第5章 寝ぐせ姫の恋愛事情(4)
「好き…?あたしを?」
一世一代の告白を問い返され、元は居たたまれない思いでいた。すぐにでもこの場を逃げ出したい、けれど元はそうすることもできない。ここで逃げるわけにはいかなかった。みつきは元の汗ばみ始めた手が自分の手を握りしめ、放すまいとしている事に首を傾げた。そんなことをしなくても逃げ出すつもりも逃げる必要もみつきにはなかった。
「元ちゃん…?」
みつきの唇が動いた。自分の想いに応えてその唇がどういう形を成していくのか、元はおぼろげな月明かりのもと食い入るようにみつきを見つめていた。けれど同時にその足は早くもきびすを返して逃げ出してしまいそうだった。
みつきが自分を好きなわけない、それは元自身いやというほど感じていた。なぜこんなことを言ってしまったのか、なぜ深く考えもせず思うままに口走ってしまったのだろう。これで振られたら、もう友達ですらいられない。いや、友達でいる自信など持てなかった。
しかし、口から飛び出した言葉をもとに戻すことは出来ない。元は強い後悔に苛まれながら次に口を開いたみつきの言葉にかなりの衝撃を受けた。
「私も好きだよ、元ちゃんのこと」
「え…?嘘…まじで…?」
元は衝撃的で感動的で予想外なみつきの言葉にその場で狂喜乱舞しそうになった。けれど、目の前でにこりと微笑んだみつきの笑みは、どうも元の求めていたものとは微妙な違いを見せていた。
(―違う…違うんだ、みつきっ…)
元は必死に頭の中で否定するけれど、その声は言葉にならないまま元の頭を駆け巡る。元はみつきの唇が言葉を成していくのを、まるでスローモーション画像を見ているような感覚で見つめていた。
「あたしだけじゃないよ?みんな元ちゃんのこと大好きだよ」
みつきの無垢な想いで放たれた言葉は、鋭い矢のごとく元の胸に突き刺さった。自分が特別でないことは分かっていた。ただ特別であってほしかっただけだ。その他大勢に埋もれない特別な好きが欲しかっただけだった。
「そ…か…」
元の虚脱感に緩む指先をみつきの無垢な手が包み込む。離れないようにそっと手を添えられて、秋風すらもその隙間を通り抜けられない。
「うん、そだよ。元ちゃんは優しいもん、元ちゃんのこと嫌いな人いるわけないよ」
みつきの心からの褒め言葉は元にはただの追い討ちにしかならない。みつきの言い放つ好きという言葉は嫌いと言われるよりもきつい気がした。元は繋がれた手の温かさに瞳を閉じながら、こみ上げる熱いものを今度は必死に飲み込んだ。
「そか…」
無邪気に微笑むみつきの瞳、元は願いかなわず落胆する自分を必死に押し隠す努力を強いられた。
「そか…そかそか、よ…よかったよ。俺さ…な、なんかちょっと最近自信なくしててさ…よかったよかった。そか、俺…もてる?」
言葉と裏腹に元のプライドはずたずたに切り裂かれる。元はみつきの天然ぶりを計算に入れず勢いだけで挑んだことを心底後悔していた。
「うん、元ちゃんはカズと違って優しいもん。カズも元ちゃんくらい優しかったら、もっとみんなに好きになってもらえると思うんだけどねぇ…」
みつきはどこか母親のようなしぐさで片手を頬に当て、首をかしげながら一成を案じていた。元はみつきが時々見せるこんなしぐさにたまらなく苦しくなる。一成を想い、一成を案じ、一成を慕うその気持ちが直に元に突き刺さるからだ。
「…カズ先輩のこと…そんなに心配…?」
元はみつきの小さな足先が歩道に吹き寄せられた細かな砂を舞い上げるのを見つめていた。みつきの足はのの字を書いてその場で往復しながら、何かを探すように逡巡していた。
「ん~…心配って言うかね…カズっていっつもここんとこにしわいっぱいでしょ?」
みつきは一成を思い浮かべながら眉間にわざとしわを刻んだ。けれど真似てみると案外うまく行かなかったのか、みつきは失敗したおかしさに照れ笑いを浮かべまた砂を巻き上げる。
「そういう顔ばっかしてるからカズっていっつも怒って見えるでしょ?でもちゃんと笑ってくれるし、ほんとはすごい優しいってみんなに知って欲しいの。そしたらカズのこと、みんなもっと好きになってくれると思うんだよね」
みつきは元のそぶりが明らかにいつもと違う事に気付く様子も見せず、一成を案じて瞳を閉じた。
「好きになってくれるって…みつき…カズ先輩なら今のままでも十分もてるだろ?」
元が不安げにみつきの理解を求めるように問いかける。その眉尻はどう言えば自分の言いたい事が伝わるのかそんな困惑をのせていて、みつきは下がりきった元の眉に首をかしげた。
「うん、わかってるよ?カズはかっこいいもん、元ちゃんもそう思うよね?」
「まあ…そうだよな…」
みつきに同意を求められると、元は気まずいながらも認めるしかない。事実一成の容姿が他に類を見ないほどに完璧であることは今さら問われなくても分かっている。そして自分が一成の足元にも及ばないほど平凡な顔だちであることも自覚していた。元は改めて突き付けられる現実を自嘲しながらぽりぽりと頬を掻いた。
「でしょ?だってカズはあたしのお父さんだもん。かっこいいに決まってる」
元の逡巡にみつきは一成を褒め称えまるで自分の事にように胸を張ると満足げに微笑んだ。そうして飛び出したみつきの言葉に、元はこれまで何度も聞きたくて、けれど機を逃していた問いかけを口にしていた。
「みつき、お前さ…ほんとにカズ先輩のことお父さんって思ってるのか…?」
元がようやく搾り出した声がかすれ不安に震えていたけれど、みつきは元の問いかけに一瞬瞳を瞬いた。みつきの無垢な思いをいぶかしみ、疑う元の言葉に気分を害したのかもしれない。みつきの眉根がしかめられ、ほんの少し唇がとがっていた。
「そりゃぁほんとのお父さんじゃないけど…でもお父さんみたいだもん。お父さんって怒ると怖いけどいつもは優しくて、おっきい手があったかいって感じがするんだ…」
言葉の最初はしかめられていたみつきの眉根が理想の父親像でも思い浮かべているのか徐々に弛緩し始める。そして最後にはうっとりとしたように瞳を閉じてしばらく動かなくなってしまった。そのみつきの脳裏には誰が映っているのだろう、元はほんの数秒生まれた間隙にこみ上げる思いが苦しかった。けれどみつきの閉じられた瞼が次に開かれたとき、その瞳は希望と期待に輝いていた。
「カズがよくやったって褒めてくれる時ね、お父さんみたいに笑ってくしゃってしてくれるの…あたしね、あれがすごい好き」
「好き…」
元の衝撃は深い。目の前で微笑むみつきの笑顔は、今日元が見た中で一番の輝きを見せている。みつきは元の問いかけともつかない呟きに、元が最も好きな笑顔で最も残酷な言葉を言い放った。
「うん、大好き」
一成にときめく女子の好きと、みつきの好きが違っていた。根本は変わらないのかもしれないけれど、その深さは比にならない。外見に惑わされないみつきの瞳は、一成の内側をしっかりと見つめていた。きっと一成の容姿が自分とさして変わらなくても、みつきは一成を好きになっただろう。それだけで自分が振られるには十分な理由になると元は気がついてしまっていた。
そのあとマイスナで食べたご飯の味を元は覚えていなかった。自分が何を食べ、何を話し、何に笑ったのかさえ分からなかった。頭に巡るのはみつきの笑顔と一成の影、離れてしまった手の温もりと奪い取られていく悔しさだけだ。
頭で分かっていても、勝てないと知っていても、渦巻く感情が抑えきれない。どうして好きになってしまったのか、どうしてこんなに見つめてばかりなのか。自分を選ぶことのないその笑顔に胸が苦しくなるなんて、元はこれまで知らずに過ごしていた。
ただ見ているだけでよかったはずだ。けれど時を経れば経るほど、押さえつけようとすればするほど、この感情が高まっていく。
(―みつきを渡したくない)
いつまで経っても一成が何も言わないなら自分が無理やりにでも手に入れたい。簡単に手を放してしまうなら、そのまま奪い取ってしまいたい。
不発に終わった告白に元は苦しい胸の内をどこにも吐き出せないままみつきを見つめるしかない。友達だと言われても、一成が好きだと言われても、みつきへの想いはもう変わらないのだろう。
(―もう逃げんなよ)
元は目の前に立ち塞がる一成にただ闇雲に立ち向かう覚悟を決めていた。勝算も計画もなにもない、それでもそうせずにはいられない。まっすぐで揺ぎ無いみつきへの気持ちだけが元の唯一の盾となる。
逃げていくばかりの一成にはその覚悟の欠片もないはずだ。みつきを好きなくせに、いつも中途半端な言動で惑わせるだけで、白黒つけないなど情けなさ過ぎる。元は自分の想いを鋼のように固めると、宙空に思い浮かぶ一成を睨みつけた。
「負けねぇからな」
元の唸るような宣戦布告は一成の耳には届かない。それでもきっと一成には分かるはずだ。元が誰を想い、誰を憎み、何を望むのか。元は一成への憎悪を剣となし、みつきへの想いを盾として自らの信念に身を包み拳を握り締めた。




