第6章 寝ぐせ姫のほんとの秘密(2)
「ちわ~す、お届け物で~す」
洋平はみつきのカバンを、浩一郎はみつきの制服を、晴彦はみつきの好きなジュースを手にしていた。一成はみつきを案じてそれぞれに気遣いを見せてくれる友人に感謝しながら3人を迎え入れると次々に届け物を受け取りながら小さく頭を下げた。
「洋平、助かった。浩も、ハルも、ありがとな」
「みつきちゃん寝ちゃったんだねぇ…」
洋平はみつきの寝顔を確認しながら、安堵するとともに少し拍子抜けしたようだ。浩一郎も晴彦も思ったよりみつきの状況が良さそうな事を確認し、その顔の緊張を緩めていた。
「よかったな、カズ…」
「ああ、よかった…心配かけてすまなかった」
ぽんっと励ますように置かれた浩一郎の手に、一成は照れくさそうな笑みを向けた。娘の失態をわびつつ、娘の無事を喜ぶ父親のような瞳に、浩一郎はなんと声をかけてよいか分からなくなってしまった。
「お大事に…」
浩一郎の逡巡に晴彦の声音は静かに響く。保健医は爽やかな友情を尻目にエロ本を高々と掲げて机に足を投げ出していた。
「じゃあ、そろそろ僕達は帰ろうかな…ね、先生、カズがみつきちゃんに手出さないように、エロ本ばっか見てないでちゃんと見張ってくださいよ?」
洋平が保健医のエロ本をちらりと覗き見しながらそう口を開くと、保健医は洋平から見えない角度に体を捻って裸体を隠した。
「ケチだな~…ちょっとくらいいいでしょ」
「菱屋はエロ本なんか必要ねぇ。不自由してないだろ?」
保健医がエロ本の向こうから瞳を眇めて洋平を皮肉ると、洋平はまんざらでもない様子で微笑んだ。
「あれ、やっぱわかりますぅ?」
「けっ…やだねぇ、その年で」
「先生だって2次元より3次元の方が好みでしょ?ちゃんとすればいい男なんだから、今度一緒に飲み行きましょうよ」
「お前が卒業したら考えてやる」
未成年の飲酒を容認するような適当な保健医の返答に、一成は洋平と保健医のくだらない攻防を諌めるように口を開いた。
「あのなぁ洋平、俺だって寝込み襲うほど落ちぶれてねぇから安心しろ。とにかく今日は助かった。俺はもう少しみつきに付き添うことにするから」
一成が皆に軽く頭を下げ、みつきのクセ毛を父親のようなしぐさで撫で上げると、みつきは幸せそうにむにゃむにゃとその口元を緩めた。
「むにゃ…お父さん…」
「お父さんだってさ…そんな事言われたら手ぇだせないねぇ…」
かわいそ、カズ、洋平に囁かれた言葉に一成は小さくため息をつき、みつきが幸せそうに眠る姿にそっと肩を落とした。
保健医はだいぶ日の落ちた窓の外に目をやりながら、ベットですやすやと穏やかな寝息を立てるみつきの姿に小さく肩をすくめた。みつきは時折むにゃむにゃと寝言を呟いていたけれど、一向に起きる気配を見せない。見れば見るほど幼い容姿に子供じみたしぐさが抜け切らないみつきに保健医は首を傾げた。
(―どうみても似合わん…)
そうして眉間にしわを寄せた保健医は、みつきの傍らで参考書を手にしながらじっと押し黙ったままの一成の姿に目を移した。参考書を見つめる切れ長な瞳、高すぎず低すぎない鼻筋、どの角度から見ても形良い顎のライン、長い足を優雅に組んでパイプ椅子に体を預けるその姿は、確かに学園中が色めき立つのも頷けるほど様になっている。
(―しかし、なんでこいつはあいつがいいんだ…?こいつならよりどりみどりだろ…)
まあ実際よりどりみどりにしてきたんだろうけどな、保健医は一成の容姿の見事さにその行いを見透かしながら、その向こうのみつきと一成の対照的な組み合わせにまた首を振った。
(―だからこそ…か?)
保健医は一成に問いかけるように首を傾げてから、手にしたエロ本をぱたんと閉じて立ちあがり大きく伸び上がった。
「そろそろ起こすかぁ…」
一成はその保健医の大あくびにようやく参考書から目を上げると、保健室の外に広がる夕闇の濃さにその形良い瞳を瞬かせた。
「あ…あぁ。もうこんな時間か…」
互いに読むものの主旨は違っても長いこと活字に目を落としていた保健医に倣うように一成も両手をあげて体を伸ばした。一成が保健医よりは控えめに伸び上がっていると、その脇をすり抜けて保健医がみつきのベットへ足を進めた。
「おい、早瀬、起きろ」
「むにゃむにゃ…」
「おい、早瀬…お~き~ろ~」
「みつき、帰るぞ、そろそろ起きろ」
保健医が繰り返しみつきの耳元に轟かせたはずの声音もみつきを眠りから連れ戻すことはなかった。保健医は傍らでみつきを起こそうと努力を続ける一成と目を合わせると、頭をがしがしとかいた。
「だめだな…」
「寝起き悪りぃんだよな…」
顔をしかめた一成も髪をかきあげながら、深い溜め息を洩らした。その様子に保健医はにやりと口元を緩めて立ち上がる。
「お前がキスしたら目が覚めるんじゃねぇか?やってみろよ、俺が許す」
「なっ…」
保健医の冗談とも本気とも取れる口調に一成は言葉を失い佇んだ。すると保健医は先ほどの一成の言葉を引き合いに意地の悪い笑みを口元に浮かべて斜に構える。
「寝込みは襲わない?襲えないの間違いだろ」
「なんだと」
「だからやってみろって。さっさと自分の気持ちにけりつけた方が楽になるぞ?」
「そっ、そんなこと…」
(―言われなくても分かってる…)
一成の尻すぼみの言葉が尖らせた唇の向こうで滞っていた。みつきの小さく寝言を呟く唇が一成を受け入れることがあるだろうか、一成はしばらくベットの脇に突っ立ったままじっとみつきの口元に見入っていた。
「冗談だからな?」
保健医はあまりに一成の瞳が真剣にみつきを見つめている事にそう囁くと、一成の耳が真っ赤に染め上がっていく。
「森、お前ほんとにかわいいなぁ」
げらげらと笑う保健医の下卑た笑いに、一成は拳を握り締めた。
「ぜってぇゆるさねぇっ…」
「おいおい、ちょっと待て、ただの冗談だっ、な、とりあえずその手の拳を一回下ろせ」
人の、いや、生徒の純情をもてあそび、あまつさえそれをネタに大笑いする保健医の職務怠慢を一成が叩き潰そうと心に決めたとき、みつきの大きな欠伸が保健室に響き渡った。
「ふわあぁぁぁ…」
(―ふぅ…助かった)
保健医はみつきの欠伸に一成の拳が力を失い、命拾いした安堵感から額に浮いた冷や汗を拭いあげた。
「やっと起きたか…気分はどうだ?」
「ありゃぁ…?せんせがいる…うはよぅございませぅ…」
みつきは大きな欠伸のあとにまだ眠そうに瞳を擦りながら、滲む視界で保健医を捉え頭を下げた。一成はそんなみつきのぼやけたそぶりにため息をつきながら、ベットの傍らに腰を下ろしてその髪を撫でた。
「みつき、大丈夫か?」
「…ん~…カズぅ…?あれぇ…ここどこぉ…?」
みつきはまだ醒め切らない頭で辺りを見回し、とぼけた質問とともに首をかしげて保健医を見た。保健医はみつきの寝起きの悪さに肩をすくめて、自分の椅子にどかりと腰を下ろした。
「早瀬、ここは保健室だ。お前発作でたんだってな」
「…発作…?…あ…そかぁ…」
みつきが保健医に言われた言葉に一瞬首を傾げてから、思い出したようにぽんっと両手を合わせた事に一成はいぶかしんだ。
「発作…?」
みつきの発作、そう表現される状況に一成は思いが至らない。保健医とみつきの間には自分の知らないみつきの事情が隠されている、その事に一成は虚を付かれていた。
「早瀬。森にはまだ言ってないんだろ?」
「…うん…」
「森には言った方がいいんじゃないのか?」
保健医に促されて気まずそうに背中を丸めていたみつきは一成を振り仰いだ。
「…カズ…聞きたい…?」
「…聞きたいかどうかっていわれても、何の話だか…」
一成は訳の分からない会話の成り行きにみつきの不安げな瞳と保健医の冷静な瞳を交互に見つめるしかない。保健医は戸惑うみつきの了承をまたず、深く椅子に座りなおして指を組んだ。
「なあ、森、PTSDって知ってるか?」
「え…っと…なんか事故とかの心の傷とかトラウマとか…だったか?」
一成は聞きかじりの知識をかき集め頼りなげに保健医に伺うように口を開いた。けれどこの返答が正解か不正解かなどより、一成はその言葉の不穏な響きにこれがどんな話の始まりになるのか知りたくない気持ちが増してくる。
「ああ、そうだ。正式には心的外傷後ストレス障害って言われてるな。あまりに大きな災害や人災、犯罪なんかに巻き込まれて命の危機を感じたとき、それがトラウマになってその後の日常生活ができなくなる、そんな状態のことだが…実は早瀬がな…そうなんだ」
「みつきが…?」
保健医の口調はいつもよりずっと真剣に一成に語りかけていた。それはとてもじゃないけれどいつもエロ本片手に保健室の門番をしている人間から発せられたとは思えない声音だった。一成はそのことにこれからはじまる話の質が決して心地よいものではないのだと覚悟せざるを得ないようだ。
「お前から話すか?」
「…うん…」
みつきは保健医に不安げに瞬きながら一成を一瞬見つめたあと、膝を抱えてうずくまった。そうしてみつきがポツリポツリと話しだしたその話は、自分の顔色が青ざめていくのを隠すことより、途中でみつきの話を遮りたくなる思いを耐えて黙って聞いていることの方がずっとずっと苦しい話だった。




