第4章 寝ぐせ姫と夏の嵐(6)
海の向こうに太陽が傾き辺りを紅に染め上げた頃、みつきがいそいそと帰り支度を始めた。薄い水色のビニール製のトートバックに、携帯と命より大事なゲーム機を詰め込んでいくみつきの姿を目にしながら、一成もおもむろに立ち上がった。すると良太が奥から顔をのぞかせ、一成に向かって小さく頭を下げた。
「カズ、いつも悪いな…みつき、カズの言うことよく聞いて、寄り道しないで帰るんだぞ」
一成はまるで小学生に言い聞かせるような良太の口調に苦笑しつつも、本当にみつきが寄り道しないようその手を引いてマイスナを後にした。
こうして一成がマイスナ帰りのみつきの手を引いて歩くのは、春先の同じ時間帯、日が落ちてからのみつきの一人歩きを心配した良太に頼まれたことが始まりだった。当初は良太の過保護ぶりに少し眉をひそめていた一成だったけれど、いざ一緒に歩いてみると良太の懸念はあながち間違いでなかったことをすぐに思い知らされた。
その時はまだ知り合って間もない頃で、一成はみつきの手をとらずその隣を歩いていたはずだった。けれど、ふと気がつくとみつきは大抵遥か後方で散歩途中の犬を撫でたり、道端に咲くタンポポをつついていたり、放っておいたら一体いつ家に着くのか分からないほどあちこちで長いこと立ち止まることが多かった。そんな苦い経験から生まれた苦肉の策が、みつきの手を引いて歩くことに落ち着くまでそう長い時間はかからなかった。
そして陽が長くなった今もそうすることが当然のようにみつきの手を引きながら夕暮れ時の街道を歩いていると、一成がふと思い出したように口を開いた。
「なあ、みつき、そういえば昨日の電話ってなんだったんだ」
「ん…?」
一成に手を引かれる安堵からかみつきはろくに前を見ることなく、手入れの行き届いた見事な夕顔に夢中で心ここにあらずの返事を返した。すると、一成は呆れた溜め息と共にそんなみつきの腕を引きつけると、みつきの注意も同時に惹き付けた。
「昨日の電話だ、別に用が無いならいいけどな…ほら行くぞ」
一成がみつきを促して歩き出そうとしたその時、その腕は逆にみつきに強く引っ張られた。思わず足を止めた一成に、みつきは重大な事柄を思い出したとばかりに息を呑んでいた。
「カズに大事なこと言うの忘れてたっ。ねっ、カズっ、あさってからマイスナ来ないでっ」
「はぁ?マイスナに来るな…?なんでだよ」
「あさってから総兄いがこっちに来るからだよ、前に話したでしょ」
確かに一成はみつきにそんなようなことを聞いた記憶はあったけれど、マイスナに来るなと言われた覚えはなく、唐突な展開に訳が分からないままただ眉をしかめた。
「お前の兄貴が来るからってなんで俺がマイスナに行っちゃいけないんだよ」
「だって、総兄いとカズが会っちゃうとカズが絶対投げられちゃうもん」
「投げられる…俺が?」
一成としては会ったこともないみつきの兄に投げられるようなことをした覚えはない、一成はみつきが言葉を重ねれば重ねるほど話が見えなくなっていく事にあきれた吐息をついた。
いつまでたってもみつきの言語能力が向上しないのはこういう会話にもよく現れている、一成は小さく肩をすくめて根気よくみつきの言わんとしている事を探ろうと口を開いた。
「何で俺が会ったこともないお前の兄貴に投げられるんだよ」
「だって、前に総兄い投げちゃったんだもん」
「投げた…?何を」
そう問いかけながらその先に不吉な影がよぎるのをいかんともしがたく、一成はみつきの兄が何を投げたのか想像すらしたくなかった。そしてみつきの言葉の不穏さに苛まれた一成は、みつきが何かためらうそぶりを見せていることに更に言い知れない不安をかきたてられた。
「友達…中学の時の…」
「友達…?」
「うん、友達。元ちゃんとおんなじくらい仲良くてね、一緒に帰ってたら総兄いが突然出てきて、いきなり投げ飛ばして気絶させちゃったんだよ」
投げられたのはゴミでも物でもなく人間だった、しかもその相手は投げられた上に気を失ったという、みつきの話のくだりにはこれ以上はないほどの不穏さが顔をのぞかせていた。けれど一成はそんなことよりも他の事に目くじら立ててみつきにせまった。
「友達じゃなくて男だろ」
兄として妹のそばに不穏な影を感じたらそれは男以外にありえない、一成は妹かわいさに目がくらみその男を投げ飛ばしたというみつきの兄を絶賛したい思いだった。けれど、そんな一成の心の中を知ってか知らずでか、みつきはまた少し口を尖らせて一成に口答えするように言葉を重ねた。
「そだけど、友達だったんだよ。そりゃもう何メートル飛んだのっ?ってくらい飛ばされちゃったんだもん」
一成の言った男の意味、それはみつきにとってある特定の男という意味合いのものだったけれど、みつきはそんな一成の懸念を一言で片付け、あとはただ当時の総一郎の傍若無人振りを身振り手振りを持って話して聞かせていた。しかしそうして興奮した呈で話すみつきも話が後半部分に差し掛かると、急にその勢いを欠いてしょぼくれた声をだし始めた。
「いっぱい怪我もさせちゃったから、その後いっぱい謝ったんだけど…何回謝っても許してくれなかったんだ…」
みつきはその時の悲しさと苦しさを思い出しているのか顔を歪め、一成にすがるように不安に揺れる瞳を上向けた。
「なんだよ、それ…」
「そなのっ、だからっ…」
「違うっ」
「違う…?」
「そう、お前の兄貴がってんじゃなくて、その男。たかが投げられたくらいで、情けないだろ?何も悪いことしてないなら、堂々としてればいいんだ」
一成はみつきの苦い思い出の中の会ったこともない男に向かってはき捨てるようにそう言うと、不安げに眉根を寄せるみつきに向かって力強い語調で言いきった。
「おまえの勉強のこととか話したいこともあるし、俺は兄貴に会いたい、いいだろ?」
「カズ…」
一成の言葉に心を揺るがせているのか、みつきがせわしなく瞳を泳がせているのを一成はしばらく黙って見つめていた。けれど、やがてこの話を打ち切るように足を踏み出した一成の腕をみつきが力いっぱい引きとめた。
「やっぱダメっ」
強い拒絶を叫び上げるみつきの声は一成の心に悲痛なまでに轟いた。一成が思わずみつきを振り向くと、そこにはすでに泣き顔に変わったみつきが小さく体を震わせて立っていた。
「ごめん…カズ…」
小さくすすり上げるみつきの姿が夕闇に溶けてしまいそうで、一成はそれをつなぎとめるようにみつきの体を抱き寄せた。
「みつき…なんで泣くんだ」
「だって…カズに怪我して欲しくない…」
消え入るような声に時折鼻をすすり上げる音が一成の胸を否応なくざわつかせ、一成は小さく震えるみつきの肩を抱く手に力を込めた。
「俺は大丈夫だ…たとえ怪我しても、俺だけは大丈夫だ…」
たった一度投げられたくらいで音を上げるような情けないことはしない、一成はかつてみつきを許さなかったという男を宙空に睨み上げながら、そんな思いを込めてみつきを更にきつく抱き締めた。
「だから泣くな…みつき…」
そっと囁きながら一成は洋平の言葉を思い出していた。今こうしてみつきを抱きしめながら、腕の中のみつきの涙と、怪我をしないでと一成の手をとる沙紀の涙が寸分たがわぬものだということ以外一成は思うことが出来ない。けれどみつきを抱きしめるこの手を離したくない、ただそのことだけは夕闇の押し迫る街道に溶け込みながらも、一成はやけにはっきりと思うことが出来た。




