第5章 寝ぐせ姫の恋愛事情(2)
みつきの来訪がないと知りながらも、誕生日を迎えた沙紀はなにやらそわそわと落ち着かないそぶりで何度もインターフォンにその視線を運んでいた。いつもは仕事の付き合いで留守がちな父親もこのときばかりは珍しく食卓を囲んでいる。その父親が気もそぞろな沙紀の様子にとうとう首をかしげて問いかけた。
「沙紀?どうした、誰か来るのか?」
「え…?ううん…ちがうの、なんかみつきちゃん来てくれそうで…」
「みつきちゃん?」
一成の父親は母親同様、とくにこれといって目立つ容姿ではないけれど、その体格と切れ長の瞳、そして沙紀を溺愛するという点で一成との間違いのない血の繋がり見せていた。一成の父は娘の口から飛び出した聞きなれない名前に首をかしげ、名残惜しげにインターフォンを見つめる沙紀を眺めていた。そうして逡巡する父の問いかけに答えをもたらしたのは、沙紀でもなく一成でもなかった。
「そうなの、あなた。私もまだ会ったことないんですけど、みつきちゃんっていうのは一成のね、か…」
「りょっ、良太さんの姪っこだよ。あのマイスナのオーナー。父さんも知ってるだろ?」
「マイスナの…?」
一成のか…、母の言葉のその先は絶対言わせないとばかりに一成の勢い込んだ口調に父はほんの少し瞠目し、そしてまた首をかしげる。すると今度は沙紀が父親の問いかけに答えをもたらそうと口を開いた。
「あのね、みつきちゃんはお兄ちゃんのか…」
「今日はサッカーだって言っただろ?試合まだやってんじゃないか?」
「お、そうか今日はサッカーだったな。いかんいかん、忘れるところだった」
『か』の先を絶対に死守する一成の徹底した対応に、父親は思い出したようにリビングのテレビをつけ、サッカー中継の番組を探してチャンネルを回していく。そこでようやく一成は余計な詮索をする人間がまた一人増えるのを防げた安堵から、ふうっと溜め息をついていた。
「一成、サッカー終わっちゃったな…その彼女は今日行ってたのか?もっと早く言ってくれたら、父さんもチケットの都合くらい付けられたんだぞ?」
「なっ…」
「そうよねぇ、あなた。わたしったらそんなことに頭が回らなくて…」
ごめんなさいね、そう一成に謝りそうな母親の瞳に、一成はしどろもどろで言葉を詰まらせた。
「よっ、余計なお世話だっ」
一成は家族そろって自分をからかっているかのと思わず声を荒げると、父と母はそんな一成のそぶりを愛でるように瞳を細めてうなずいている。
「なっ…なんだよ、その目は…」
「なんでもないわよ?」
「一成の方こそ何かあるのか?」
そらとぼけた両親の自愛の視線、一成はそれに抵抗することも反論することもできないままその視線を父と母の間に彷徨わせた。しばらく落ちつく先のなかった視線がやがてリビングの床に収まると、一成はぷいっと顔を背けて口を開いた。
「風呂入ってくるっ」
家族中から浴びせられるなんともいえない意味深な言葉の数々に、一成の逃げ場はどこにもない。一成はとうとうその場に居ることすらできなくなると、足早に浴室に向けて歩き去っていった。
一成が風呂上りの髪をタオルで拭い、母は電話口で話に花を咲かせ、父が浴室へと姿を消した。沙紀はようやくインターフォンを見つめることを諦め、小さな体を丸めてため気をついた。沙紀の溜め息が満ちる居間に軽快なチャイム音が響き、誰かの来訪を告げたのはそんな折だった。
遅めの時間のインターフォン、新聞の勧誘には遅いけれど、宅配便ならまだ許される時間。そんな微妙な時間帯の訪いに応答した一成は、小さな液晶にみつきの姿が映っていることに心底驚いた。
「みつき…?」
「みつきちゃんだっ」
沙紀は一成の後ろから目ざとくみつきを見つけると、一成の制止も聞かずに走り出した。沙紀が上がり口に迎え入れたみつきは沙紀に小さな花束と、小さなリボンの付いた箱を手に微笑んでいた。
「沙紀ちゃん、お誕生日おめでとう。ごめんね、こんな時間になっちゃって」
「わあ、みつきちゃんありがとう」
沙紀は宝物のようにみつきからのプレゼントを受け取ると、一成に向かってその箱を掲げて見せた。
「お兄ちゃん、やっぱりみつきちゃん来てくれたね」
一成は喜びに瞳を輝かせる沙紀の頭に手をのせると、安堵の息をもらしていた。沙紀と同じように自分も知らずとみつきの来訪を待ちわびてしまっていたのかもしれない。みつきの奇襲のような訪問に一成の尖っていた心が不思議と凪いでいた。
「ああ…そうだな、沙紀。沙紀の言う通りだ」
うんと小さくうなずく愛らしい妹、その微笑みにつられるように一成も笑みを浮かべるとみつきがえへへと照れ笑いを浮かべていた。
「みつき…サッカー行かなかったのか…?」
慣れ親しんだみつきの変わらぬ笑み、それに一成が口を開いたとき、自分でも思った以上に浮ついた声音がもれ出ていた。
「行ったよ?さっき帰ってきて駅からまっすぐ来たの。元ちゃん達がこの後マイスナでご飯食べるからすぐに行かなきゃだけど…」
「元が…」
そうかと、理解を見せつつも浮ついた一成の声音が元の名前を前に失速していく。そのあからさまで分かりやすい変化に沙紀の瞳が瞬いた。沙紀の不思議そうな顔つきに一成はその視線を彷徨わせると、あらぬ方向を見つめ軽い咳払いを繰り出していく。
「ほんとはカズから明日にでも渡してもらおうと思ったんだけど、少し早く帰れたから来ちゃったの。迷惑だった?」
小首をかしげ問いかけるみつき、その瞳の煌きを一成はまっすぐに受け止めることが出来ない。サッカー観戦に行くことも、誰と行くかも一成には分かっていたことだ。それでも今湧き上がるのこの感情が何か、そこまでは一成には分からなかった。
「いや…沙紀もずっと待ってたし、な?」
一成はみつきから視線をはずすと、今度は沙紀の視線を遮るようにその頭にぽんっと手をのせた。くしゃりと崩される髪と兄の気まずげな視線、沙紀にはその意味もその原因も分かりかねる。けれど、なんとなく口を挟めなかった。
沙紀はみつきの来訪が嬉しかったけれど、その半分も伝えられないまま小さくうなずくだけにとどめざるを得なかった。そうして生まれる一瞬の沈黙にみつきの屈託ない声が響き渡る。
「そかそか、よかった。じゃあ、あたしそろそろ行くね。みんな待ってるから」
「え…もう帰っちゃうの?みつきちゃん…」
みつきが早々に帰るそぶりを見せると、沙紀は少し寂しそうにみつきを見上げてそのシャツの裾を軽く掴んだ。みつきは沙紀の潤んだ瞳に見つめられ、ちょっと困ったように眉をひそめる。
「ごめんね、沙紀ちゃん。また今度遊ぼうね」
「うん…きっとね」
そうしてどちらかともなく指きりげんまんを始めると、一成はみつきがその身を翻し立ち去る前に慌てて二階に駆け上がった。
「みつきちょっと待ってろ、上着とってくる」
一成が慌しく自室に引き上げると、沙紀はみつきのシャツをくいくいと引き下げてその耳元に囁いた。兄の部屋から慌しくクローゼットを開け閉めする音が届いてくる。
「あのねみつきちゃん…お兄ちゃんと仲良くしてね?」
なぜこんなお願いをされるのか、その理由をみつきが考えても思い当たる節はない。みつきは沙紀のお願いに不思議そうに首をかしげながら微笑んだ。
「だいじょぶだよ、仲良くしてるよ?」
一成が二階から駆け降りてきた時、二人は二度目の指きりげんまんをしているところだった。一成が随分長い約束だと首をかしげながら、みつきを送るために肌寒さを増した秋空に足を踏み出した。




