第5章 寝ぐせ姫の恋愛事情(5)
「なあ、浩…なんであいつ俺を睨むんだ…?」
一成は学食の端に座りながら、ほぼ対角線上に座る元の視線を捕らえていた。ここ数日一成を蝕む元の視線は、それを向かえる一成の視線に負けないくらい嫌悪に満ちていた。
「さあな…虫の居所でも悪いんだろ?あんまり気にするな」
一成の傍らに座りながら不穏な空気に神経を尖らせていた浩一郎は、平静を装ってそう答えた。きっかけなど誰も知らない元の視線の意味を浩一郎は痛いほどよく分かっていた。元の気持ちなど皆とうの昔に気がついていた。それでも元がみつきを想うと同時に、一成を立てるひたむきな姿勢にも気がついていた。それだけについ、浩一郎は言葉を濁し苦渋に満ちた一成の心に答えを与えることが出来なかった。
「カズ、分かんない方がおかしいんじゃない?」
洋平は元の視線の意味も一成の苦悩も知りながら、そんな浩一郎の曖昧な表現をすっぱりと切りつけた。相も変らず歪む洋平の口元は一成への嘲笑を浮かべていた。
「なんだと洋平っ…分かったようなこと言ってんじゃねぇぞ」
「わかったようなことじゃなくて、僕はちゃんと分かってるから言ってるんじゃん。カズが分からないなら僕が一から説明しようか?」
洋平は一成の斜め前から瞳だけを一成に向けて口を開いている。元の敵意に満ちた視線同様、一成の感情を毛羽立てる洋平の口ぶり、一成は手にしたままのプラスチックの箸をへし折りそうな勢いで握り締めた。
「洋平っ。もう一回言ってみろっ」
「カズっ…」
今にもその場に立ち上がり洋平の胸倉を掴み上げそうな一成の腕を浩一郎の腕が力いっぱい押さえつけた。浩一郎でさえ簡単には抑えられない一成の拳を、洋平は冷笑を浮かべて迎え入れようとしている。一成は奥歯をぎりぎりと噛み締めるとまだ半分も手をつけていないトレーを手に立ち上がった。
「おいっ、カズっ…ったく…洋平っ、お前は余計なことを言うなっ」
浩一郎は赤い舌を覗かせる洋平をたしなめ、一人孤独に学食を去る一成の背中を追うように立ち上がった。一成はすでにその場に居合わせた何の罪もない学生達を蹴散らしながら歩みを進めている。その形相はいつにもまして強張り、怒らせた肩が何者をも寄せ付けない高い壁を築き上げていた。
「カズっ、待て」
浩一郎の腕が一成を捕まえられたのは、部室に向かう階段の中ほどだった。たまたま通りがかった女生徒は一成の姿に目を向けながら、あまりの恐ろしさからか頬を染めることも忘れてその瞳を強張らせていた。
「なんだよっ…浩っ、放せっ」
一成は女生徒の強張る瞳を威嚇しながら、浩一郎に掴まれた腕を無理やり引き剥がそうとする。しかし幼い頃から鍛錬を重ねた浩一郎の腕から抜け出すことは容易ではない。一成の腕はすぐにそれを察すると激しい抵抗はしないまでも頑なにその身を強張らせた。
「カズっ、お前はちょっと頭を冷やせ…」
浩一郎は肩を怒らせた一成に囁くと、傍らで固まったままの女生徒をそっと促した。
「君、早く向こうに…」
「あ…はいっ…し、失礼します」
女生徒はなんとも間の悪い場所に居合わせてしまった罪悪感から小さく頭を下げると、もつれる足を必死に動かして階段を駆け降りていく。
「まったくお前は…」
浩一郎を一瞥することなく床を睨みつける一成に小さく吐息をつくと、浩一郎はそっと一成の肩に手をかけた。
「カズ、少し話をしよう」
一成の怒りに満ちた冷徹な瞳にひるむことも憤ることもない浩一郎の声音は、幼い頃から変わることがない。一成は駄々をこねてその場から動かなくなった子供のように、浩一郎に引きずられるようにして部室に放り込まれた。
一成の心の中に膨らんだ闇は日に日に濃密に、そして疑いようの無いほど一成を蝕んでいる。元はまるで一成からみつきの姿を隠すように立ちはだかり、挑むような視線を投げつけてくる。きっかけといえるようなことはなかったはずだ。少なくとも一成にはそんな認識はない。ただ同じようなことなら他の人間に何度もされてきた。見知らぬ人間から一方的に嫌悪され憎悪され、嫉妬に満ちた視線で睨まれることなど日常茶飯事だった。以前ならば力でねじ伏せていたこともどうにか受け流せるようになったのは最近のことだ。
「なんなんだよ…俺が何かしたか…?」
一成は部室のソファに体を沈めると小さな呟きと同時に頭を抱えてうずくまった。
「カズ…ほんとはお前も分かってるんだろう?」
浩一郎の声音はあくまで穏やかで、真摯に一成の胸に響き渡る。一成の複雑な胸の内を知ったかぶりすることなく容認してくれる数少ない友人の進言が胸に痛い。一成はその浩一郎の存在のありがたさを胸につまされながら小さく口を開いた。
「元…好きなんだろ…みつきのこと…」
一成の声には認めたくない事実がそこに潜んでいるように響いた。一成はなぜ自分の口がうまく言葉を紡ぎださないのか分からない。けれどこの事実を認めたら、自分がみつきにとって不要な人間になるような気がしてならなかった。
「でも、だからってなんで俺が…」
一成の不満を吐き出すような口調、そこに広がる不安と焦燥は一成が口にしなくても浩一郎にはよく分かった。
「元が早瀬を好きだから、お前に早瀬を渡したくないんだろ?それ以外にお前を睨む理由なんかないと俺は思うけどな」
浩一郎に言われなくても一成にもそれは分かっている。それでもその理由を考えようとすると不思議と一成の心が思考をとめてしまう。一成は自分でもなんと表現したらよいのか分からない感情を苛立ちに変えて口にするしかない。
「勝手に好きになってればいいだけだろ。みつきは俺のものじゃないんだ。とるとかとらないとか、そんなことはみつきが決めればいいことだろっ?」
浩一郎がまるで元であるかのように一成の感情が迸り、積もり積もったいらだちをむき出して詰め寄ってくる。浩一郎は困ったように眉尻を下げると、一成の憤りをいなしながら苦笑いを浮かべていた。
「まあまあ、落ち着けって…お前がそう思うのは自由だが、少なくとも元はお前をライバルだと思ってるんだ。だからお前を睨んで早瀬を取られないようにしてるんだ。そう考えたらお前は自分の気持ちに思い当たることはないか?」
「俺の…気持ち…?」
「そうだ、お前が早瀬を好きだってことだ」
浩一郎の真摯な眼差しは照れることなくまっすぐに一成を見つめていた。得体の知れない焦燥と不安に駆られた一成は、これまでなら慌てふためくような浩一郎のセリフにも何の感情も浮かばないままただその苦しさを吐き出すように口を開いた。
「俺がみつきを好き…?」
一成は浩一郎に問いかけられた問題の難しさにその思考が瞬時に凍りつく。先ほど元に睨まれる理由を考えようとした時と同じように、ぴたりとその動きを止めてしまう。
いつも押し付けられる感情を跳ね除けるのに精一杯で正直誰かを好きだと思うことなどこれまで一度もなかった。むしろ誰かを好きになることが面倒で億劫な事態を引き起こす気がして、これまで極力そういうことを避けてきたのは否定しない。
その自分が誰かを、しかもみつきを好きかと問われてもどうにも答えようがない。今までなら頭ごなしに否定できていたことを躊躇するようになったのはいつからだろうか。一成が自分の心に問いかけても誰も応えてはくれないようだった。
「浩…人を好きになるって…どんな感じなんだ…?」
「カズ…?」
目の前の一成が自分の欠落した感情をさらけ出した気まずさに顔を歪めている。浩一郎は今さらながらに感じた一成の言葉の重みに押しつぶされそうだった。
「俺…そういうのわかんねぇみたいだ…好きって…どういうことなんだ?」
目の前の不器用な友人は誰もが得たいと思いながら持ち得ない完璧な容姿を持ちながら、誰もが悩まずとも手にしている感情を抱くことすら難しいようだった。豊かなようでその実、孤独ばかりが降り積もる一成の内側に浩一郎は小さく吐息を漏らしていた。
「…難しいな…」
浩一郎は一成の暗闇にどうにか出口を作り出したかった。どんなに小さくてもいい、ただそこから新しい風が吹き込んでくれたらなにか掴めそうな気がした。
「カズ…俺は早瀬に初めて会った時、こんな子供っぽいのにお前があっさり陥落されたんだと、びっくりしたんだ」
「陥…落…?」
「そうだ。俺はお前がずっと早瀬を好きだと思っていた」
「みつきは…違う…」
一成の声は今までのような強い否定の意味合いも精彩すらも欠き、モノクロな言葉が欠落した感情を映し出していた。
「そうだな、お前はずっとそう言ってきたけどな、俺は…少なくとも、お前以外の人間は皆、そうだと思っていた」
自分の預かり知らないところですでに周知の事実になっている自分の感情。それがやけに遠く見えて一成は小さく頭を振った。
「…よくわかんねぇ」
「俺もうまく言えない。けどな、俺はとにかく驚いた。お前に向ってお前をカズと呼んで普通に話している女子は初めてだった…それにお前は、早瀬にだけは笑ってただろ…?」
浩一郎達にすらそうそう見せない無防備な笑顔、それを見知らぬ少女に向けているのを初めて見たとき、浩一郎は一成の暗闇に一条の光が差し込んだ思いだった。あの子は誰だ、そう思う一方で、みつきの存在が一成を短期間で変貌させたことがよく分かった。
「みつきは…ばかだ…」
「バカだろうがどじだろうがお前を笑わせるなんて俺でも難しい」
浩一郎は少しおどけたように肩をすくめたけれど、一成の瞳は相変わらずうつろなままで、浩一郎は肩透かしを食らったようにため息をついた。
「とにかくお前にとって早瀬は特別だった。特別の意味はいろいろあっても、それが途中で変わっても、別におかしいことじゃない」
特別の意味、そんなことは考えたことがなかった。一成は浩一郎の言葉に突如として荒れ狂う真冬の海に放り出されたような感覚があった。こんな荒波を乗りこなすすべなど一成は持ち合わせていない。リューシュコードにつながれたサーフボードだけが一成の命綱であるように、一成はただその不安定な乗り物にすがるしかなかった。




