第1章 眠りの森の寝ぐせ姫(6)
洋平たちとの待ち合わせまで一度自宅へ引き上げた一成が、出かける支度を済ませて台所に顔を出したとき、そこではエプロンをしめた少し小太りの母が遅めの夕飯の後片付けを始めようと流しに向かって腕をまくったところだった。
「母さんじゃあ行って来る。今日は洋平んちに泊まると思うから」
そっけない一成の口調に母はそれを咎めるでもなく、ただ皿を洗う手を休めて台所に顔だけをのぞかせた息子を振り向いた。一成にその面影をあえて探すとしたらその髪質と髪色、そのくらいだろうか、とくにこれといって特徴はないけれど柔和な微笑みは一成には遺伝しなかったようだ。一成の母は少し困ったように頬に手をあて、見上げるほど立派に成長した息子に小首をかしげた。
「あら、そう…母さんはいいんだけど、いつも洋平君のおうちにお邪魔してばかりじゃ悪いわ。今度はうちに来ていただくようにきちんとご招待してね」
「大丈夫だって、洋平んちはうちの何倍もでかいし、ちゃんと俺も世話になったらお礼くらいはしてるよ」
洋平の家に泊まると母に告げて、本当に泊まったことなど実は一度もない。母親ならではの気遣いを申し訳なく思いながら、何度も嘘をかさねていることをおくびにも出さないように、一成は急いでるからとその体を翻す。
「一成…」
今度はちゃんとお菓子を用意しておかないとと、母が息子の嘘に律儀に義理立てた言葉は息子の背中にかけるには少し陳腐すぎたかもしれない。母はかけそびれた声を飲み込んで玄関に向かう息子の姿に少し寂しそうに眉尻を下げた。
「気をつけてね」
見た目も中身も少し出来すぎた息子、自分の息子ながら誇らしくもあり同時に不憫にも思う。数年前に比べればずいぶんと落ち着いたけれど、息子の嘘など母は全てお見通しであることもきっと分かっているだろう。喧嘩のあとがはっきりと分かる腫れあがった顔で朝帰りした時も、あの子は洋平のうちの階段から落ちたと嘘をついた。体のアザがひどく病院に行こうといってもあの子は痛くないと嘘をついた。今夜もまた嘘をついた、けれど母としてそれが分かっていても息子の負担を増やすだけと思えばこそ、騙された振りをしていた。
もう少し待とう、あの子が嘘をつかないくてもいいようになるまで、母は玄関先で大きく育った背中を丸めて靴を履く息子の姿を見つめていた。
「お兄ちゃんお出かけ?」
一成が革靴の紐を結び終えた時、立ち上がりかけたジャケットの裾を小さな小さな手が引き止めた。一成はもうすでに眠っていると思っていたその小さな手に諦めにも似た吐息を洩らして振り向いた。
「沙紀…ちゃんと寝てないとだめじゃないか。無理するとまた苦しくなるぞ?早くベットにもどれ」
一成は小等部に通う妹の頭に軽く手を乗せると、自分の腰あたりの視線まで体をかがめ優しく微笑んだ。このところの暖かさにようやく軽快を見せた沙紀の喘息発作は、この冬特にひどかった。沙紀の体調を懸念する一成の慈愛に満ちた微笑みが、沙紀以外に向けられることはない。しかし、この特別な微笑みにも沙紀は大きな瞳を潤ませて、なおも一成から手を放そうとしなかった。
「お兄ちゃんが一緒なら…戻る」
「沙紀…兄ちゃんは友達と約束があるんだ。もう時間になるから行かないと」
「でも…お兄ちゃん…」
みなまで言わずとも伝わるその不安に声を震わせる沙紀の瞳からは、もう大粒の涙が顔を覗かせていた。一成はそれに困ったように眉根を下げると、沙紀の小さな体を優しく抱き寄せた。
「心配すんな、洋平たちと一緒に遊ぶだけだから。沙紀が起きるまでには帰ってくる。それにあさって沙紀が兄ちゃんと同じように春休みになったら、沙紀の行きたいとこ一緒に行こう。だから今日は、な?」
分かってくれと懇願するような一成の口調に沙紀は一成を見つめてからふるふると頭を振り、零れた涙を一成のシャツで拭っていた。
「だってお兄ちゃん、お怪我するでしょ…?」
沙紀の不安を形にした言葉、それに一成は胸を深く抉られる思いだった。あれは去年だったか、久々にひどく顔を腫らして帰ったときのことだった。沙紀は大丈夫だという自分の言葉には耳を貸さずずっとつきそって離れなかった、今その時のことを思い出し心配しているのだろう。
「沙紀…ごめんな、心配させて。でもな、大丈夫だ。兄ちゃんはもう怪我したりしないって約束するから」
一成が小さな小さな体に不安を溢れさせ自分を思う愛おしい妹の背中へぽんぽんと優しく手を当てると、沙紀は大きな一成の体をその小さな腕で精一杯抱きしめ返した。
「ほんと…?お兄ちゃん約束だよ?」
「ああ、約束する」
「ほんと?」
「ああ、ほんとだ。それに、沙紀の好きなとこ行くって約束もちゃんと守る」
沙紀は一成がまっすぐに自分を見つめるその眼差しに真実を見出しながら、じゃあと小さく呟きその目の前に小指を立てた。
「お兄ちゃん、約束ね」
一成は指きりげんまんしろと差し出された沙紀のほっそりとした指に、自分の小指の先っぽを絡めると沙紀が節をつけて歌う姿を見つめて微笑んだ。入退院を繰り返し変に物分りの良くなってしまった沙紀も、やはり小学生なのだと思うこういう瞬間が一成は嫌いではない。けれど高校生にもなって指きりさせられることには少しばかり辟易し、一成は沙紀が小さく小指をきるのをほんの少しじりじりしながら待っていた。
「沙紀、どこに行きたいか決めておけよ」
一成が沙紀の小指が離れたとき、沙紀の髪をくしゃりと撫でて微笑んだ。その笑みはほんのりと指きりの苦味の余韻を残していたけれど、沙紀は一成の問いかけに即座に瞳を輝かせた。
「わたしお兄ちゃんと公園行きたいの、あの長い滑り台があるとこ。遠足で行くはずだったけど行けなかったから…みんながね、楽しかったって言ってたの」
「ああ…丘公園か?わかった、じゃああったかい日に行こうな」
一成は地元では有名な公園の愛称で沙紀に確認すると、沙紀の瞳が嬉しそうにほころんだことにほっと息をついた。楽しみにしていた遠足は確か沙紀が熱を出して行けなかったはずだ。自分も同じように遠足や運動会を諦めなければならないことが多かった。その寂しさや悔しさが分かるだけに、一成はこんなことで沙紀がその時の辛さを払拭できるならなんでもしてやろうという気持ちになる。
「ありがと、お兄ちゃん。大好き」
「そか…兄ちゃんもだ」
沙紀が嬉しそうにきゅっと抱きつくのを受け止めながら、一成はその髪を撫でた。春とはいえ朝晩の冷え込みのきつい玄関先での長話は沙紀の髪を芯まで冷やしていた。
「沙紀、早く寝ないと風邪引くぞ」
「うん、わかった。いってらっしゃい、お兄ちゃん」
一成は背中に感じる沙紀の温かな小さな手のぬくもりに無垢な愛おしさを感じながら、服の裾を掴んだままの小さな手にそっと自分の手を重ねて微笑んだ。
「じゃあな」
一成は最後に沙紀の小さな頭にぽんっと軽く手を乗せて、小さく手を振る沙紀に見送られながら自宅を後にした。すっかり日の落ちた暗闇を歩く一成の足取りは、およそ遊びに行く時の浮かれたものとは異なり、母と沙紀についた小さな嘘への罪悪感が滲み出ていた。