第4章 寝ぐせ姫と夏の嵐(7)
頭上に照りつける太陽、青い空に立ち昇る積乱雲、強い南風が生み出す波はいつになく高く、多くのサーファーが海に繰り出していた。一成も例に漏れず朝早くから海に出てもう何本もその波を捉え爽快な気分を味わっていた。
海はいつもわずらわしい日常から一成を救い出し、無条件に懐深く一成の疲弊した心と体を包み込んでくれていた。こうして海に出ていると一成はいつも時が経つのも忘れて一人心安らぐことが出来たけれど、今日だけは違っていた。
いつもなら時間など気にもとめない一成だったが、その左腕にはいつも付けているシルバーのブレスレットに並び、普段は滅多にしない腕時計をしていた。今日はみつきとの約束がある、時間通りに帰らないとまたみつきが泣きだしそうで、一成は常に時計を気にしながら次々と訪れる形のいいチューブに身を躍らせた。
あと一本乗ったら帰ろう、一成は海の向こうからやってくるこれまでと違う高さのうねりに一番に身を乗り出した。
♪♪♪♪~♪♪♪~
「はいはい、だれですかっと」
みつきは浮かれた調子で少し離れた場所においてある携帯に小走りしたけれど、その笑顔は画面に表示された発信者の名前を目にとめるとすぐに凍りついた。
「げ~、総兄だ…」
軽い曲調の着信音がみつきの耳に急に不快なものとなって響き、みつきは顔をしかめながら、まるで汚いものでも触るようにいやいや受話器に耳を当てた。
「はい、もしもし?なに?」
『なんだ?みつき、のっけから嫌そうな声を出すんじゃない』
みつきのあからさまな態度に、総一郎のお小言がすばやく飛んできた。みつきはこれが始まると長いと、早々に用件を促すように不機嫌な声音で切り出した。
「これから出かけんだけど」
『どこへ』
もともと人を威圧するような地声の総一郎の声音が一段と低められた事に、みつきは総一郎が早とちりをしないよう慌てた声で取り繕った。
「マイスナっ、バっ、バイトだよっ、バ・イ・トっ」
『ああ、今日はマイスナか、ならちょうどいいな』
総一郎の声がすこしほっとした声音になったけれど、そこにはまだみつきの言葉を完全に信じたわけではないという響きがありありと込められていた。みつきは総一郎の言葉に眉根をしかめると、少し食って掛かるように口を尖らせた。
「何がちょうどいいの?」
『叔父さんには俺も挨拶したかったから、ちょうどいいってことだ』
「何…言ってんの?」
みつきは携帯の向こうから聞こえる総一郎の当然のような口ぶりに顔から一気に血の気が引いていくのを感じた。不吉な予感にみつきが言葉を詰まらせていると、総一郎は畳み掛けるように語気を強めた。
『今からこっちを出るから、マイスナで待っていろ』
「なんでっ、来るのは明日でしょっ?」
『予定変更だ。じゃあ、あとでな』
総一郎は電話の向こうでみつきがなにやら声高に抗議しているのも取り合わず、一方的に繋がりを絶った。
「あいつ、なんか隠してるな」
妻の留美がけだるそうに荷物をつめるかたわらで、総一郎は携帯がみしりと音を立てるほど強く握り締めた。およそ新婚とは思えないほど甘さの欠片も感じない室内は黒で統一されていて、良太から結婚祝いに贈られた観葉植物だけが室内に彩りを添えるばかりだった。
「男だね…」
夫の懸念をよく知りながら留美がなんでもないことのように口にしたその言葉に、総一郎が無言のまま携帯を握り締めた手に力をこめると、その力に二つ折りの携帯は儚い音を立てもろくも崩れ去った。また買い替えか、留美は総一郎の手の中で携帯が無残な形をなしている事に小さく吐息をつくと、荷物をまとめる手を休めタバコに火をつけた。
「今度は少しは骨のある男だといいねぇ」
留美が吐き出した紫煙と同じくらい何事も無かったように呟かれたその言葉は、総一郎を取り込みながら室内にゆっくりと広がっていった。あくまでみつきの傍に男の影をちらつかせる留美に、総一郎は憤りをあらわに怒鳴りつけた。
「留美、行くぞっ、ちんたらするなっ」
総一郎はすでにまとめていた自分の荷物を手に取ると、ずんずんと重い足音をたて玄関へ歩き出した。留美は総一郎が焦りのままにたてる玄関先の物音を耳にしながら、それでもタバコをゆっくりとふかし、テーブルの上に置かれたままのキーケースを見つめて呟いた。
「バカだね…」
黒革のキーケースには家の鍵も車の鍵もすべて納めてあった。これ無しでは家を出ることも、ましてや車を動かすことすら出来ない。留美は我を忘れてとり急ぐ総一郎に再び小さくため息をつくとまた煙草を口に運んだ。
「鍵だ、鍵っ」
ようやく自分の失態に気付いた総一郎がどすどすと足音高く室内に戻ると、そこには最前となんら変わらずゆるりとタバコをふかし続ける留美の姿があった。
「留美っ、いつまで座ってるんだ、早くしないかっ」
キーケースを奪うように手にした総一郎は我慢がならないとばかりに煙草をくゆらせ続ける留美に向かって怒鳴りつけると、もともと目つきの悪い瞳を一層苛立たせて睨み付けた。けれど誰もが恐れる総一郎の睨みや怒鳴り声にも留美はまったく動じる気配も見せず、無言のままにまたタバコを口に運んだ。
「留美っ」
総一郎はその場で地団駄を踏みそうなほど苛立った口調で留美の名を呼んだ。部屋中に響き渡る総一郎のだみ声が留美の耳にもようやく届いたのか、留美は面倒くさそうに煙草をもみ消すと今にも暴れ出しそうな総一郎に向かって冷ややかに呟いた。
「まったくうるさいね、そんなに怒鳴らなくても聞こえてる」
煮えたぎった総一郎の視界の中で留美はわざと総一郎をじらすかのようにゆっくりと腰を上げると、ことさら緩慢な動作で荷造りを再開した。
「カズ?今日はいい波が来てるからな、早い時間に海に行ったぞ?」
走りこんだマイスナでみつきは暑さとは違う汗を浮かべながら、良太の言葉に青ざめた顔でがっくりと肩を落とした。
「なんだ?今日は課題見てもらうんだろ?そんなにがっかりするな」
良太が笑いながらみつきの背中をぽんっとたたいたけれど、そんな楽しそうな声音も今のみつきには何の慰めにもならなかった。
「そじゃないっ、そじゃないんだよぉ、叔父さん。総兄いが、総兄いが…さっき、突然、今日来るって言い出したんだよぉ、どしよっ、カズに会っちゃうよっ」
みつきの不安の意味と暑いさなかの顔色の悪さ、良太はみつきの懸念をみなまで言わずとも十分理解し、そして同じ不安にさいなまれた。
「カズと総一郎か…これはひどい嵐が来そうだな…」
良太の呟きは、これからマイスナに巻き起こるであろう嵐を予感させるのに十分な響きを持っていた。




