第4章 寝ぐせ姫と夏の嵐(1)
学期末試験が終わり、その総合成績が明らかになった今日、一成は学食でみつきと向かい合って座っていた。みつきの成績は中間テストに毛がはえた程度のできばえだったけれど、赤点だけは奇跡的に免れていた。そのことにどうにか一成も安堵の息をつき成績表からみつきに視線を移し口を開いた。
「みつき、夏休みは週5日で補習だ。部活のスケジュールとバイトの予定、全部俺に出せ」
一成の言葉は目の前で緊張を隠さずにその裁定を待ち構えていたみつきの瞳を輝かせた。成績いかんによっては夏休みの部活とバイトを禁止し、連日連夜の猛特訓を布告されていただけに、これはみつきとしてもかなり甘い処断に思えた。
「ほんとっ、部活していいのっ?」
「ああ、いいぞ」
「やったぁ、みんな、あたしやったよ」
みつきは隣のテーブルでみつきと同じように緊張した面持ちで一成の言葉を待っていた元達に諸手を挙げて喜びを伝えると、嬉々としてその場で飛び上がりそうだった。
「みつき、言っとくけど休み中の課題と俺の補習は別だからな。課題は自分でやれよ」
「え~だめだよぉ」
「なにがだめだ」
みつきは朝から楽しみにしていた日替わり定食のエビフライを箸でつまみながら、一成にその尻尾を振って口を尖らせた。
「だってぇ、カズに手伝ってもらえなかったらできるわけないもん」
「やる前から諦めてんじゃねぇよ、ばか」
一成はお尻を向けている海老を睨みつけてから、自分の皿の上の唐揚げを口に運んだ。みつきは一成のそっけないそぶりにむくれながらエビフライをもそもそと噛むという器用な真似をして見せて、そしてその途中で妙案を思いついたように立ち上がった。
「そだ、カズ。じゃあさ、あたし9月たんじょびだから、一人で課題やったらたんじょびプレゼントなんかちょうだい」
「はぁ?冗談だろ、なんで俺がお前に何か買わなきゃなんねぇんだよ」
「え~だって、そういうごほうびないと課題なんかできないもぉん。あたしねぇ、カズみたいなかっこいいのほしいなぁ」
「これ…?」
みつきは一成の左腕のシルバーのブレスレットを見つめながら、一成がそれをつまみあげたことに大きくうなずいた。
「これはお前にはごつすぎるだろ…?」
一成の問いかけにみつきはふるふると首を左右に振ってから微笑んだ。
「そのままじゃなくてぇ、そういう感じのやつがいい」
「それなら勇次が…って、なんで俺が買う流れになってんだよ」
一成はみつきが小首をかしげたおねだりの姿勢に思わず応えそうになって、あわてて顔をしかめ口を尖らせた。するとみつきは一成の口から零れた聞き慣れない名前にきょとんと目を見開いていた。
「勇次さんってだぁれ?」
「ああ、俺の幼馴染。駅前のEdgzって店でこういうの作って売ってるんだ」
「へ~…カズのお友達ってすごいねぇ」
「友達って言うか…兄貴みたいな感じか…?」
「そかぁ、カズのお兄ちゃんかぁ…会ってみたいな」
みつきは会ったことのない勇次を宙空にでも思い描いているのか、なんだかとてもうれしそうにあらぬ方向に向かって微笑んでいる。一成はそんなみつきのそぶりになんとなく照れくさい思いでコップの水を飲み干すと、小さく吐息をついてからみつきの妄想を打ち崩すように口を開いた。
「会ったって別にどうって事ないし、会ったところでお前の誕生日には俺は何もやらねぇ」
「え~…いいじゃんいいじゃん、あたしもカズのたんじょびにはなんかお礼するし、ちゃんと課題もがんばるから、ね?」
みつきが一成の腕を掴んで甘えた口調でせがんでくるけれど、一成はそのみつきのそぶりを横目で捉えてその頭を軽く小突いた。
「課題はそういうことのためにあるんじゃねぇよ。自分のためにやるもんだ」
一成の至極全うな答えに口を開いたのはみつきではなく、学食に遅れて登場した洋平の呆れた声音だった。
「カズはわかってないなぁ。女の子にとって誕生日ってかなり大事なものなんだよ?」
「洋平…」
「まったく…あの生活指導しつこくて、ご飯が遅くなっちゃったよ」
洋平は一番手早く食べられるだろうサンドウィッチののったトレーをテーブルに載せながら、一成の目の前に座り不満を洩らし続ける。
「だいたいさ、ネクタイないくらいでいちいち職員室呼ばなくてもいいじゃん?そんなんしてないやついっぱいいるでしょ」
「お前の素行が悪いからだろ」
「ほら、カズも、元もハルもほとんどしてないようなもんじゃん」
洋平は一成たちのネクタイがしていないのと同じくらい緩められている事を指差して、口を尖らせている。
「だから、お前の素行が…」
「カズ…」
「なんだよ」
洋平は言いたいことを言いたい様に言いつづけ、一成の言葉には全く応えるそぶりもない。いつものこととは言え一成がその事に溜め息をつきながら面倒くさそうに口を開くと、洋平は一点を見つめたままその瞳を見開いていた。
「あの子…誰?」
「あぁ?」
洋平の指先がエビフライを楽しむみつきの隣の少女を指差していた。一成は洋平の驚愕の意味もその少女が誰かと言う答えも分からずその眉根をしかめ、洋平のとび色の瞳とその少女を交互に見比べていた。
「あの子だよ、みつきちゃんの隣の超絶美少女だよ」
洋平は一成の耳元に囁くようにしながら、その興奮に昂ぶる声音は少し離れた彼女の耳にも届いたようだ。洋平の言う超絶美少女は一成のいぶかしむような視線と、洋平の賛辞に耳まで真っ赤に染めあげてその華奢な体を強張らせていた。
「さあ?」
陶器のようななめらかな肌、影が落ちそうなほど長い睫毛、水色というよりはグレーに近い大きな瞳、肩先で緩くカールした明るい髪色、一成はその明らかに周囲から浮き上がっている少女の姿をその時初めて認識していた。きっと微笑むだけで学食中を虜にできるだろう華やかないでたちながら、今はただ緊張に強張る表情がフランス人形のような端正さを際立たせてもいた。
「もう、カズはほんとみつきちゃん以外の女の子のことはその目に入んないわけ?」
洋平は自分より遥かに早くその子を視界に留めているはずの一成のぼんやりしたそぶりに悪態をつくと、エビフライに夢中でかぶりついているみつきに微笑んだ。
「みつきちゃん、その子だぁれ?」
「ん…?ひゅにゃひゃんにょこにょ?」
「みつき…ちゃんと飲み込んでから話せ」
一成に溜め息まじりにたしなめられると、みつきはエビフライの尻尾を覗かせてふあ~いと気の抜けた返事を返した。そうしてみつきがエビフライを飲みこんで口を開いたとき、その口調はなぜか自慢げな響きを持っていた。
「瑠奈ちゃんだよ、藤宮瑠奈ちゃん。お父さんのお仕事の都合でこんな時期の転校になっちゃったんだって。かわいいでしょ?」
「へ~…瑠奈ちゃんかぁ。うん、ほんと、すごいかわいい。瑠奈ちゃん、僕、洋平…菱谷洋平だよ、よろしくね」
「あ…あの…」
「君も知ってるかな?僕、これでも一応菱谷インダストリの三男坊、思いっきり冷や飯ぐらいの役立たずだけど、お金はあるよ?」
洋平は自らの売りである実家の家業をひけらかしながら、同時に自らを蔑むように微笑んで瑠奈の白魚のような手へそっと口付けた。その言動があまりに唐突で、誰も制止する間もなかったこと、それが彼女にとって良かったのか悪かったのか、瑠奈は白い肌を一気に上気させてしどろもどろでみつきに助けを求めた。
「あ…あのっ…あのっ…」
出会ったばかりの洋平の流れるような所作で手の甲へ口付けを受けた瑠奈はその場で大きな瞳を白黒させている。息も出来ないほどの驚愕に頬から耳、そして首元まで朱に染め必死に傍らのみつきに助けを求め続ける。
「み…みつきちゃん…」
「もぅ、洋ちゃん。だめぇ。瑠奈ちゃんはあたしのなんだよ」
みつきは洋平の手から瑠奈の白い手を奪い返すと、腕を広げて洋平から瑠奈を隠す盾のように立ちはだかった。瑠奈はそうしてみつきの影に隠されるとほっと小さく息をつき、洋平の感触の残る手をもう一方の手で包み込み小さく肩を震わせている。まるで雨に濡れた子猫のような頼りなげな所作と消え入りそうな声、洋平はそんな瑠奈の可憐な所作に口元を緩めると、目の前で頬を膨らませるみつきに小首をかしげた。
「え~いいじゃん、みつきちゃんにはカズがいるんだからさ」
「え~、カズと瑠奈ちゃんはちがうもん。あたしが先に目ぇつけたんだから、洋ちゃんにはあげないの」
「じゃあ、カズは僕が先に目をつけたんだから僕のものだね」
みつきの早い者勝ち理論で言うならば、一成と洋平の出会いの方が遥かに早い。みつきは洋平が勝ち誇ったように一成の隣で腕を組んだことに顔を青ざめさせていた。その顔は一成と瑠奈のどちらかを選択しなければならない状況に追いこまれ、冗談半分の洋平の問いかけにみつきは真剣に頭を働かせているように見えた。




