第5章 寝ぐせ姫の恋愛事情(1)
「沙紀ちゃんの誕生日?」
みつきはマイスナのカウンターに座り、袋をがさがさ言わせながらポテトチップを2枚同時に頬張って首をかしげた。
「あぁ、次の休みにな…沙紀がお前に会いたいって…う、うちに呼びたいって言い張って聞かないんだ」
みつきを自宅に招く、それは一成にとっては一大事だ。いままで友達として自宅を訪れたのは浩一郎くらいで、いくらみつきとはいえ同年代の、しかも異性の知人を招くなど想像すらしていなかった。
しかしみつきにとっては一成の自宅を訪れる事に何の屈託もない。もそもそ動く口元をそのままに首がかしいだのは、なぜ一成が言い澱むのか皆目検討がつかないからだった。
一成が何をためらうのか、そこからして分からないけれど、みつきは一瞬いいよと言いそうになった口を閉じて、かなり申し訳なさそうに一成に向かって両手を合わせた。
「ごめん、カズ。来週は元ちゃんとサッカー見に行く約束しちゃったんだよね」
「元と…?」
「うん。なんか有名なチーム同士の試合なんだって、やっとチケットとれたって慶太君と盛り上がってたんだ」
みつきはなんでもないことのように言いながらポテトチップをまた二枚掴むとぱりぱりと音を立てて飲み込んでいく。一体何枚食べるのかそんなことよりも、一成は元と行くというその一言に瞳を眇めてみつきを見つめていた。
「この間も元とどっか行ってたよな」
「そだっけ?」
みつきは一成にそう指摘されて初めて気がついたかのように天井を見あげた。我知らず色を成す一成の視線をみつきが気にとめる気配はない。みつきはのんきにポテトチップの塩気の付いた指先を舐めながら、元とこの夏行った場所を数え始めた。
「海でしょ、プールでしょ、それと川でバーベキュー…あ、あと合宿で花火したし…遊園地もいったねぇ…そうそう、バーベキューの時元ちゃんってば川に落ちて大変だったし、打ち上げ花火は倒しちゃうし、元ちゃんあたしと同じくらいどじなんだよねぇ」
みつきがその時のことを思い出しながら浮かべた笑みに、一成はどんな顔をしたらいいのかわからなかった。洋平がいたらなんて言われるか、一成は自分でも訳の分からない焦燥に駆られる思いだった。
「元ちゃんこの頃いろんなチケット手に入れてくれるんだ。あたしが観たいな~って言ってた映画もね、お父さんの会社の人がチケットくれたからって一緒に行こって誘ってくれたの。だからね、それは次の次の日曜日行くんだ」
「…そうか」
一成はみつきがこの先の予定を話していくのを複雑な思いで見つめていた。この夏、みつきとマイスナで会う以外、一成はどこにもみつきを連れて行った覚えがない。沙紀と行こうと約束していた海は沙紀の体調も悪く実現しなった。目の前の海岸線であがる花火大会も行きたいと言っていたけれど、結局は雨で流れてしまった。一成自身が悪いわけではないけれど、なんとも言えないタイミングの悪さを今さらながらに歯痒く思った。みつきはそんな一成の罪悪感とも後悔ともつかない感情に気付そぶりも見せず、無垢な瞳で一成の瞳を覗きこんだ。
「だからごめんね、沙紀ちゃんとは他の日でもいいかな?」
「あ…ああ、どうかな…沙紀に聞いておく」
小学生にさほど用事があるわけもない、一成は自分でもばかな返答をしたと顔をしかめた。その顔は良太の視界でどう映っていたのか、一成と一瞬目の合った良太は気まずそうにすぐに視線をそらしていた。
「みつきちゃんこれないの?」
みつきの返答を沙紀に告げると沙紀の瞳ににわかに悲しみが広がった。けれど、そうすがるように見つめられても、こればかりは一成にだってどうにもしようがない。
「しかたないだろ」
一成の口調が珍しくとげとげしくなったのは沙紀への苛立ちではない。だったら何にイライラしているのか、それは自分にも説明が出来そうになかった。
「でも…わたし、みつきちゃんに会いたいよ」
「仕方ないだろ…また今度時間作るってみつきも言ってるんだからそれで我慢しろ」
「…うん…」
兄の機嫌があまりよくないのは沙紀だけでなく母も敏感に察知していた。まるで春先までの一成のように何かを警戒するような張りつめた空気を身に纏い肩の力が抜けないようだ。母は一成の八つ当たりにうな垂れた沙紀の肩にそっと手を添え微笑んだ。
「沙紀、いい子ね。お誕生日にはお母さん、沙紀の好きなものたくさん作ってあげるからね。楽しみしてなさい」
「うん…」
いつもは物分りのよい沙紀も、この時ばかりはしょぼんと肩を落としたまま力なくうなずいた。母はけなげなまでの沙紀のそぶりに小さく吐息をつくと、休む準備をしなさいと娘の小さな背に手をかけて洗面所に促した。そうして沙紀が名残惜しそうにリビングをあとにするとしかめ面の息子の肩にもそっと手をあてがった。
「一成、あなたも早く休みなさい」
母は息子への分かったような説教をすることもなく、ただ息子の背中に滲む葛藤を労っていく。一成は母にかけられた声音の優しさに、小さく吐息をつくと静かに席を立った。洗面所では悲しそうに歯ブラシを見つめている沙紀がまだ鏡の前に立っていた。
「沙紀…ごめんな」
一成は沙紀の髪をくしゃりとなでて、沙紀の小ぶりな歯ブラシにいつもの沙紀の歯磨き粉を搾り出す。沙紀は兄の大きな手に撫でられ乱れた髪を直してから、鏡越しに一成に微笑んだ。
「ううん、いいの。お兄ちゃん、ありがと」
鏡越しの沙紀の笑顔に一成は自分の歯ブラシを咥えたままうなずくと、そのまま無言で二人は歯を磨き始めた。沙紀の歯磨き粉の苺の香りがほんのりと洗面所に漂っていく。
(―俺、なんでこんなイライラしてんだ…)
一成はなんということはなく苛立つことの多いここ最近の不安定さに自分でも首を傾げてしまう。みつきに苛立っているのか、沙紀に苛立っているのか、自分に苛立っているのか、それとももっと違うことか、一成にはそれすらも分からない。
情緒不安定な苛立ちがこれ以上の実害を生む前に一成としても原因を探りたかった。けれど、沙紀が歯磨きを終え部屋に上がっていっても、その答えが見出せない。一成は随分と長いこと歯を磨きながら思案に暮れるしかなかった。




