第5章 寝ぐせ姫の恋愛事情(15)
「じゃあな、森、お前はここから帰れよ。それからな、お嬢の足、今日は絶対安静だからな」
言ってる意味は分かるな?保健医はにやりと口角を引き上げて、一成の肩を叩いた。
「なっ、なんだよ」
「分かってんだろ?こんないいチャンス二度とないかもしれないぞ?たしか早瀬は一人暮らしだったよな」
保健医は親しげな口調で一成の耳元に囁きながら、その含んだ物言いに一成の頬が染め上がるのを楽しんでいた。
「怪我や病気でピンチの時ってのは、女を落とす絶好の機会だ。うらやましいねぇ」
「何がうらやましいだ。さっさと帰れ、このエロ保健医がっ」
一成はあからさまな保健医の企みにひそやかに悪態をつきながら、足を引きずって車を降りるみつきに手を差し伸べた。
「せんせ、送ってくれてありがとでした」
みつきがぺこりと頭を下げると、保健医は運転席から身を乗り出して嫌な具合に緩んだ口元でみつきに訓示めいたことを説きつけた。
「早瀬、いろいろと気をつけろよ。じゃあな、森」
保健医はいやらしい笑みを意味深な挨拶とともに一成に残すと、一成の怒りに車を壊される前に一目散にエンジンをふかしみつきのマンション前から走り去って行った。
(―今に見てろよっ、エロ保健医っ)
一成はあっという間に走り去っていく車のテールランプを憎々しげに睨み付けてから、保健医の車が見えなくなるまで手を振るみつきに口を開いた。
「荷物はあとだな。ここに置いておいても大丈夫か?」
「うん、だいじょぶだよ」
「じゃあみつき、首につかまれ」
「あ~い」
みつきは保健室から車までそうされたのと同じように、一成の腕に抱き上げられて嬉しそうに微笑んだ。
「えへ、なんか嬉しいな」
「なっ…」
なんだよ、そう言いそうになってみつきの囁きに合点がいった。
「お父さんみたい…」
小さなみつきの囁きが一成の胸にくすぐったいような温もりを呼び寄せる。一成は首元にしがみつくみつきにしっかり掴まれと囁き返し、エレベーターの到着を待っていた。
みつきを部屋に運び上げてからエントランスに戻り荷物を届けた一成は、保健医の意向など無視して玄関先から暇を告げようと口を開いた。その時、キッチンからみつきの叫びと、派手に物が床に落ちる音が響き渡った。
「あつぅぅぅぅいぃっ…いたぁぁぁいっ」
「みつきっ?どうしたっ、大丈夫かっ?」
みつきの叫びに慌てて台所に駆けつけた一成が目にした惨状は、みつきの疑いようのないどじっぷりをこれでもかと繰り広げた光景だった。シンクに転がるカップが二つ、コーヒーの香りの広がるキッチンで、床に落ちたやかんから立ち上る蒸気の中に、みつきは右手をぎゅっと握り締めて一成を振り向いた。
「みつきっ、大丈夫かっ?」
「ん…と…コーヒー…」
「そんなのいいっ、早く冷やせっ」
一成はお湯がかかったのか赤くなったみつきの手を掴むと手早く氷水を作った。
「まったくお前は一体一日でどんだけ怪我すれば気が済むんだよ…」
「ん~…ごめんねぇ、カズ…」
ボールの中で氷をもてあそぶみつきに一成が小さくぼやきながら汚れた床を片付け、やかんを火にかけなおしていると不意にみつきが口を開いた。
「ね、カズ…なんで今日元ちゃんに殴られちゃったの?喧嘩してたの?」
みつきのまっすぐな瞳に見つめられて一成の胸が小さく痛み、その痛みに一成はついみつきから視線をはずしながらその頭をくしゃっと撫でた。
「なんでもない、お前が心配することじゃない」
「でも、カズ、最近ずっと…変だったよ」
「俺が…?」
一成がみつきの非難がましい言葉にいぶかしみながらみつきを振り向くと、今度はみつきが一成から顔をそらして頬を膨らませていた。
「そだよ…今日だって…約束したのに……」
「約束…?ああ、写真…?」
「そ…だよ…」
みつきの声が涙に濡れて背けた顔の隙間から涙が頬を伝っていく。たった写真一枚のために涙を流すみつきの姿に、一成は突如として頭をもたげる罪悪感と同時にたまらない愛おしさがこみ上げる。急激に高鳴る鼓動とその胸の温かさに、気がつくと一成は何を考えるより先に涙に震えるみつきの体を抱き寄せていた。
「みつき…ごめんな…」
一成の声音はこれまでに無く甘やかで、囁く声はみつきの心に響き渡った。抱き寄せる腕は力強いのに、みつきが壊れてしまわないように包み込むような優しさが込められていた。
「カズ…?」
一成に抱きしめられることなどこれまでに何度もあったけれど、それでも微妙に異なる感触にみつきは不思議そうに一成を見上げていた。そうして見上げるみつきに引き込まれるままに何も言わずに見つめ返す一成の瞳には、誰をも一瞬で蕩かせる不思議と怪しい雰囲気が漂っていた。
「みつき…」
LIvRAで一成が無駄な言葉を必要としないのはこの瞳の妖艶さが功を奏しているからだった。一成は無意識のまま艶やかな瞳でみつきを見つめ、その柔らかな唇にゆっくりと指を這わせた。みつきは吸い込まれるように一成の瞳を見つめたまま、微動だにすることなくただ一成にされるがままに任せている。
―みつき…
「カズ…?」
一成の声にならない呼びかけにみつきのふっくらとした唇が吸い寄せられるように近づいた時、火にかけ直したやかんから沸騰を知らせる甲高い音が辺りに響いた。まるで存在を誇示するように鳴り響くその音に、一成が殊更大きく体を飛び上がらせ体を離すとしゅんしゅんと蒸気をあげるやかんを黙らせた。
「あ~…みつき、けが人は大人しくしてろ。コーヒーは俺がいれてやるから、お前あっち行ってろ」
「う…うん…」
一成はどうにかいつものようにぶっきらぼうな口調でそう言うと、足を引きずりながらリビングに引き上げるみつきの気配を背中で感じていた。どうにかみつきがリビングにたどり着いたのを確認すると、一成は途端に脱力した。
(―俺は今、何をしようとしていたんだ…)
一成は混乱しきった頭に自問自答を繰り返しながら、驚きと同時にあと一歩というところで邪魔されたそのもどかしさから叫びそうになるのを必死に押しとどめた。保健医の企みどおりみつきにキスをしようとしていたこと、そのことは頭の片隅で十分すぎるほどに分かっていながら、それを必死に打ち消すように一成は激しく頭を振った。
(―いや、それはだめだろ、俺っ)
一成は自らの邪な本能に首を振りながら、同時にこれまで捜し求めたみつきと沙紀の明瞭な境界線にようやく気付いていた。みつきを抱きしめキスをしたいと、自分の感情が自然とそう動き、「好き」という感情がぴたりと一成の胸の隙間を埋め尽くすと、心に満ちる光のあたたかさが何物にも変えがたい感情を呼び起こしていた。
(―そうか、これか…これが好きってことか…)
ようやく取り戻した欠けていたパーツが、何よりも輝きを持って一成の胸にきらめいていた。生まれ変わったような激しい変化は一成に心地よく、失っていたものの大きさを一成に知らしめていた。
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