのように体をびくんとこわばらせた。だいぶ長いことそうして過ごしたみつきは暗闇の外で急にあわただしくなる気配を感じ、恐ろしい物音がすぐ近くで聞こえたことに体を強張らせた。
「サツだっ」
「ちっ、かぎつけられたかっ」
―パンッ、パンッ…パンッ…
すぐ近くで救出に来た警官隊の第一陣の突入と拳銃の音が響き、その音は耳を塞いでもみつきの頭に反響するように鳴り響いた。けれどその恐ろしい音の連なりは比較的すぐにやんだ気がした。恐怖に時間の感覚もあやふやだけれど、それは長いようでいて短い時間に思え、みつきはしばらく体をこわばらせたままただ音が止むのを待っていた。
「娘を連れて逃げろっ」
不快なだみ声と扉の開く音、開いた扉の向こうへ乱暴な誰かの腕に自分が抱き上げられて走る感覚。恐怖と不安、焦りで頭はパニック状態で、みつきは暗闇から急激に連れ出された事に目がくらみ、ただただ涙を流して父を求めた。
「いやぁっ…お父さんっ、助けてっ、お父さんっ」
「うるせぇっ、黙ってろっ」
乱暴に扉を蹴破る音のあと、サーチライトの強い光と、拡声器から轟く警告音。みつきは耳元でわめく、我を失い興奮した声に体を強張らせた。
「来るなっ、近づくとこいつを撃つぞっ」
興奮しきった男の声と同時に頭に感じた冷たい感触、みつきは固い鉄の塊が押し付けれた恐怖にびくりと体を強張らせた。
「落ち着いて話をしよう。君に逃げ場はないんだ。これ以上罪を重ねるのはどちらにとっても得にはならない」
拡声器から響く声音は殊更ゆっくり語りかけていたけれど、高鳴る人々の嬌声と怒声にみつきは恐怖を煽られていた。自分に何が起きているのか考えることも出来ず、ただ否応ない恐怖に体が強張り続ける。
「だまれっだまれっだまれっ」
ガチッと金属音が耳元で響いた。みつきはそれが何の音かは分からなかったけれど、男の声音が今まで以上に猛り狂っている事にもう恐ろしさだけが募っていた。
―パアァァァン…
一発の銃声が轟いた後、みつきは生暖かい液体の降り注ぐ感覚と放り出される浮遊感を味わった。間もなく体が地面に叩きつけられて、みつきの心は一瞬暗闇に落ち込んだ。再びみつきの目に映った光景は、今もみつきを恐怖に貶めている。
サーチライトに映し出された無数の腕のシルエット、冷静になって考えればあれは救出のために伸ばされた腕だったのに、その時のみつきにはただの恐怖映像として心に深く刻まれてしまっていた。
「いやぁぁぁっ、触らないでっ、お父さんっ、お父さんっ、お父さんっっ」
代わる代わる知らない人の腕で父を求めたあの瞬間は、みつきにとって何よりも恐ろしい時間だった。
「みつきっ、みつきっ…」
「お父さんっ…お父さぁぁぁん…」
やっとの思いでたどり着いた父の腕の中で、みつきは父の手の感触と自分の名前を呼び続ける声に安堵した。そして間もなく父の腕の中で暗闇に引きずりこまれるようにみつきは気を失った。
病院のベットで目を覚ましたとき、父の姿はそこになかった。ベットサイドには泣き顔の母が頼りなげに座っているだけだった。憔悴しきった母の姿にみつきはほんの少し驚いたけれど、みつきが初めてみた母の涙よりも、みつきはただ最愛の父の姿を求めて泣き続けた。
「お父さんはどこっ?お父さんに会わせてっ」
忙しい仕事を抜けてイギリスに駆けつけた母、娘の命の危機に父と何を話したのか。憔悴しきった母親の姿に感謝するべきだった。しかし、その時のみつきにとって、母親は父と自分を隔絶する壁以外の何者でもなかった。
「どしてお父さんに会えないの…?」
「あの人には会えないわ。みつき、あなたは私と日本に行くの」
「日本…?あたしは行かない…お父さんいないのに日本なんか行かないっ」
「行くのよ、そしてこの事件のことはもう忘れるの」
父との対面を果たせないみつきの憤りもないがしろにするように、みつきは父親に会えないまま半ば強制的に日本に帰国した。しかし日本にきてもみつきの心はなかなか落ち着かず、長いこと入退院と自宅療養を繰り返し、どうにか日常の生活ができるようになるまでにはだいぶ時間がかかった。何年もかかって取り戻した日常も、繰り返し見るあのときの夢に打ち崩されることも多かった。
「お父さんっっ」
暗闇と恐怖、何本もの黒い腕、父を呼ぶみつきの叫び声、夜中に泣きながら目を覚ますと、総一郎がそばにいてくれた。総一郎はみつきが眠りにつくまで頭をなでながら、小さく震えるみつきの体を優しく抱きしめてくれた。
「みつき…大丈夫だ。兄ちゃんがついてる」
みつきは総一郎のごつごつとした手に髪をなでられながら眠りについた。狭い場所、暗い場所、突然の轟音、人ごみの中の腕、みつきの恐怖を呼び覚ますあらゆることから総一郎はみつきを守る覚悟を強いられた。小さなみつきの目線が人混みの腕に恐怖を覚えなくなるまで、総一郎はみつきを抱き上げて街中を歩いた。雷が鳴る日は一晩中みつきを抱きしめて離さなかった。
「大丈夫だ、みつきには兄ちゃんがいる」
みつきのために総一郎はまさに身を粉にしてみつきを守りぬいていた。そうして今や多少間違った方向に進んだ感はありながら、それでもみつきを包む優しさに、みつきは安堵し甘えて過ごしていた。
「お父さんにはもう会えないの…?」
総一郎に守られながらそれでもみつきが本当に安らげる場所はそこになかった。みつきの安らぎはすべて父のもとにあった。日本に来ても多忙な母は、仕事場に寝泊りすることが多くみつきとは滅多に顔を合わせない、総一郎がどんなに努力しても家庭という温かさをみつきに与えることは難しいことだった。友達の家に当然のようにあるぬくもりはみつきがどんなに手を伸ばしても届かないものだった。
「お父さんに会わせて、お父さんと一緒にいさせて」
みつきの切実とした思いも、母の強い拒絶の前にかなわないまま時は過ぎ、みつきが中学生になった時、ようやく事件のことを知るときが来た。
誰もみつきに詳しく語らないあの事件について、みつきは自分でも聞いてはいけないのだと知らずと蓋をしていたことにようやく向き合うことが出来そうだった。怖い記憶にうなされる夢、連日のように見るとさすがにみつきも眠れずに、事件のことを思うことが増えていた。
意を決して訪れた自宅近くの大きな図書館で古い新聞をたどりながらみつきは事件の日の記事をようやく見つけることが出来た。そして、みつきはその新聞を読みながら手が震えるのをこらえ切れなかった。
『英警察官 一名殉職』その小見出しの後の一文にみつきは言い知れない驚愕を味わった。『助かった女の子が是非元気にくらしてほしい。彼女の幸せを願う』たった一行だけ、遺族のコメントが書いてあった。
他の人にはなんらあたりさわりのない言葉、ありきたりでかざりけのない一言、けれど、みつきの衝撃は強かった。自分のために誰かが命を落とした、その事実は他のどんな事実より、大きくみつきにのしかかった。
(―…そんな…そんなこと…)
初めて知りえた事実の重さにみつきはその場で意識を失っていた。深い暗闇から病院のベットで目を覚ましたとき、総一郎がそばにいた。
「新聞が傍らに落ちていたそうだ、あれを見たのか」
苦しそうに言う総一郎の顔を、みつきはまっすぐ見られなかった。
「いつかは分かることだった…早く忘れろ…」
総一郎はみつきの頭をなで、みつきの涙をただ悲しげに受け止めていた。それでもみつきはなぜかあの亡くなったという警官の遺族に会いたくてたまらなくなった。会ってどうすることも出来ないけれど、ただ会いたかった。せめて、命を懸けて守ってくれた事に謝罪と感謝を述べたかった。




