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寝ぐせ姫~いつも一緒に~  作者: 蟻屋紋吉
第4章 寝ぐせ姫と夏の嵐
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第4章 寝ぐせ姫と夏の嵐(11)

 一成に腕を掴まれるとみつきと総一郎は互いに顔を見合わせ、どちらからともなく黙り込んだ。二人に引っ張られ、二人を掴みあげた一成の右肩にはまた痛みが舞い戻っていた。けれど、怒りに駆られた一成はそんな事に構うことなく諌めるようにみつきを振り向いた。


「みつき、いい加減にしろっ、お前は黙って課題をやれっ」


 大事な妹を呼び捨ててあまつさえふてぶてしいほどの一成の命令口調に、総一郎は怒鳴りつけようとしたけれど、振り向いた一成の冷徹な瞳の威圧感に目をむいた。


「それから総一郎さん、みつきはやればちゃんと出来るんです。確かに、今回の期末は満足行くようなものではありませんでした。それは俺にも責任があります。けど、成績は確実に上がっています、だから今はそれで勘弁してください」

「お…お前に言われなくても分かってる、ほら、みつきさっさとやれ」


 一成の有無を言わさぬ視線に総一郎が思わず言いよどみながら、みつきを課題に向き直らせると、留美は3人の激しい攻防などなかったように床に落ちた参考書の山から一冊を総一郎に目で示した。


「ねえ、総一郎…あれ、見覚えない?」


 そんな留美の視線に総一郎は床に散らばったままの理数系の参考書の中に、明らかに異彩を放つものを見つけると、その目を驚愕に見開きその場で凍りついた。

『日本における建築物 その構造と特徴』堅苦しい表題に飾り気のない少しくたびれたその本は、一成が何度となく読み返したのだろう跡がはっきりと伺えた。総一郎の驚きに震える手でめくるページは、何度も同じ場所でその動きを止めた。

『東都近代美術館 東都大学建築学科教授 秋田昇三設計』総一郎の目は何度となくそこに止まり、やがてその口元に驚愕から変貌した感情がわきあがっていた。

 総一郎が笑った、みつきと留美が口はしを緩める総一郎を目に留め、ほぼ同時に顔を見合わせた。雪が降る、ここ数日猛暑日が続いているというのに二人はそう確信した。すると総一郎はそんな二人にはお構いなしで、ことの成り行きを黙ったまま見守っていた一成に向き合った。


「お前、なんでこれを持ってる…?建築士にでもなるつもりか」


 総一郎は一成に表紙を見せながら、いぶかしむ視線を一成に向けていた。一成は一瞬の沈黙の後、総一郎をまっすぐ見つめてうなずいた。


「そうです…俺、一級建築士、目指してるんです」


 総一郎はその一成の返答に、満足な回答を得た教師のような顔を浮かべると、ちらりと一成を覗き見た。


「大学は?黎明か?」

「いえ…東都大を受けるつもりです」

「東都…」


 一成の告白にその場の誰もが息を呑んだのが分かった。合格率がダントツに低いことで有名なその大学名は一成にとっても難関だった。一成としてもそれは重々承知していただけに皆の反応が痛かった。特にみつきの視線には黙っていたことを責められている気がして、一成はかなり罰が悪い思いで佇んでいた。

 あのカウンターでの勉強の日々はこのためだったのか、良太も皆と同じように目を見張りながらようやく一成の努力の意味を悟っていた。一成にとって重苦しい時間が流れた時、総一郎が読み癖のついたページを開き一成に示した。


「お前ここ、気にいってんのか…?」

「あ…はい…独特な外見なんで賛否両論あるようですけど、俺はその構造の全部が光と風の通り方を計算した上での物だってことに感動したんです。それで俺何度もここに足を運んで、確信したんです。ここを設計した秋田教授に習いたいって…だから…少し遠くても絶対東都に行こうって思ったんです」


 総一郎は興奮したように語調を強めた一成の言葉に耳を傾けながら、東都美術館の写真に懐かしむような視線を向けて呟いた。


「そうか…ここが好きか…これを設計した時の秋田教授には、本当に困らされたんだが…無駄じゃなかったんだな…」

「え…?困ら…された…?」


 秋田教授、本の中でしか知りえなかったその人を近しく語る総一郎に、一成は驚愕の眼差しを向けていた。一成のあからさまなその困惑は、留美の口元に笑みを呼び寄せていた。


「この人ね、東都大の准教授。こんななりでカタギの職業だって言われて信じられる?」


 信じられない、一成が留美の言葉に呆気に取られたまま総一郎へ視線を走らせると、総一郎は留美の言葉に小さく顔をしかめつつ一成に向かって力強くうなずいた。


「そうだ。俺は秋田教授に師事しながら、東都大で建築学を教えてる。秋田教授に習いたいってことは、俺の授業を受けるってことにもなる」

 一成は学問を追及するにはあまりに総一郎のがたいが良すぎるとか、顔がこわもてだとかそういうことではなく、みつきの兄の職業があまりに意外すぎて言葉を見失っていた。



 総一郎夫婦の滞在最終日、すっかり西に太陽が沈みあたりに夜の帳が下りた頃、総一郎が車に荷物を詰め込んでおもむろに一成に紙切れを渡した。


「来年あたり大学に来い、案内くらいはしてやる」


 紙切れに意外と几帳面な字で書かれた11桁の番号に、一成の顔が輝いた。ぶっきらぼうな口調の裏側に潜む総一郎の不器用な優しさに、一成は素直に感謝を述べた。


「ありがとうございます。必ず…必ず伺います」


 一成は総一郎に向かって深い感謝を述べ、そして同時に自分の未来の展望に瞳を輝かせた。総一郎はそんな風に突然まっすぐになる一成の心根に戸惑いながら、自分自身でも意外な行動に伴う気恥ずかしさを押し隠し、おうと、それだけ言うと車体を大きく揺らしながら運転席に乗り込んだ。ルームライトが消えるその前に、助手席から二人に小さく手を振る留美に手を振り返すみつきの傍らで一成は一緒に小さく頭を下げた。間もなくエンジンの駆動音に車が揺れる中、総一郎がおもむろに窓を開けその目に一成を捕らえた。


「アザ、悪かったな」


 その言葉に目を見開く一成がヘッドランプに浮かび上がっていたけれど、総一郎はそれには目もくれずエンジン音にかき消されるのをいい事に言葉を重ねた。


「みつきの勉強、頼んだぞ」


 そして最後に、一成以上に大きく目を見開いたみつきに、顔をしかめた。


「しっかりやれよ」


 総一郎は二人が何かを言う前にアクセルを全開に車を走らせ、あっという間に街灯の灯る海岸線を暗闇にまぎれるように遠ざかって行った。一成は総一郎の車のテールランプが最初の曲がり角を曲がってもその場を動けず、打ち寄せる波の音にしばらくの間佇みながら慌ただしい夏が過ぎていくのを感じていた。



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