第4章 寝ぐせ姫と夏の嵐(2)
洋平の言葉にみつきは心底困ったように眉尻を下げている。見ているだけで切なくなるほどの逡巡にみつきはほんのりと瞳を潤ませてもいるようだった。洋平はそんなみつきの真剣な惑いを面白おかしく眺めながら、みつきがどんな返事をするかを待ち構えていた。
「瑠奈ちゃんも大事だけど…でも…でもカズがいないのも困る…」
「そうでしょ?だから、瑠奈ちゃん僕にちょうだい」
洋平の意地の悪い駆け引きにみつきは心底困ったように眉尻をさげると、瑠奈と一成を何度も見比べて泣き出しそうな声音で呟いた。
「…カズ…どしよ…カズと瑠奈ちゃん…困る…」
学食のざわめきの中で一人途方にくれるみつきの縋るような瞳に、一成は目の前の洋平の肩を引いて席につかせた。
「洋平、いい加減にしろ。俺は誰のものでもねぇし、フジワラも困ってんだろ」
「藤宮だよ、カズ。ほんとみつきちゃん以外の女の子こと全然覚えらんないんだよねぇ。あの子もさ、まだ名前知らないでしょ?」
洋平は一成にひそひそと囁くように千秋を目線で示すと、一成は見覚えはあっても名前まではすぐに思い浮かばない自分の記憶に舌打を洩らした。
「う、うるせぇな。そんなの今は関係ないだろっ」
「もう、みつきちゃんが自分を選ばなかったからってふてくされないでよ」
「なっ…」
「よかったねぇ、元と比べられなくて。元とだったら、カズ負けちゃってたんじゃない?」
くすっとわざとらしく含んだ洋平の笑みに一成は顔色を失いかけていた。洋平はそんな一成の皿から唐揚げを失敬し、自分のサンドウィッチを食べつくすと早々に立ち上がった。
「さ~て、中庭でティータイムにしよか。瑠奈ちゃん、なにか飲みたい物ある?」
「あの…あの…あたし…」
洋平に話しかけられただけで瑠奈の耳は瞬時に染めあがり、ほっそりとした指先が真新しい制服のスカートをぎゅっと握り締める。極度の人見知りなのだろう、瑠奈はろくに言葉も繋げられずそのまま顔を伏せてしまった。すると見るに見かねたみつきが瑠奈の震える肩に手をかけて、伏せた顔をそっと覗きこんだ。
「瑠奈ちゃん、カズも洋ちゃんもみんな怖くないよ。だいじょぶ、安心してね」
「みつきちゃん…あの…あたし…ごめんね…」
「瑠奈ちゃん謝らなくていいんだよ?誰だって苦手なことならいっぱいあるもん」
みつきの小さな手が瑠奈の肩に触れると、その無邪気な微笑みに瑠奈はつられるように口角を引き上げて、強張った目元をふっと緩めた。それは笑顔というにはほど遠いものではあったけれど、今の彼女に出来る精一杯の笑みなのだということは一成にも分かった。みつきは瑠奈の気持ちが少しほぐれたのを見て取ると、今度は少し声音を高め何かを思い出すように口を開いた。
「あたしはねぇ暗いとこと狭いとことおっきい音と…あと雷と地震とべんきょと…あとあと…あ、それと怒ったカズがこわいよ?」
「おい」
一成は瑠奈を思って並べ立てたみつきの弱点の終わりに自らを蔑まれたことに間髪いれずにみつきを睨みつけた。するとみつきは照れ笑いを浮かべながら、えへへと笑って舌をだした。
「だってぇ…カズべんきょ教えてくれてるときすごいこわいんだもん」
「お前がちゃんとやんねぇからだろ」
一成が日々集中力のないみつきに悩まされる恨めしさをのせてみつきを軽くねめつけると、みつきはわざとらしくきゃあっと小さく体を震わせて瑠奈に抱きついた。
「ほらね?カズこわいでしょ?」
瑠奈はみつきが一成の視線から身を守るように自分に抱きついていることに戸惑いながら、長い睫毛を必死に瞬かせた。
「そ、そんなことない…と思う…よ…?せ、先輩は…みつきちゃんが…みつきちゃんのことが、だ…大事なんだと…思うの…」
瑠奈の懸命に発したこの日一番長い言葉に一成とみつき以外の誰もが妙な納得を見せていた。
「うんうん、瑠奈ちゃんよくわかるねぇ…」
「たしかにな、大事にしすぎてつい言葉がきつくなるんだろうな」
洋平は瑠奈の言葉に大きく賛同を示し、浩一郎も大きくうなずき同意をしめすと、元も千秋もなんだか複雑な面持ちながら小さくうなずいていた。
「なんなんだよその変な納得の仕方はよ…」
瑠奈の大人しいだけに妙に説得力のある言葉に皆がうなずく不思議な空気の中、一成はそれを怒鳴りつけることも否定することも出来ない。どんな言葉も空しく響きそうな空気感に晴彦の静かな声が響き渡った。
「カズ…図星だね」
「ハル…好き勝手言ってんじゃねぇっていってんだろがっ」
一成が微妙に攻め立てられた感覚にようやく色を成すと、洋平が今にも立ち上がりそうな一成の腕を軽く引きとめた。
「まあまあ、カズ。そんなに声を荒げるとさ、せっかく瑠奈ちゃんがしゃべれたのにまたびっくりしちゃうでしょ?」
「う…」
まるで一成を悪者にしてことを治めようという洋平の算段に満ちた声に、一成は憤りを口にすることもそれを叩きつけることもできないよう先手を打たれぐうの音も出ない。一成はなんともいえない鬱憤に腕を組むとふんっと小さく鼻息荒げそっぽを向いた。すると洋平はそんな一成の憤慨などなかったようにぽんっと両手を合わせると場の空気を一転させて微笑んだ。
「さてさて、それじゃあらためて…瑠奈ちゃん、何か飲みたいものはある?」
「あたし、ジュース」
間髪入れないみつきの声音に洋平は自らの算段を打ち崩されて小さくため息をついた。洋平は無垢な瞳で自分を見つめるみつきの視線を傍らでむくれたままの一成にむけると、若干引きつった笑みを浮かべて口を開いた。
「みつきちゃんのはこっちのお兄さんがだすからね。瑠奈ちゃんと千秋ちゃん、リクエスト言ってね。あ、元は自分で買いなよ」
みつきに続いて元もおずおずと口を開こうとしたのを洋平は阻止したけれど、その直後に晴彦がしれっと口を挟んだことまでは間に合わなかった。
「僕、紅茶…あったかいので」
晴彦は淡々と口にするとグラスに残った水を飲み干してトレーの上に静かにおいた。洋平は悉く自分の計画を打ち崩していく男達を軽くねめつけると小さく吐息をついた。
「ハル…ハルも自分でだして。僕が野郎に金を出すわけないでしょ」
洋平が次々と自分勝手な希望を口走る男達を牽制すると、浩一郎までもがおねだりしてくる前にと、さっと瑠奈のトレーを持ち上げた。
「瑠奈ちゃん、中庭で待っててね」
「あ…あの…」
洋平がいつにも増して爽やかな笑みで颯爽と返却口に向かうと、一成も洋平の浮かれた口調に促されるようにため息まじりに立ち上がった。
「悪いな、洋平のわがままだ。適当に付き合ってやってくれ」
洋平にトレーを持ち去られ戸惑う瑠奈に一成が小さく囁くと、瑠奈はそれにまた少し瞬いた。相変わらずその頬も耳も真っ赤に染め上がったままだった。
「ほら、みつきも行くんだろ?」
「うんっ」
一成がいつものようにみつきと自分の二人分のトレーに手をかけたとき、一成のシャツの裾が小さな指先にきゅっと掴まれた。
「あたしジュースがいい」
一成が掴まれた裾を見下ろすと、洋平に言われたとおりにみつきが上目遣いにおねだりしていた。その素直なばかりのみつきの反応に一成は洋平を恨めしく思いながら、溜め息まじりに学食の出口を目線で示した。
「わかった、わかった。出してやるから、さっさといけ」
「やた」
みつきはため息交じりの一成の約束に瞳を輝かせると、学食の外に向かって小走りしていく。一成はその足取りが相変わらず危ういことと、ぴょこぴょこはねる寝ぐせに小さく吐息をついて二人分のトレーを手に歩き出した。
返却口では洋平が一成の到着を待つようにしながら、学食の出口でみつきと佇む瑠奈をみつめていた。
「あの子久々のヒットだよ。めちゃくちゃかわいいよね」
洋平は一成に問いかけながらその実一成の肯定も否定も待つつもりはないようだ。その視線は瑠奈を追いかけたまま、両手を頭の後ろに組んでにやりと一成へ意味ありげな笑みを洩らしている。
「僕がんばって落とすから、カズも協力してよ」
「はぁ?」
「僕さ、いままで経験豊富なお姉さんばっかり相手してたじゃん?だから瑠奈ちゃんみたいなうぶな反応する子ってやったことないんだよねぇ…」
遊ぶなら学校以外で、これが洋平の今までの鉄則だったはずだ。同級生に手を出して変なトラブルになるのを避けるためにも、真剣になられてしまう面倒くささを避けるにもこれが最前の方策だと一成も洋平も互いにそう思っていた。
だからこそこれまで同じ学校の生徒ににこやかな対応をしながら、広く浅く付き合うだけに留めてきた洋平とは思えない発言に一成は目を見開かずにはいられなかった。
「まさか、お前…あの子のこと本気なのか…?」
「本気かどうかはまあちょっと微妙だけど…初心なあの子を僕好みに開花させて、紫の上みたいに僕色に染め上げてみたいってことなら本気だよ?カズもやってみたいと思うじゃん?男の夢だもん。カズもみつきちゃんのこと俺色に染めちゃえばいいじゃん?」
「何で俺がみつきを…まったくお前は…」
文学を引き合いに出しながらなんとも不道徳な洋平の言い草に、一成は溜め息まじりに軽く頭を振るしかない。
「あのなぁ洋平…手を出すのはかまわないけどな、みつきの友達だ、いつもみたいに適当にはすんなよ?俺がみつきになんて言われるかわかんねぇからな」
辛うじて洋平へ釘を刺すのを忘れずに一成がそう言ったとき、洋平は心底不思議そうに一成を見つめていた。
「あれ?やっぱりカズ宗旨替えしたんだ?」
「宗旨替え?」
「そ、だれかれ構わずやりまくる鬼畜から、純粋な恋愛に心ときめかせる男子高校生に生まれ変わったんでしょ?」
こんな場面でなければ花が舞うかのように微笑んだ洋平は、腹に一物も二物も抱えているように見える。毒々しい洋平の華やかな笑みに、一成は傍らで肩をすくめている浩一郎に思わず助けを求めていた。
「浩、変わってくれ。俺はもう洋平の相手をするのは疲れた」
「いい加減自分の気持ちに素直になればいいのに、カズはほんとにバカだねぇ」
これまでの毒々しい歪んだ攻め口から一転したにこやかな薄気味悪さ、洋平のほうこそ宗旨替えしたのではないかと思うと一成はぞっとしなかった。




