第3章 寝ぐせ姫と鬼王子(10)
学校中をみつきと沙紀に引きずりまわされた一成は、波乗りで使う体力とは違う意味の体力の消耗が激しく、その疲労感は苦渋に満ちていた。心無い友人達の心ない言葉の数々も、その疲労を色濃くしていた。一成はようやく見つけた中庭のベンチに腰掛けてぐったりと手足を伸ばしため息をついた。
「じゃあ、沙紀ちゃん、ここで待っててね、デジカメ探してすぐ戻るから。カズ、あたしの分も買っておいてね」
一成はまるでおまけのようなそれでいて召使いのようなみつきのぞんざいな扱いに牙を剥く余力もない。さっさと行けとばかりに片手を振ってみつきを遠ざけると、一成は教室に駆け戻るみつきの姿にほっと安堵の息をついた。みつきが遠ざかりようやく一息ついた一成は中庭の賑わいを楽しそうに眺める沙紀に声をかけた。
「沙紀、お茶でいいか?」
「うん」
沙紀は色とりどりに飾り立てられた店先の装飾が楽しいのか、じっと眺めたままうなずいた。
「買って来るからここにいろよ?」
沙紀は一成を少し振り向いて微笑むと、すぐに中庭の人混みに目を戻した。一成よりも発作の重い沙紀の喘息はなかなか軽快を見せない。ここのところぐっと症状はよくなっているが、まだまだ油断は出来ない状況だ。学校以外あまり外出の出来ない沙紀の願いをこうしてかなえてあげること、それが沙紀にしてあげられる一成の精一杯の愛情表現でもあった。
「沙紀にはお茶、俺はコーヒーだな。みつきはこれか」
一成はみつきに聞かなくてもみつきが欲しがるものを選ぶことの出来る自分が少し情けない。お茶と缶コーヒーのなかで一際子供じみた飲み物が高校生のものだというのだから、みつきの精神年齢が危ぶまれる。
「そんなにうまいのかね、これが」
一成はみつきのいつも飲んでいるジュースをしげしげと眺めながら中庭のベンチに戻ると、沙紀にお茶を差し出して自分はコーヒーに口をつけた。ブラックの缶コーヒーはドリップには程遠いながら、それでも甘くないという時点で一成の好みだった。口に広がるコーヒーの香りにようやくいつもの平静を取り戻せた気持ちになる。けれど、一成がほっと息をついたくつろぎは、ほんの一瞬与えられた束の間の時間に過ぎなかった。
(―あいつのすぐはすぐじゃねぇっ)
みつきに買っておいたジュースの缶は全体にびっしりと水滴が浮き上がっている。一成は早々と飲み終えたスチール缶を握りしめ、なかなか戻らないみつきをイライラしながら待つはめになった。
(―なにやってんだよ)
みつきの姿はすぐそこにある、一成はそのことを承知していながらその場を動けない。沙紀が傍にいるということもあるけれど、それ以上に一成をその場に縛り付ける理由があった。
苛立ちながら見つめる一成の視界の中で、ピンクのウサギはその耳だけを残し後は廊下に群がる生徒達に囲まれていた。それだけならばたいしたことではない、みつきの周りはいつも楽しげな生徒達の輪が出来ている。けれど今日はそれが一成が離れた隙を付いたように行われたこと、そして群がる生徒の多くが男子であること、その事が一成をその場から動けなくしていた。
(―ピンクのウサギがいいのかそれともみつきがいいのか…どっちにしても趣味が悪いやつらだな)
一成は苦虫を噛み潰すと同時に、みつきがそれに笑顔で応えていることに胸が鋭く疼くのを感じていた。
「そんなところでニヤニヤしてないで、さっさと戻れっ」
一成はこちらを振り向きもしないみつきに怒鳴りつけたいのを辛うじて飲み込むと、いつまでたってもみつきが戻らない憤りをもってスチール缶の形が変わるまで握り締めた。ピンクのウサギの耳を見ながら落ちつかなげに足を小刻みに動かす兄の姿を、沙紀がくりっとした目で覗き込んでいた。
「みつきちゃんはお兄ちゃんの彼女でしょ?お迎え行ってあげないの?」
「沙紀っ…そんなことどこで覚えたんだっ?」
「やだなぁ、お兄ちゃん。沙紀のお友達だって彼氏がいる子たくさんいるよ?」
「なっ…沙紀っ、沙紀にはいないよなっ」
今時の小学生は侮れない、当然のように恋愛事情を口にする沙紀の姿に、一成の声は思わず翻りそうだった。沙紀は焦燥募る兄の問いかけに小さく微笑んで、ペットボトルのお茶に口をつけた。
「沙紀はいないよ。だってお兄ちゃんみたいにかっこいい男の子いないんだもん」
一成は沙紀の少し得意気な口ぶりにほっと吐息をついて、最愛の妹に褒め称えられる喜びを押し隠しながらその髪をくしゃりと撫でた。けれどその手は次に沙紀の口から飛び出した言葉にまたすぐに強張った。
「みつきちゃんかわいいし、お兄ちゃんもみつきちゃんのこと好きよね?」
「好きって…だから沙紀それは違うって…」
「違うって言わなかったよ、お兄ちゃん」
「いやっ…でも…」
「わたしみつきちゃんがお兄ちゃんの彼女ならうれしいな」
口ごもり情けなく食い下がる兄の姿にはお構いなしで、沙紀は戸惑うばかりの兄に向かって微笑んだ。
「だってかわいいもん」
沙紀は一成の焦燥などお構い無しに満足げに微笑み、廊下のみつきに向かって小さく手を振った。みつきは一成が見つめていた時にはちらりとも視線を向けなかったくせに、沙紀の小さな合図には敏感な反応を示していた。
「お兄ちゃん、みつきちゃん手振ってるよ?」
みつきに手を振り返さない兄に沙紀が首をかしげて問いかけていたけれど、一成は新たに生まれたもう一つの懸念にその問いかけに答える余力を失っていた。
「沙紀、みつきのこと母さんには絶対言うなよ」
「どうして?」
「どうしてって…そんなこと言ったら母さんも誤解するだろ。みつきはそういうんじゃないんだから」
「ん~…なんでみつきちゃんはお兄ちゃんの彼女じゃないの?」
「なんでって…」
愛らしい眼差しで小首を傾げられても一成には即答できなかった。なんでだろうか、一成は沙紀の問いかけにすぐに答えを見出すことが出来なかった。沙紀は不思議そうにしばらく逡巡する兄を眺めていたけれど、その瞳はみつきの姿を近くに認めて微笑みに変わった。
「みつきちゃん、おかえりなさい」
「ごめんね~、お待たせ~」
みつきが手を振りながらだぶだぶと走りにくそうな様子で急ぐ姿は、それを見つめるものの目をやにさげた。けれど、一成はなんとも間の悪いみつきの登場を苦々しく思うばかりで、沙紀の問いかけに明快な答えを見出せなかった。
(―なんで彼女じゃないのか…?)
そんなことより、なぜ皆が彼女だと決め付けているのかそれが一成には分からなかった。みつきは沙紀だ、沙紀みたいな存在だから彼女じゃないんだ、そう沙紀に言えばよかったんだろうか。一成がなんとなくやりきれない想いのままえもいわれぬ疲労感とともに学園祭が幕を閉じていった。




