第3章 寝ぐせ姫と鬼王子(13)
みつきが沸騰しきった声音で一成に助けを求めたその問題に視線を落とし、一成は何をわからないと言っているのかそこからしてすでに分からない。みつきの指差している問題のどこに頭を悩ませるのか要素があるのか、一成は逆にみつきに問いただしたい思いのまま口を開いた。
「これか…?」
「うん…」
「連立方程式だろ?普通に代入して解けばいいんだ。昨日もやっただろ?」
昨日一成に教えられるままに解いていた時はすんなり解けていた、なんだこんなものかとも思ったはずなのに、いざ一人で解くとなると昨日一成がどんな風に解いていたか、それがすっかり抜け落ちていた。ダイニュウってなんだっけ…?そんな言葉が浮かんでいるだろうみつきの困ったそぶりに、一成はあからさまなため息を洩らした。
「いいか、みつきもう一回説明するからよくきけよ?まずな、代入ってのはこっちの方程式のxとyの…」
一から説明を始めた一成の口調はすでに小さな棘がこびりついていた。それもそうだ、この説明は昨日もしたばかりだ。洋平と浩一郎は部室の空気がぴりぴりと張り詰めていくのを肌で感じながら、平静を装いつつ時おり横目で互いを確認しあっている。
「…で、xは4だってことがわかるだろ?」
「…ん~…」
「わからねぇ?」
「…ごめん…」
一成は頼りないみつきのうなずきに、手にしたシャーペンを取り落とした。人に教えるということは自分が理解することよりも数倍も難しい、けれど自分としては昨日も今日も同じようにかなり簡潔にそして丁寧に教えたつもりだった。
「悪い、みつき。ちょっと俺叫びそう」
「う…」
一成がみつきに放った言葉は一成の怒りを頂点にたどり着かせた予告でもある。そうして頭を抱えた一成の指先が小さく振るえ、深い溜め息がみつきを取り巻くと、みつきは一成の雷が落ちる予感に身構えてぎゅっと目を閉じた。
「おまえなぁ…ここは昨日もやっただろっ。これだよ、これっ。このページっ、この問題っ。お・ん・な・じ・だっ」
一成は昨日やったばかりのページをバンバンと叩きながらみつきに怒り心頭のまま怒鳴りつけた。洋平も浩一郎も、一成の怒鳴り声の響く部室で互いの肩をすくめながら視線を合わせてため息をつく。
「ごめん…カズ…だってわかんない…」
ごめんね、みつきは昨日は見せなかった涙をこぼして何度もぐすぐすと鼻をすすり上げた。けれどいつもならほだされるみつきの涙にも、一成はその怒りを煽られるばかりだ。一成は参考書を手にしたまま足を組むと、瞳を眇めて泣きだしたみつきを冷たく見据えていた。
「泣いてもだめだ。こんな問題中学のだぞ、なんで高校入ったくせにできないんだよ。お前真剣にやってんのか?」
「真剣だよぉ…」
「真剣だったら遊園地行きたいなんて俺に言うか?」
「でも元ちゃんが誘ってくれたし…」
「元…?お前は期末の成績より元が大事か?」
なんでこんなくだらないことを言ったのか、一成は自分で自分の口を呪いながら元の名前に勝手に苛立ちを募らせた。みつきは一成の言葉にすっかりむくれてうつむいたままスカートをぎゅっと握り締めている。一成はみつきの答えがない事と、これまで以上に口を尖らせてその視線を床に彷徨わせている不満げなそぶりにますます怒りを煽られていた。
「どうせ授業中も元とゲームでもやってんだろ」
「してないもん…授業中は…」
一成の憶測にみつきが口を尖らせ一成を上目遣いに見つめたその視線に、一成の怒りは一気に頂点を目指して駆け上がって行く。みつきは自分の余計な一言に一成の瞳が更に冷たく色を変えた事にぎゅっと瞳を閉じた。
「休み時間でも一緒だっ。お前が真剣にやらねぇなら俺はお前に教えるつもりはないっ。元と遊園地でもなんでも行けばいいっ。その代わり学期末に後悔しても俺はしらねぇからなっ」
一成はもう頂点を通り越した怒りのままに参考書を閉じると、椅子が倒れるのもかまわずに自分のカバンを手に立ち上がった。
「お前が真剣にやらないなら俺は帰るっ、時間の無駄だっ」
一成はみつきが驚いて顔を上向けるのよりも早くその体を翻し、足早に部室の出口に向かって歩いていく。みつきはこれ以上は下がらないだろうと思えるほど眉尻をさげて、立ち去る一成の背中を見つめていた。
「カズ…」
なんでこんな事になったのか分からない、何がいけなかったのかわからない、みつきは一成の体が廊下に出ても立ち尽くしたまま動けなかった。
(―カズ…それじゃただのやきもちだよ…)
洋平は雑誌の隅から顔を覗かせて、立ち尽くすみつきのむこうで一成が歩み去っていく足音が確固たる意志を持っていることに小さくため息をついた。
「みつきちゃん。カズ頑固だからさ、みつきちゃんから謝ってあげないと多分もう引けなくなっちゃってる」
「そうだな…洋平の言うとおりだ。早瀬、追いかけるなら今だぞ。ほんとに怒り出す前にいってやれ」
「う…うん」
洋平と浩一郎に代わる代わるそう諭されて、みつきはようやく一成の倒した椅子とソファに足を引っ掛けながら涙を拭いあげ走り出した。
「カズっ」
がたがたっと部室の扉に体をぶつけながらこじ開けるようにして、ようやくみつきの声が廊下の端に消えそうな一成を呼び止めた。
「カズっ、待ってっ…まっ…」
みつきの涙声とぱたぱたと駆け寄る足音、それが途中でつまづいただろう音に一成は顔をしかめた。みつきはかなり手前の段階で廊下に打ち付けた膝頭をはたいて、零れ落ちた涙をすくい上げていた。まだ部室から数歩と離れていない場所だった。
「ったく…なんなんだよ、これじゃほんとに俺が悪者だ…」
一成は舌打ちしながらみつきのもとに早足で近づくと、その気配にみつきは一成に向かって両手を伸ばした。まるで助け起こしにきた父親に甘えるようなみつきのそぶりに、みつきの涙声が重なった。
「カズ、ごめんね」
一成は諸手を挙げ自分の胸に飛び込んでくるみつきの体を受け止めながら、その髪を撫でた。そうして撫でるとみつきの寝癖がぴょこんと跳ねるけれど、一成はそんな癖も撫で付けながらみつきに囁いた。
「ちゃんとやるか?」
「うん…遊園地も、部活も行かない…がんばるよ…期末まで一生懸命がんばる…総兄いのとこには帰りたくない…だからカズ…やだって言わないで…」
小さく震えながら囁く声、必死に自分を抱きとめる腕、みつきのすべてに一成の怒りがゆっくりと凪いでいった。一成はみつきの頬を伝う涙を親指で拭いあげ、少し照れくさそうに微笑んだ。
「真剣にやれよ?」
「うん、うん」
大きくうなずくみつきの髪をくしゃっと撫で上げて一成がみつきを促し立ち上がると、洋平と浩一郎が覗き見ていた扉をひき開けた。
「おかえり」
一成が立ち戻った時には二人はもう先ほどとなんら変わらぬ位置にいたけれど、覗き見を悟られないよう取り繕った洋平の雑誌は上下反転していた。
「洋平…雑誌逆じゃないか?」
洋平が一成の指摘に一瞬罰が悪そうな顔をしたのに、一成は少し不思議そうに首をかしげただけでみつきと向かい合って席に着いた。洋平は雑誌の上下はそのままに、そろりと浩一郎に近づくと小さく小さく囁いた。
「カズってあんなにやきもちやきなんだね…僕、知らなかったよ」
洋平が囁いた言葉は浩一郎の耳に届いていたけれど、浩一郎は肯定も否定もしなかった。




