第4章 寝ぐせ姫と夏の嵐(13)
一成がみつきに残した課題は、みつきが何度見つめても何度向き合ってみてもさっぱり歯が立たなかった。みつきは毎日多くの時間を参考書にむかうことに費やしていたけれど、まだ与えられた分量の1/3すら終わっていない。昨夜はとうとう誘惑に負けてゲーム機に手を伸ばしてしまった。一成は明日帰ってくる、今さら徹夜したところで残りをどうにか出来るなどみつきですらそんな虫のいいことは思えない。
(―どしよ…カズ帰ってきちゃうよ…)
一方で一成のお土産を心待ちにしながら、一方でその帰宅が恐ろしい。みつきが大量の課題を前に途方に暮れていると、元ののんきな声がみつきの背中にかけられた。
「みつき、お前今日誕生日だろ?みんなでカラオケでもいこうぜ」
一成が出発してからというものかなり上機嫌な元に反して、みつきは今にも泣きそうなほど顔を崩して振り向いた。
「元ちゃんっ、課題全然終わんないっ。もう無理だよぉ、明日、カズが帰ってきたら殺されちゃうかもしんない…どしよぉ…」
みつきは元の誘い文句に答える代わりに胸の中をしめる大きな不安を吐き出すと、自ら繰り出した言葉に自ら不安を煽られ机に突っ伏して泣き出してしまった。元は鼻をすすり上げるみつきのくせっ毛を撫でながら、一成ならこんな時どうするのか、そんなことを思い浮かべて言葉をつむぎだす努力を強いられた。
「泣くな、みつき…できねぇもんはしょうがねぇ、出来るとこだけやっておけば、カズ先輩だって努力は認めてくれるだろ?だからな、カラオケ行こうぜ、カラオケ」
元の軽々しい慰めの言葉、およそ一成には及ばない励ましにみつきは勢いよく体を起こすと、元のしまりのない口元を睨みつけた。
「無理だよっ、絶対無理っ。カラオケなんて行ってるのばれたらどうすんのっ?たんじょびどころかお土産も貰えなくなっちゃうよっ?そんなのやだぁっ」
みつきは大きくかぶりを振ると、音量を一層強めて泣き叫んだ。一際高鳴るみつきの泣き声に、元は一成のようになだめることなど到底出来ない自分をようやく悟っていた。元は泣き喚くみつきにおろおろとするばかりでなかなか効果的な言葉を思いつかない。
「だ…大丈夫だって、もしだめなら俺がカズ先輩に一緒に謝ってやるから、な、元気出せよ」
「ほんとに…?」
元の思いつきだけの慰めに、みつきは疑り深い瞳で元を下から覗き見ていた。元は言ってしまった手前引くこともかなわず、じっと自分を値踏みするようなみつきの視線に向って力強くうなずいた。
「ほ、ほんとだぞ?」
「でも…カズのお仕置きこわいよ?」
「知ってる…。カズ先輩に謝る時は慶太も一緒だ、連帯責任ってやつだな」
元は慶太の断りも無く勝手に請け合うと、みつきはようやくその根拠の無い元の自信に涙を拭いあげた。
「元ちゃん…ありがと…元ちゃんはやっぱ一番の友達だよ…カズは絶対そんなこと言ってくんない…」
「お…おう、俺に任せとけ…俺たち、と…友達だろ」
無情なまでのみつきのセリフに元の友達としてのポジションがもう揺るぎようがないことを改めて身につまされ、元の声音が隠しようもなく震えていた。けれどみつきは元の震えをどうとったのか、逆に元を勇気付けるようにその肩にぽんっと手を乗せ微笑んだ。
「ありがと、元ちゃん。でも、あたし一人で謝れるよ。カズに怒られるのなんてあたしはもう慣れっこだもん」
「でも…」
「ん、全然へ~き。課題もどうせ終わんないし、どっちにしろカズに怒られるんだもん。ここんとこまじめにおべんきょしてたしたまにはいいよね…元ちゃん、あたしもカラオケ行くっ」
「おし、じゃあ、ぱ~っと行くか」
「うん、ぱ~っと行こっ」
みつきは口にしたのと同じくらい思い切りぱ~っと両手を広げて飛び跳ねた。遊ぶと決めたらみつきは一成に預けられた参考書には目も向けない。元は机の上に置き去りにされた分厚い参考書に気付いていながら、みつきが千秋とともに廊下に走り出たのを追いかけていった。
「ねえ、今日みつきちゃん誕生日でしょ?カズ、電話しなよ」
「しつこいぞ、洋平」
夕食時のホテルでは多くの学生達のあどけない会話が繰り広げられているのに、一成と洋平の間ではずっとこの会話ばかりだ。一成は洋平の言葉に出来る限り無関心を装いながら、ハーフパンツのポケットに忍ばせた携帯を悟られないよう上から手で抑えこんだ。別に隠すようなことではないが、しつこく食い下がられると変に意識してしまう。洋平はそんな一成のそぶりは気にも留めずに一成の口調に肩をすくめた。
「まったく、そんなこと言ってると、元に先越されるよ。あ、もしかしてすでに元と二人っきりでラブラブハッピーバースデーしちゃって、盛り上がってるかもよ」
「ラブラブハッピー…ってなんだよ」
「だからぁ、二人っきりでみつきちゃんの誕生日をいちゃつきながらお祝いしちゃうってことじゃん、ニュアンスでわかってよね」
カズはほんと気が利かないよ、洋平はそんな風にぶつぶつ言いながらパンにかじりつき、それを飲みこみながら言葉を続けた。
「つまり女の子ってのはさ、自分の誕生日にすっごい頑張ってくれたりするとさ、ついふらふら~って心も、か・ら・だも傾いちゃうもんなんだよ?それでもいいわけ?」
みつきと元の関係が友達以上にないことは一成でさえよく分かっている、それをわざとらしく誇張してくる洋平に一成は聞き飽きたとばかりにため息をついた。
「元がみつきに手ぇ出せるわけねぇだろ」
「そっかなぁ…元みたいな童貞君の方がさ、切羽詰ると何するかわかんないよ?」
洋平の追い討ちに一成が思わず声を荒げそうになったとき、浩一郎がいち早く洋平を諌めるように口を挟んだ。
「洋平、カズをそんなに煽っても仕方ないだろ?早瀬と元の仲がいいのは今に始まったことじゃないし、どっちにしてもここからじゃあカズにはどうしようもないだろ」
悪気のない浩一郎の言葉は、不安が頭をもたげ始めた一成の焦燥を一気に煽り立てた。
「浩…なんだかんだで追い討ちみたいよ?」
「え…?」
浩一郎は、顔色を失いつつある一成を洋平に示されるままに振り向くと慌てて一成の肩をたたいた。
「カズ、違うぞ、俺が言いたいのはそう言う事じゃなくて、早瀬がお前からの電話を待ってるってことで、お前がいない間に元が早瀬をどうにかしようとか、決してそう言うんじゃなくてだな…」
「…墓穴…掘ってる…」
浩一郎が自分の失言を取り戻そうと慌てれば慌てるほどに一成の心から安息という二文字を剥ぎ取っていく。浩一郎が罰の悪さに気まずげに頭をぽりぽりと掻くその傍らで、一成はテーブルの端を見つめながらほんの少し唇を尖らせた。
「みつきと元がどうなろうと…俺は別にどうってことねぇし…」
「ふ~ん…じゃあみつきちゃんと元がつきあってもいいんだ」
「べ、別に…いいじゃねぇか…」
「あっそ…まあそうなったらカズなんて用無しだね」
ぽいだよ、ぽい、洋平は大げさなそぶりでなにかを放り投げるようなしぐさをして見せると、食事の続きをそ知らぬ顔で再開した。
「ぽいって…」
元とみつきの関係が友達以上に発展するかもしれない、一成は正直なところこれまでそんなことを考えたこともなかった。そんな可能性は沙紀に彼氏が出来るのと同じように一成の頭が考えることを拒否していたのかもしれない。一成はあらためて突きつけられた事実の重さにまだ半分以上も残った料理をそのままに箸を置いた。
「…電話…してくる…」
憔悴しきった一成が力なく立ち上がったとき、洋平の言葉が丸めた一成の背中を無情に追いかけた。
「ここですればいいじゃん、携帯で。持ってんでしょ?」
「なっ…」
「ポケットにずっと携帯忍ばせて、ほんとはみつきちゃんからの電話待ってたくせに。こっちにきてもなんだかんだ理由つけて毎日電話で話してさ、なんで今日に限ってできないわけ?」
洋平の指摘に一成が二の句を告げずただその場に力なく立ち尽くしていると、3人は好き勝手に話し出した。
「なんで部屋行っちゃうのかねぇ…僕、カズと元がみつきちゃん取り合って怒鳴りあうの、生で聞きたいな」
「洋平、それは言いすぎだろ、いいから一人にしてやろう」
「だって、浩もハルも気付いてたじゃん、カズが携帯持ってるって。僕だけ悪者扱いはなしでしょ」
「カズが隠したそうにしてるんだから、わかってても言わないのが人情ってもんだろ?」
「…カズ…隠すの下手…」
「ほんとほんと、カズってさ意外とどっか抜けてんだよね」
「だから洋平、気付いても気付かない振りは人付き合いの基本だぞ」
「え~、僕そういうのめんどくさいんだよね」
「…僕はへ~き…」
一成は数々の言いたい放題な言葉に拳を握り締めることで耐えていたけれど、あまりに儚い友情に我慢も限界を迎えそうだ。青筋だった血管がはち切れる前に一成は3人を怒鳴りつけたい衝動を抑えて唸るような声をあげた。
「いい加減にしろよ、お前ら…黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって…いいか俺はこれから部屋に戻るけど、お前らはここで黙ってメシを食ってろ」
一成は3人を代わる代わる睨みつけながら一言一句刻み付けるように言い渡すと、最後は洋平だけに視線をむけてこれまで以上に冷たい口調で釘をさした。
「いいか洋平…人の電話を盗み聞きしようなんてしたら、お前をとっつかまえて一生珊瑚の海で魚と一緒に暮らさせてやるから覚えとけ」
一成は3人を睨みつけてから静かに、けれど背中に鬼気迫るものを漂わせながら食堂を後にした。




