第5章 寝ぐせ姫の恋愛事情(9)
体育祭日和となったその日、秋空はいつにもまして高く感じられていた。風が少し強くたびたびスプリンクラーによる放水が繰り返されていたけれど、それもほんの気休めにしかならなかった。
「やったぁ、大成功~」
みつきはエキシビジョンの終わりにチア部の衣装を身にまとったまま、元に向かって手を振りながら駆け寄った。赤いコスチュームにピンクのポンポンはみつきによく似合っている、元がみつきを笑顔で迎え入れると、みつきはそれに無邪気に微笑み返した。
「ね、どだった?」
「あ…ああ、いつ転ぶかひやひやした…」
元が正直な気持ちをそのまま言葉に乗せると、みつきはえ~っとむくれた顔で元を睨みあげた。すると元はそれに小さく微笑んで、みつきの頭をくしゃっと撫でる。
「けど、すげぇがんばってたな。俺、ちょっとみつきを見直した」
「そでしょ?がんばったもん。ね、カズもちゃんと見ててくれたかな?」
みつきのいつもの口調にいつもの微笑み、それがやけに苦しく見えて元はその苦しさから逃れるように顔をそらせた。
「さあ、どうだろうな…」
そうして2年の応援席へ視線を送った元の視界に、あの不愉快な面持ちの一成の姿は映らなかった。
「そうだみつき、写真撮ろうぜ。千秋があっちで待ってる」
元はぽんぽんを持ったまま背伸びしながら一成の姿を遠くに探すみつきの肩を叩くと、同じコスチュームに身を包んだ千秋が手を振っていることをその視線で示す。
「うん…」
みつきは居るはずの場所に一成の姿を見出せず、名残惜しげに何度も振り返りながらカメラの前にたった。千秋と一枚、元と一枚、慶太と一枚、チア部のみんなで一枚…カメラのシャッターは何度も切られているのに、一成は一向に姿を現さない。
「カズ、忘れちゃったのかな…?それとも…怒ってるのかな…」
みつきは指きりげんまんしたあとの一成の怒声を思い出し、急にシュンと肩を落とした。そうして口に出してしまったら、ぽんぽんで顔を覆い隠さなければいけないほど涙が溢れ始めていた。
「カズ…写真嫌いだもんね…無理にお願いしたのがよくなかったのかな…」
みつきはその場でくすんと小さくすすり上げると、零れ落ちた涙を拭って、よしっと意気込んだ。
―やっぱり謝ってこようかな
みつきは小さく呟きながら迷うそぶりを見せていた。そうして逡巡しているみつきの腕を、元の腕がぐっと掴んだ。みつきは元に掴まれた力の強さに一瞬顔をしかめ、そしてすぐに真剣な元の視線に驚いたように瞬いた。
「みつき…やめとけよ」
「どして?」
小首をかしげて元を見つめるみつきの瞳はまた少し潤み始めていた。元はそんな純粋なみつきの涙をまっすぐ受け止めることが出来ず、みつきのために言えなかった事実をようやく搾り出した。
「カズ先輩…居なかったぞ…ずっと…」
「ずっと…?」
みつきは元の苦しそうな声音に沈み込みそうな自分を必死に奮い立たせると、苦しげな声音の元の腕に軽く手を添えた。
「そんなことないよぉ、だって約束したんだもん。カズは怒っててもちゃんと約束守ってくれるよ?」
みつきは一成への無条件な信頼に瞳を輝かせ、元の制止を笑顔で振り切った。
「やっぱカズんとこ行って来るね」
秋空に負けないくらい晴れやかな笑顔で駆け去るみつきの後ろ姿は軽やかで、元の心を締め付けた。
―みつき…目腫れてるぞ…?
―え…?そ、そかな…体育祭が楽しみであんまり眠れなかったからかな?
朝会った時、みつきの赤く腫れ上がった瞳に元が目を見張ると、みつきはそんな見え透いた嘘をついていた。そのみつきの目の腫れは朝よりずいぶんましになっていたけれど、それでもみつきの苦しい嘘の元凶を元は十分すぎるほど分かっていた。
(―なんで泣かすんだよっ)
元ははらわたが煮えたぎるような憤りを持って、そこに居ない一成のいけ好かない双眸を睨みつけた。
まるで以前のカズに逆戻りだ、浩一郎は一成の座っていたはずの場所を睨みながらため息をついた。今の一成は以前のように暗闇に身をひそめ、閉ざされた扉の向こうで小さく丸まっていた。少なくとも、傍らで見守る浩一郎の目にはそう見えていた。
「カズ、どうしていないの?」
みつきは昨日泣きはらしたのだろう腫れぼったい目を浩一郎に向けていた。その瞳にはまた涙があふれ出そうで、浩一郎は切なさに歪む顔を隠しきれなかった。一成は重い足取りながらも学校に足を運び、そしてつい最前まではここにいたはずだった。みつきのエキシビジョンを見ようとしていたことも知っている。ただ砂埃の舞うグラウンドに撒かれたスプリンクラーに少し涼しい風が吹きすぎた頃、気がついたときには一成の姿は無かった。
「カズは後で探してきつくお灸をすえてやる。だからな、お前はもう行け。午後イチで出るんだろ?」
浩一郎に何度となくそう諭されて、みつきはポンポンで涙を隠して走り去った。その背中はいつになく小さくて、浩一郎の胸を締め付けた。
一成はエキシビジョンを遠くから見つめていた。近くから見つめるには少しばかり自分の感情が納まりきらず、かといって約束を違えることも心苦しかった。けれど、エキシビジョンの終わりに元に駆け寄っていくみつきの姿を目にしたときには、不安定な心にこみ上げる感情にすっかり自分を見失っていた。
「みつき…」
一成の足は自分でも気がつかないうちにグラウンドから逃げるように校舎に向かっていた。写真を撮る約束もすっかりと一成の中から抜け落ちていた。ただ一人になりたかった。体育祭中は全ての教室の鍵がかけられていて、一成が仕方無しに保健室の扉を開いた時、保健医はエロ本を片手に眠りこけていた。けれど、扉の開いた気配に薄く目を開けそこに佇む一成を一瞥すると、面倒くさそうに顎でベットを指し示した。
「奥使え」
情けなさに崩れそうな一成が覇気のない足取りで無言のままベットに向かうと、保健医はまたエロ本を手にしたまま目を閉じた。保健室のベッドは決して寝心地のいいものではないけれど、少しでも眠ることが出来ればどうにか自分の心を取り戻せそうな気がして一成は瞳を閉じてみた。けれどそんな一成に安らかな眠りは訪れてくれなかった。何度も寝返りを打ちながらやがて保健医の寝息が耳に届くようになると、一成は深いため息を繰り返した。
(―ダメだ…俺、おかしいよな…?なんだってこんなに元にいらつくんだよ…)
みつきと元が一緒にいることなど日常茶飯事だ。なのにそんな日常の当たり障りなかった光景がやけに色を成す。眠れぬ夜の連続と視野の中に無理やりねじ込んでくる元の尖った心が、一成の心の平静を悉く奪い去っている。
(―元がみつきを奪うかもしれない?そんなわけあるかよ…だいたいみつきは俺のモノじゃないんだ…誰と付き合おうとみつきの好きにすればいいんだ)
一成はそう思う一方で、そんな事はあるわけがないと思っている自分に気がついた。なぜなら沙紀がそうであるように、みつきが自分の傍を離れていくこと、そんなことがあるとは思えなかったからだ。
けれど沙紀がいつか大人になるのと同じように、みつきも自分から離れる日が来るかもしれない、一成はそこに思い至ると、世界の全てが暗闇に包まれるような喪失感を感じていた。みつきがいない世界、そんなものはもう一成の中で色も形もなくすほど意味のないものだ。みつきが一成を取り巻く世界を彩り光を与えてくれていることに一成はようやく思い至っていた。
(―そうかみつき…俺、お前がいないとだめなんだ…)
みつきが自分の世界からいなくなる、そんなことは想像すら出来ないほどみつきの存在は一成の中で大きくなっていた。
「ばかだな…俺は…」
一成はようやく知りえた己の気持ちに知らずと呟いていた。保健医の寝息が静かになっていた。




