第5章 寝ぐせ姫の恋愛事情(10)
浩一郎はみつきを送り出した後、一成を探して保健室を訪れた。浩一郎は椅子に腰掛けたまま惰眠をむさぼる保健医の傍らのエロ本に目を留めて、相変わらずの職務怠慢さに眉をひそめた。
「先生、先生」
浩一郎が声をかけるまで保健医は熟睡していた。その眠りの深さは一成のため息など耳にしてもいなかったような様子だった。
「おう、なんだ…大友か…手前のベット使え、奥は森が使ってる」
「やっぱりカズのやついるんですね…俺はいいんです、カズの様子を見に来ただけなので」
「ああ、そうか。お前はあいかわらず堅物だな」
「…性分なんです」
浩一郎はあからさまにエロ本と保健医に眉をひそめたけれど、保健医は大きな欠伸をしながら浩一郎の非難がましい視線を跳ね返してしまう。ふてぶてしいまでの保健医のそぶりに溜息混じりに浩一郎が奥のベットを覗くと、そこでは一成が静かな寝息をたてていた。
(―起きたら早瀬がどんなに辛そうだったか、しっかり聞かせてやるからな)
そうしなければ自分の気持ちが収まらない、浩一郎はそんな憤慨を胸にしながら、それでも朝から暗く沈んだ一成の表情がほんの少しだけ穏やかに見えたことに救われた思いがしていた。
「じゃあ先生…カズのことよろしくお願いします」
悪びれる様子も無くエロ本を広げる保健医に、浩一郎が儀礼的に頭をさげ廊下に歩き出したその時、保健医は立ち去る浩一郎を呼び止めた。
「なあ、大友。なんでこいつはため息ついてんだ?なんか知ってんだろ?」
保健医は聞いていた、横になってから一成が何度となく深いため息をついていたのを。浩一郎は保健医の言葉に目を見開きながら、ようやくエロ本を閉じた保健医にまじまじと見入っていた。
「俺はこれでも保健医だからな、お前らのちゃちな悩みを聞いてやるのも仕事の内に入ってるんだ」
浩一郎を見る保健医の目は生徒を慈しむというよりも、面倒くさい、そう言っていたけれど侮れないその観察眼は浩一郎を感心させていた。
「それじゃあ先生…ちゃちな質問なんですけど…人を好きになるってどういうことですか?」
「やな質問だな…大友は性格がいいんだか、悪いんだかわかんねぇな」
保健医は頭をバリバリと掻き片目をつぶって小さく舌打ちしてからふ~と大きく息をついた。
「そうだな…たとえばだ、大友は一目ぼれってどう思う?」
「一目ぼれ…ですか?」
「そうだ。一目ぼれだ。おとぎ話の王子様は舞踏会に現れた美女や森で眠る美女なんかに一目で恋に落ちるだろ?そんなのありえねぇって思うかもしれないが、案外そうでもないって言ったら、お前はどう思う?」
「そうですねぇ…やっぱりありえないって思うかもしれません」
「だよな。でもな、実はこの一目ぼれってのが案外多いんだ。お前は確か彼女がいたよな?その彼女に会ったとき、お前どう思った?」
普段さほど交流のない保健医に案外とプライベートなことを指摘され、浩一郎は思わず素の驚きを浮かべ頭をかいた。
「奈緒に…?どうって言われても、奈緒とは幼馴染で…」
「でも、どっかで一瞬『おっ、こいつは…』って思うことがあったんだろ?だから付き合ってる」
「そうですね…まあ…」
保健医は煮え切らない返事を返す浩一郎へ小さく肩をすくめながら、無骨ながらに一途な想いを内に秘めている浩一郎の姿を満足げに見つめて口を開いた。
「思春期になって異性を意識して、初めて女として彼女を見た瞬間がそれだ。その時お前は彼女に一目で恋に落ちた、そうだろ?」
「…確かに…久しぶりに奈緒に会ったとき随分変わったなと思って、それで…」
「もう彼女しか見えなくなった。一目で彼女を見る目が変わって、惚れ込んだ瞬間がそれだ。そこに理由なんかない。かわいいかかわいくないか、そういうことじゃなくて、もうその目が他の女を異性として意識しなくなっただろ?」
「そうですね…俺、その時はそれがどういう気持ちか分からなかったですけど、今思えば先生の言う通りだったと思います」
浩一郎は保健医の問いかけにその時の己自信を思い浮かべ力強く同意を示した。何年かぶりに奈緒に会った瞬間、そのすらりと伸びた手足と、少し恥ずかしそうに浩一郎に手を振ってくれた姿を脳裏に思い浮かべていた。
『浩ちゃん…これから一緒の学校だね』
首をかしげた奈緒の肩先で揺れる黒髪、奥二重の切れ長な瞳、キメの細かい白い肌。幼い頃にはなかったほっそりとした静かな笑みが随分と大人びて見えて、浩一郎はその瞬間から惚れ込んでいたのだろう。
「大友…お前は普段こちこちに固いくせに急に素直になるな。こっちが照れるぞ」
保健医は昔の記憶に想いを馳せている浩一郎の顔つきに頭をかいて、その脛を軽く蹴り上げた。
「あ…すいません」
浩一郎は淡い思い出にすっかり陶酔していたことに頬を染めると、保健医と同じように頭をかいて小さく頭を下げた。すると保健医は両手で勢いよく膝頭を叩くと、乾いた音をたてて話の結びを繰り出した。
「お前には分かるはずだ。人を好きなるってことが理由や理屈じゃねえってことが。そいつに惹きつけられて、そいつしか目に入らなくなったらそれはもう惚れてんだ」
そうだろ?そんな風に浩一郎の返事を促すような保健医に、浩一郎はうなずくことも出来なかった。普段いい加減な保健医から繰り出される意外にも説得力のある言葉は、浩一郎を愕然とさせていた。けれど、保健医はそんな浩一郎の反応にまたがしがしと頭をかくと小さく吐息を洩らした。
「ま、そうやっていろいろ思い悩むからこその青春なんだろうな。いいねぇ、青い春、俺ももどりてぇ」
そう言ってまた保健医は大きく伸びをした。大して眠そうでもないのにそうすると欠伸が出るようで、保健医は大きな口をあけて欠伸をして見せた。それでも浩一郎はつかみどころのない保健医の所作に、不思議と肩の荷が下りたような気がした。
「先生、先生のありがたい訓示に目からウロコが落ちました。ありがとうございました」
保健医は先ほどとは打って変わった浩一郎の真摯な態度にふんっと、鼻息で返事を返す。
「おう、森が目ぇ覚ましたら、森にも言ってやる。くだらんことに悩む前に、自分のお姫さんが案外近くにいるって言ってやればいいんだろ」
「…千里眼…ですか…?」
「まあな、だてにここの門番やってるわけじゃねぇ、お姫様はどじすぎる。あれじゃあ、百年の恋も冷めるってもんだ。おれにはわからんね」
「わからなくても好きなんじゃなかったでしたっけ?」
「けっ…お前はすました顔して、きついねぇ」
「すいません、これも性分ですから…じゃあ、先生、カズのことくれぐれもよろしくお願いします」
保健医は頭をまたガシガシと掻きながら、浩一郎が深々と頭を下げるのを見ていた。
「おう、お前もあんまり悩むなよ、頭がはげる」
保健医の冗談交じりの声音に浩一郎は頭を触りながら、ちょっと笑ってまたグラウンドに足を向けた。
浩一郎がグラウンドに戻った時、砂埃が舞い上がるそこは先ほどとなんら変わらないようでいてなぜか少し騒然として見えた。浩一郎はそれに嫌な予感を感じつつ席に戻ると、洋平の言葉に声を翻らせた。
「保健室っ?」
「そ、みつきちゃんさっき転んじゃったんだよね。それで足捻ったみたいで立てなくてさ、元が保健室に連れてった」
「元と…保健室…」
「そ、だいたいみつきちゃんどじなのに、なんで障害物競走なんて出たんだろうねぇ」
浩一郎は洋平が物憂げに話す後半部分には耳も貸さず、苦渋に満ちた声音を洩らした。
「最悪だ」
「あれ…?やっぱ、カズ保健室だった?」
洋平はきっと元が早瀬に付き添う展開を面白そうに眺めていたはずだ、浩一郎はそんな風に歯噛みしながら洋平と晴彦を促すと保健室へと走り出した。




