第4章 寝ぐせ姫と夏の嵐(10)
一成の瞳は先ほどとはまるで別人のように涼やかで、見る者の全てを呑み込む様に澄み渡っていた。けれど、それを真摯と取るか、それとも冷徹と取るか、総一郎が読みきれない一成の瞳の色を探っていると、一成はおもむろにひとつ大きく息をついた。
「お兄さんとは知らず、先ほどは大変失礼しました」
その一成の行動はあまりに唐突で、予測不能な展開だった。深々と頭を下げた一成の背中を、その場の誰もが突風に煽られた様に見つめ息を呑んでいた。総一郎でさえ驚きに目を見開く中、一成は総一郎に向って頭を下げたまま微動だにしなかった。
一成の深く伏せられたままの瞳、そこに浮かぶ眼差しは真摯なものだった。再び訪れた奇妙な沈黙を、今度は留美が動かした。
「さ、総一郎、どうするの?」
タバコをくゆらせながら、留美は総一郎を茶化すように口はしに冷笑を浮かべていた。留美の視線は総一郎を値踏みするように突き刺さり、総一郎は頭を下げ続ける一成を一瞥するとうなるように声をかけた。
「顔…上げろ…」
伺うように頭を上げた一成の左頬はすでに赤黒く腫れ上がり、口端に血が滲んでいた。正直なところ、総一郎が本気を出して殴りつけた相手が気を失わなかったのも、こうして殴った相手に頭を下げられたのも初めてのことだった。
あの時、総一郎は確かに渾身の怒りを込めて殴りつけたはずだった。それでも一成が立ち上がった事、そして今こうして頭を下げたその肝の据わり方に、総一郎は少し心を動かされていた。けれど総一郎はそんなことを思った自分を気恥ずかしく思いながら、入り口でまだ呆然と成り行きを見守っているみつきに向かって声を荒げた。
「みつき、氷だっ、冷やしてやれっ」
総一郎の怒号にマイスナに滞っていた時のよどみが一度に流れ始めた。厨房から届くあわただしさを耳にしながら、総一郎は一成に向かって椅子を蹴り出し顎で示した。
「突っ立ってんじゃねぇ、目障りだ」
乱暴な物言いに座れとばかりに示された椅子、一成はめまぐるしく頭を働かせると差し出された椅子に手をかけた。冷たいシャワーを浴び濡れた髪をそのままに一成は普段着に身を包んでいた。いつも通りマイスナと家の往復のために選んだ服は、改まった挨拶をするにはかなり砕けすぎていた。けれど一成は服のしわを伸ばすように調えて居住まいを正すと、総一郎に小さく頭を下げた。
「失礼します…」
一成は遠慮がちにゆっくりと腰掛けると、改めて眉をしかめたままの総一郎と無表情にタバコを愉しむ留美の取り合わせを目に留めその異様な感触に口元を引き締めた。
「いい男が台無しだね」
一成は留美のタバコに指し示された自分の赤黒く腫れ上がった頬に、慌てて手をあてた。
「男は顔じゃねぇっ」
「こんなの…慣れてますから」
ほぼ同時に重なる一成と総一郎の声に、留美は小さく口元を緩めた。けれど、総一郎に反して一成の声音は掻き消えるようで、総一郎はその一成の声音に眉をひそめた。
「喧嘩…か?」
「いえ…まあ…」
一成は気まずそうに顔をゆがめると小さくうなずいた。一成の声が小さくなったのは口端の痛みのせいではなかった。自分に向けられる妬みやっかみをうまく昇華しきれずことごとく力でねじ伏せていたあの頃、顔の傷など日常茶飯事だった苦い想いが込みあがるからだった。
「やっかみ、でしょうね」
一成は留美の洞察の鋭さに、思わず留美の瞳に浮かぶ色を伺い見た。さざ波一つ立たない水面のような瞳、何を映しているのか計り知れないその静けさに一成は思わず息を呑んだ。
「くだらねぇっ顔なんざ持って生まれたもんで十分だっ」
「あら、めずらしい…みつき以外にアツくなることもあるんだねぇ」
留美の単調な口調に込められた小さな驚きに、総一郎はふんっと鼻息で返すと一成に顔を近づけて凄んで見せた。
「お前が怪我するだけなら喧嘩はかまわねぇ。けどな、みつきを巻き込むのはやめろよ」
総一郎の声音は単にみつきを案じているのだと分かっていながら、総一郎の妹に対する過保護ぶりが一成と大して変わらないことに一成は小さく微笑んでうなずいた。
「もちろんです」
一成が力強くそう答えると、それに総一郎は鼻息だけで返事を返し、もたもたと氷嚢を作るみつきをせかすように声を荒げた。
総一郎の監視の下、一成はみつきの持ってきた氷で頬を冷やしつつ山のように残されたみつきの数学の課題を見る事になった。そうしてしばらく総一郎は一成を観察しながら、みつきの相変わらずの珍回答に一成の内側で首をもたげ始めた憤りを見て取ると、それをあざ笑うように声をかけた。
「こいつの数学嫌いは、天下一品だ」
手こずるだろう?そんな風に総一郎はみつきを顎で指し示しながら、一成へ挑むような視線を向けた。総一郎の手前もあり全く努力の欠片の見えないみつきを怒鳴りつけたいのを必死に抑えていたことを見透かされた一成は目を見開いたけれど、みつきは総一郎の言葉にむっと顔をしかめて総一郎を払いのけるようなしぐさをして見せた。
「総兄い、うるさいよっ、勉強の邪魔になるんだから、あっち行ってよっ」
勉強の邪魔になる、みつきからそんな台詞が出るとは思わなかったとばかりに一成が目をむいていると、総一郎はそんなみつきの台詞には構わず威圧するように腕を組みなおした。
「お前の出来なさ加減は兄ちゃんが一番よく分かってる。お前の部屋ならいつでも使えるようにしてあるんだ。さっさと無駄な努力はやめてうちに戻って来い」
「総兄いこそさっさと諦めてよっ、あたしは絶対戻らないのっ」
みつきが獣のようにうなりながら鼻息を荒げるそぶりに、総一郎は小さな溜息を洩らすと肩をすくめた。
「お前はほんとに強情だな。誰に似たんだ?」
「総兄いに言われたくないっ」
みつきは小憎らしい顔で総一郎を睨んだ後、一成の腕を取ると力任せに自分に引き寄せた。
「あたしにはカズっていう奥の手があるんだもんっ、そうそう簡単には学校辞めないんだかんねっ」
「みつきっ、そんなやつに触るんじゃないっ。こら、お前もうちの妹に触るなっ」
青筋だてて理不尽に怒鳴りつける総一郎にみつきは一成から引き剥がされそうになりながら、その腕を蛇のように一成に巻きつけて激しく抵抗し続けた。
「カズはいいんだよっ総兄いこそあっち行ってよっ」
「離れろっ」
「いやだっ」
そんな風に収拾のつかない言い合いに、テーブルから一成の参考書が床にばら撒かれたけれど、どちらもそれには目もくれず一成を間に挟んで押し合い引き合いしていた。やがてどうにもこうにも収まりきらない二人の攻防に、一成は耳元で怒鳴り合われる不快感をもって二人の腕を同時に掴みあげた。




