第6章 寝ぐせ姫のほんとの秘密(1)
「カズっ、大変だっ。早瀬が倒れたぞっ」
浩一郎は放課後の静けさを引き裂くように慌しく部室の扉をひき開けると同時にそう叫んだ。「どうした?浩…」
「どうしたじゃない。早瀬が倒れたんだ」
「みつきが倒れるなんて珍しくないだろ?」
みつきが倒れることなどこれまで何度となくあった、むしろ浩一郎がこれほど取り乱すことのほうが珍しいだろう。一成はみつきが倒れたということよりも、浩一郎が取り乱しているその事に目を見開いていた。
「違う違う、カズ。転んだんじゃなくて倒れたんだ」
浩一郎は体育館から走り続けて乱れた息を整えながら、何度もかぶりを振ってことが大事に至っていることをまくし立てた。
「早瀬が体育館で部活中にな、野球部の硬球が窓に当たって一枚ガラスが割れたんだ。あの窓でかくて厚いだろ?結構すごい音がしたみたいで、それに驚いた早瀬がそのまま…」
「でかい音…体育館だなっ?」
「ああ…って、おい、カズっ」
一成は浩一郎の話の途中から手にしていた参考書を取り落として立ち上がると、浩一郎に場所を確認し一目散に駆け出した。みつきに向けて一直線に走り出した一成の脳裏には春先に車のバックファイアに驚いた時のあのみつきの姿が思い浮かんでいた。
「さすが、カズ。みつきちゃんの事になるとてきめんだねぇ」
洋平は一成を駆り立てたいのか引き止めたいのかわからない面持ちで一成の背中を見送る浩一郎に声をかけた。
「で、みつきちゃんは無事なの?」
「あ…ああ、怪我はないんだがひどく驚いたのか一瞬気を失ったみたいなんだ」
「…気絶…?」
晴彦がみつきの一大事に浩一郎を不安げに見つめていると、浩一郎はその問いかけにまた少し慌てた様子で言葉をつなげていく。
「そうなんだ、ハル。すぐに意識は戻ったんだが、なんだか様子がおかしいって、あの早瀬といつも一緒にいるあの…あの子、いるだろ?あの子が俺にカズに知らせて欲しいって言ってな…」
洋平は千秋ちゃんのことかなと思い浮かべながら、ソファの上で胡坐を組みなおす。最近ヨガが気に入ってるといいながら、洋平はこうして瞑想まがいの昼寝をするのを趣味にしていた。
「ふ~ん…で、浩は何で体育館にいたわけ?」
「俺?俺は柔道部に呼ばれてな…」
「ああ、いつものしつこい勧誘か…」
「部活は入らないって言ってるんだけどな」
「まあ、柔道部の呼び出しもたまには役に立つってことだよね。みつきちゃん無事ならいいんだけど、ちょと僕様子見に行こかな」
洋平は組み過ぎて少し痺れの残る足を振りながら、靴を引っ掛けて歩き出す。
「ハルもおいでよ。気になるんでしょ?」
晴彦はカウチの上でそわそわし始めた晴彦を指先で招くと、浩一郎を促して歩きだした。
一成が体育館についたとき、みつきの周りには人垣が出来ていた。体育館で練習に励んでいた部活動の面々以外にも人が集まっているようだ。一成はその人垣に面倒くさそうに顔をしかめたけれど、一番後ろで囁き合っている男子学生の中からとくに騒がなさそうな学生を選んで声をかけた。
「悪い、ちょっと開けてくれないか」
「…カ、カズ先輩っ…ど、どうぞ」
一成がいつもよりは幾分か丁寧な口調を心がけると、肩をたたかれた学生は眼鏡の奥の瞳を見開いて、一成の読みどおり比較的静かに道を開けてくれた。
「悪いな」
一成が最初の彼に礼を言うと、その気配につぎつぎと道が開かれていく。みつきは3重の人垣に囲まれてすっかり青ざめた顔で小さく肩を震わせていた。ポニーテールを肩にたらしたみつきの友人らしき人影がみつきにぴたりと寄り添っていた。
「みつきっ…」
「カズ…?」
一成の姿を目にして、みつきは青ざめた顔色のまま小さく唇を動かした。以前マイスナで見たときと同じように血の気の引いた顔に震える肩が痛々しい。一成は人ごみを掻き分けてみつきの傍に跪くと、何を思うより先にその肩をそっと抱き寄せた。
「大丈夫か?怪我はないのか?」
「うん…だいじょぶ…」
「なにがあった?」
「んと…窓が割れてびっくりして…で、立とうと思ったんだけど…気持ち悪くて…立てなくて…」
みつきはまだ震える声音で途切れ途切れにそう伝えると、またその時の恐怖が蘇るのか一成のシャツを握り締めていた手に力を込めた。
「みつき…こわかったな…もう大丈夫だからな」
一成はこの場の誰よりも自分を頼りにしているだろうみつきを包み込みながら、何度も繰り返し囁いた。
「俺がいる…大丈夫だぞ」
「カズ…」
みつきは一成に髪を撫でられる安堵と一成の腕の温かさにゆっくりと瞳を閉じ、ようやく落ち着きを取り戻したようだ。けれどまだその顔色は通常とは程遠く、もとに戻るにはまだ少しばかり時間がかかりそうな気配を見せていた。
「みつき、もう少し休んだ方がいいな…保健室行くから、ちゃんと掴まれ」
一成の囁きに小さくうなずいて、みつきの腕が首に回されると一成は軽々とその体を抱き上げた。その時、一成の登場に更に厚みを増した人垣をかき分けて洋平の気の抜けた声が一成の耳に届いた。
「カズ、みつきちゃんだいじょぶだった?」
みつきを抱き上げた姿勢のまま洋平と目が合うと、一成は小さくうなずいた。人ごみの向こうには浩一郎と晴彦の姿も見え、一成はその顔ぶれにほっと小さく安堵の息を洩らした。
「ああ、とりあえずはな…でも一応保健室に連れてくから、悪いがみつきの荷物とか頼む」
一成は洋平の返事も待たずにみつきを抱いたまま、体育館を足早に立ち去った。みつきがいくら小柄とはいえ軽々と人一人抱き上げた一成の勇姿に、洋平は場違いにも感心しきった声を洩らした。
「さすがだねぇ、カズ…王子様みたい」
洋平はくすっと小さく笑みを洩らすと、一成を見送る群集の中に見知った顔を見出だして声をかけた。
「千秋ちゃん、みつきちゃんの荷物、くれるかな?」
「あ…は、はい」
千秋は洋平の声に一成の背中に惹きつけられていた瞳を慌てて取り繕うと、部室に向けて走り出した。
「なるほど…切ないねぇ…」
洋平は走り去る千秋のポニーテールを見送りながら、頭の後ろに両腕をくんで微笑んだ。その口元の笑みは千秋の乙女心を悼むそぶりを見せながら、意味深な趣を見せていた。
「早瀬は寝たのか?」
一成が保健室にたどり着いたとき、みつきはその腕の中で小さな寝息を立てていた。一成の腕に包まれる心地よさと安堵に欠伸を繰り出したみつきに、眠るように声をかけたのは一成だった。その寝顔はとても穏やかで、顔色もだいぶ通常の色を取り戻していた。
「ああ…でもまだいつもより顔色が悪い。もう少し寝かせた方がいいと思うんだ」
「そうだな…まあ、ちょっと寝たらもう少し顔色も戻るだろ」
保健医はいつもよりは少し慎重にみつきの診察をしながら、不安げなそぶりを覗かせる一成を振り仰いだ。
「で、お前は王子か父親か、どっちなんだ?」
「どっ、どういう意味だよ」
保健医の唐突な問いかけに一成の狼狽は著しかった。保健医はあからさまな一成の顔色の変化に肩をすくめて少し深い吐息をついた。
「そのまんまだ。言ったのか?…お前のことだからまだ言ってないんだろな。まあ、お前らになんか変化があったらすぐ耳に入るだろうけどな」
「う…うるせぇ…」
力ない一成の悪態、赤らんだ頬が初々しく、保健医の意味深な視線の中で動揺しきった所作のまま一成は少し乱暴にみつきのかけ布団を引き上げた。
(―いつまでも初心なやつだ…)
保健医は慣れない恋愛感情に戸惑う一成の思いを図りながら、机の上に開いたままだったエロ本を手に口端をくっと引き上げた。
「楽しみにしてるんだ。これでも」
保健医の口調は青くさい恋愛話をバカにしきった普段の口調とは異なり、純粋な恋の成就を願う思いに満ちていた。
「な…なんだよ…」
(―急に優しくされてもなぁ…?簡単に言えるもんでもねぇんだよ…)
一成がそんな不慣れな保健医の優しさに戸惑いながら、規則的な寝息を立てるみつきの髪を撫でた時、洋平たちががらりと保健室の扉をひき開けた。




