第4章 寝ぐせ姫と夏の嵐(14)
「ほえ~、カズマジで切れちゃったよ…」
立ち去る一成の背中にそんな風に呟きながら洋平は面白そうにその瞳を輝かせた。その瞳はいたずらを思いついた子供のように輝きながら、その内側に計り知れない腹黒さを覗かせていて、浩一郎は溜め息混じりに洋平に諭すように口を開いた。
「洋平、カズのことはもう放っておけ、ほんとに海に沈められぞ」
「浩、僕はカズの恋路の行方を案じてるだけだよ?まるでぼくが盗み聞きしに行くような言い方はないじゃん」
そう言いながら洋平はさっさと皿に残っていた料理を片付けると、パンを片手に立ち上がった。
「洋平、ほんとに行くのか?」
「…行くね…」
浩一郎と晴彦の視線に多少なりとも咎める色を感じると、洋平は瞳をくりっと見開いて無邪気に微笑んだ。
「だってさ、もし海に沈められちゃっても人魚と遊んで暮らせばいいんだし…あれだけ煽ったんだよ?みつきちゃんホントに元といるかもしれないじゃん。それでカズがうっかり妬きもち妬いてさ怒鳴り散らしっちゃったら大変だよ?カズも怒り出したら止まんないからさ、収拾つかなくなったら僕が出てって丸く治めるしか無いでしょ?やっぱ今回のカズの電話は聞き逃せないよ、二人とも気にならないならここでゆっくりご飯食べてて、じゃねっ」
洋平はそう言うと軽やかに身を翻したけれど、浩一郎が席を立つ気配に計算高い笑みを浮かべて振り向いた。
「何、浩もやっぱ興味あるんじゃん?」
「俺はお前の監視役だ。もしお前が海に投げられても、場所さえ分かれば骨の一つくらいは拾ってやれるだろ」
浩一郎はもっともらしい理由と共に洋平の肩を叩くと、洋平はそれに肩をすくめて呟いた。
「はいはい、どうもご親切なことですね」
そうして浩一郎に続いて洋平がエレベーターホールに着いたときそこにすでに一成の姿は無く、エレベーターの到着を待つ二人の背中から晴彦ののんきな声が降り注いだ。
「…人魚いる…?」
晴彦の間抜けな問いかけと同時にエレベーターはその到着を報せる間の抜けたベルの音を響かせて3人を中に迎え入れた。
「いるわけ無いでしょ、ハルは目開けたまま寝ぼけてないでパンでも食べてなよ」
洋平はエレベーターに乗り込みながら晴彦にパンを突きつけて、エレベーターの閉ボタンを力強く押し続けた。
一成は洋平達を振り切ってバルコニーを確保すると、すぐにみつきの携帯を鳴らした。この時間ならみつきはマイスナかもしくは自宅にいるはずだ。けれど、数回コールを鳴らしてもみつきとの電話は繋がらず一成は思わず留守番電話の事務的な口調に向って怒鳴りつけたくなった。
(―なにやってんだ、あいつはっ)
何度目かなど数えられないくらい長いコール、まったく出る気配のないみつきに一成がイライラを募らせた時、ようやく背後にざわめきをのせてみつきが電話に出た気配が一成に届いた。気配は届いたけれど、みつきの応答が聞こえない。何か慌てふためくような気配と送話口を手で押さえ込みながら蠢いている気配が不快に響く。もうすでに怒りに支配され始めた一成の頭からは、この電話が一体何のための電話かそんな大切な要が抜け落ちていた。
「おい…なにやってんだみつき…」
一成が我慢しきれずに不機嫌な声音を響かせると、みつきがようやく電話の向こうに現れた。
『……もしもし…?カ…カズ…?』
電話はどうにか繋がったけれど、みつきの背後から届く聞き慣れないざわめき、みつきの探るような声音に一成の内側でいとも簡単に何かがぷつんと切れた。
「どこにいるんだ」
『ど…どこって…えっと…元ちゃんと…』
軽々しいざわめきに乗って聞こえる音はマイスナの音でもましてやテレビの音でもない。みつきの言いよどんだ声に元の名前が含まれていた、そのことに洋平たちに煽られた一成の苛立ちと焦燥が一気に暴走を始めていた。
「どこにいるんだっ」
一成が怒鳴りつけたときみつきの携帯から聞こえるざわめきに乗って、聞き覚えのある声が一成の耳をさらに刺激した。
『みつき、なにやってんだ?迷ってんのかと思ったぞ』
(―元か…)
絶妙なまでのタイミングの悪さに、一成が脳裏にひらめく元の気の抜けるような顔を睨み付けて再び怒鳴りつけようとしたとき、みつきが一際大きな叫びを上げた。
『あぎゃっ』
最後に蛙がつぶれたような声だけを残し、みつきの携帯は一成とのつながりを一方的に断ち切った。最後に高音の警告音が耳に届いていたから、きっとまた充電が切れたのだろう。それが分かっていても一成は電話の向こうに消えたみつきに怒鳴らずには居られなかった。
「みつきっ」
一成の怒号はもう留まるところを知らず、波の音が響く静かな夜に浮かぶ星たちを揺るがした。南国の昼間の熱気は夜も変わらず辺りに残っていたけれど、洋平の予言のような不吉な予想が的中していて、一成の背中に揺らめく炎が辺りに残るその熱すらも絡め取り何倍にも膨らんでいった。
みつきの携帯は元に声をかけられた瞬間、ぴぴっっと甲高い警告音とともにぷつんと切れた。
「どっ…どしよ…元ちゃん…」
みつきはカラオケのざわめきには不釣合いなほど顔を青ざめさせて、傍らの元を振り仰いだ。「まさか…カズ先輩か…?」
元はみつきの手にした携帯とみつきの恐怖に震える顔に眉をしかめている。みつきは元の問いかけにゆっくりとうなずくと、その場に崩れそうになっている。
「充電が…」
「切れたのか…?」
「うん…どしよ…しかも、どこにいるんだって…カラオケにいるってばれちゃったと思う…」
みつきは真っ暗な液晶を抱きしめながら瞳を潤ませて、すがるような顔つきで元を見つめた。元はそこかしこから漏れ聞こえる調子はずれな素人の歌声と、通り過ぎる同じような制服を身につけた学生のざわめきに顔を向けてみつきの浅はかさに肩をすくめた。
「そりゃそうだろ。なんで外行かなかったんだよ」
「だって、何度も電話鳴ってたみたいだし…」
元の呆れた口調と一成への畏怖の念、みつきはそれらにおろおろと言い訳がましい言葉を述べていく。
「カズ怒りんぼだもん、早く電話しなきゃまた怒られちゃうよ…あぁ、でも充電ないんだっ…どしよ、どしよっ…」
元はみつきが一成に口を尖らせつつも、結局のところ一成を優先させるだろうみつきの口ぶりに、我知らず握り締めた拳に力がこもるのを如何ともしがたかった。
「そんなに怖いかよ」
「元ちゃん…?」
みつきは元の声音が一転した事に首をかしげながら携帯を握り締めた。一成と同じような怒声が響きそうな元のそぶりにみつきは知らずと体を強張らせていた。
「そんなにカズ先輩が怖いかよっ」
元の声音は廊下に響き、元とみつきを探しまわった慶太の耳にも届いたようだ。慶太は立ち尽くす元とみつきを目に留めて、元の肩を軽くたたいた。
「どうした、元?」
慶太の声は軽々しく二人の会話を冷やかすものではなく、元の怒声を諌めているように響いた。元は知らずと握り締めた拳をゆっくりと開くと、慶太もみつきも見ずに肩を震わせていた。
「なんでもない…みつき、充電器なら受付で貸してくれるぞ」
「う…うん…」
みつきは知らず知らず握り締めていた携帯を抱きしめながら、立ち去る元の力ない足元を不安げに捉えていた。
「なあ、みつき、元の気持ちも少しわかってやれないか…」
「元ちゃんの…?」
「ああ…いや…なんでもない…」
慶太は思わず口をついて出た言葉を取り消すように頭を振ると、眉根を寄せて佇むみつきを振り向いた。
「ほら、充電して来いよ。千秋が一緒に歌おうって、お前の好きな曲入れてたぞ」
「あ…うん」
慶太に背中を押されてみつきはようやく足を踏み出した。元も慶太もなにかあったのか、みつきは訳の分からない思いで充電器を借りにカウンターに走り出した。
(―みつき…なんでわかんねぇんだよ)
元は充電完了まで千秋と楽しげに盛り上がるみつきを見つめながら、こみ上げる思いに居たたまれなくなりそうだった。『元<一成』この公式の不等記号は決して反転することが無い、そう定義付けられてしまったことを元は握り締めた拳で叩き壊してしまいたくなった。




