第1章 眠りの森の寝ぐせ姫(2)
浩一郎が一成に初めて会ったのは小等部にあがったばかりの頃だった。当時から骨太な偉丈夫だった浩一郎に比べ、一成はまるで女の子のような華奢な体に人形のように綺麗な顔立ちをした脆弱な男の子だった。
「女男だ~」
「ちびちび~」
そんな風にからかわれ、悔しそうにしていた一成を浩一郎は当初情けないやつだと思っていた。からかわれても何も言い返せない気弱な少年、彼が取り囲まれている脇をすり抜けて浩一郎は呟いた。
「弱虫」
一方的にそんなレッテルを貼られた少年が、実家の柔道場の門を叩いたことを知った時、浩一郎は少なからず驚いた。
「森一成君だ。柔道は全くはじめてだそうだから、皆よろしく頼む」
皆といいながら浩一郎を見つめた師範代の意図を、浩一郎はすぐに察してしまえた。浩一郎は叔父に当たる師範代の言葉にうなずくと、緊張した面持ちで頭を下げた一成に手を差し伸べた。
「4組の大友浩一郎です」
「4組…?」
「君は2組だよね?」
「ああ…同じ学校…」
そう言われても一成は思い出せないのか知らないのか、にこりともせず浩一郎を見上げた。その瞳はひどく冷たく、そのあまりの冷たさに一瞬浩一郎はゴクリと喉を鳴らしていた。
「よろしく」
その言葉には愛想の欠片もなく、浩一郎は今度はあからさまにむっと眉をしかめた。浩一郎より一回りほど小さく線の細い体、病弱な体質を思わせる色白な肌、触れたら折れそうな細いだけの手足、浩一郎はこんな体で柔道などできるわけがないと感じていた。
「まあ、がんばって」
浩一郎が無愛想な同級生の入門を歓迎する理由はなくなった。長い歴史と栄えある栄光、大友道場の猛々しさは良くも悪くも全国に鳴り響いている。
(―どうせすぐに音を上げる。明日にはやめるって言うさ)
しかし、浩一郎のその考えと口先の激励はすぐに改めさせられた。
「も、森君っ」
浩一郎が兄弟子達の挨拶と称した無茶な稽古に声を上げたのは、一成の小さな体が数メートルは飛んだように見えたからだ。
「だ、大丈夫っ?」
激突した瞬間の鈍い音は浩一郎にも経験がある。息がつまるようなあの痛み、目の前の小さな体の少年には相当こたえているはずだ。浩一郎はうずくまりながら咳き込む一成を不安げに覗きこんだ。
「だ…だいじょ…ぅ…ごほっ……大丈夫だっ…」
「でも、顔が…」
「顔なんて別に…ごほごほっ…」
畳に擦れ血が滲み出した左頬を浩一郎から隠すように庇いながら、一成はくの字に体を曲げて激しく咳き込んだ。
「森君…」
「ただのぜ…ごほごほ…喘息…ごほっ」
苦しげに声を上げる一成にかける言葉を見失ったまま、浩一郎はバックから薬を取りだす一成の背中を見つめていた。ようやく見つけ出した薬を2回ほど吸うと、一成は数回深呼吸しまた立ち上がった。
「森…君…?」
浩一郎には一成の行動が分からなかった。散々痛めつけられ、喘息の発作であれほど苦しそうにしていたのに、その足が兄弟子に向かって歩いていくからだ。
「もっ…森君っ、もうやめなよっ。今日は終わりだよっ」
「いいんだ。ほっといてくれ」
浩一郎は一成の見かけ以上にその性根の据わった心意気に目を見張り、振り払われた腕を空に伸ばして、一成が兄弟子に向かう背中を見つめるしか出来なかった。それ以降、一成はいつも痣をこしらえていたけれど決して泣き言を言わなかった。むしろ浩一郎には一成が怪我をすることを歓迎しているのではないか、そんなそぶりすら感じられたほどだ。
一成が柔道を習い始めて1年ほどした頃、初等科の集団演舞の先頭に一成が抜擢された。全国大会の開幕式に華を添える大事な行事だ。一成が抜擢されたことで、浩一郎は一成の右後ろで控える事になった。
「おい、ちび」
雑巾がけを始めた一成の後ろ襟を掴み上げたのは、浩一郎のすぐ上の兄だった。彼は浩一郎より4つ年上ながら、昨年全国大会で優勝を収めた猛者だ。いつも中学生かと間違われる体格のよい腕の先では、まだまだ体の出来上がっていない一成の体が一回りも二回りも小さく見える。
「ちょっと顔貸せ」
兄の力に押され道場の畳の上に突き飛ばされた一成の体が、一成の手にした雑巾と同じくらい頼りなく見える。浩一郎は一成がいたぶられる光景は何度も目にしていた。けれどその日ばかりはいつもと少し様子がちがっている、浩一郎は兄の緊迫した表情に不安を覚えた。
「おい、なんとかいえよ。ちび」
「お前には柔道よりおままごとのほうがいいんじゃないか?」
自分の兄弟子ながら下卑た笑いに、浩一郎は眉をしかめた。けれど一成は一回り以上体の大きな兄弟子達に小突かれ、振り回されながら、哀願も抵抗もなくただ黙って睨み返している。そんなことをしたら余計に怒りをあおるだけだと浩一郎はハラハラしながらも、兄弟子に比べればまだまだ体も小さく非力な浩一郎にはなすすべが見つからない。
「おい、なんだその目は」
「俺達はお前の先輩だぞ」
「お前はいっつも生意気なんだよっ」
がつっと鈍い音とともに、浩一郎の兄の拳が一成の頬に激突し、その体が畳一畳分は吹き飛んだ。もうこれは柔道ではない。
「兄さんもうやめてくださいっ」
「うるさいっ。おまえはだまってろっ」
兄の腕に絡みついた浩一郎はものの見事に吹き飛ばされ、背中を叩きつけられた衝撃に息がつまった。
「お前は悔しくないのかっ、集団演舞の先頭はお前だったはずだっ。お前だってやりたいって言ってたじゃないかっ」
兄の激昂に浩一郎は言葉もなかった。集団演舞などさして問題になるほどのことでもない、けれど浩一郎がひそやかに楽しみしていたのを兄は感じていたのだ。もっと小さな頃、兄がつとめたその大役を、いつか必ず自分がするのだと兄に話した記憶が蘇った。
「兄さん…僕は…」
「喘息だ熱だと寝込んでばっかりいるくせに小手先の業ばかり上達しやがってっ」
「兄さんっ」
兄は悔しかったのだ。喘息で休みがちなわりに上達が早いと一成が褒められ、毎日実直に練習に励む実の弟が叔父や父親に軽んじられたことが。兄の悔し紛れの拳が再び一成に振り下ろされた。
「お前なんかやめちまえっ」
「兄さんっ、やめてくださいっ」
一成が抜擢されたのは、その動きの忠実さに課すところが大きいことを浩一郎は分かっていた。喘息発作でしばらく休養していたにも関わらず、久しぶりに道場に戻った一成の演舞は非常に美しかった。まるで師範の見せた演舞の手本をそのまま写し取ったように正確無比なその動きは、一成が自宅で何度も繰り返し頭に思い描いていたのではないかと思われた。そして実際一成は、喘息発作が続き思うように道場に通えない間、稽古の遅れを取り戻すべく密かに努力を重ねていた。浩一郎は一成の努力に思い当たると、ひたすら罰の悪い思いがこみあげていた。
「だめだよ、兄さんっ。もうやめてくださいっ。僕がっ…僕がだめだからいけないんですっ。カズ君は悪くないっ」
浩一郎は兄弟子に叩きつけられた背中の痛みと同時に、自らの至らなさを攻められた思いで悔しさに涙が溢れた。泣きながら兄弟子達を止めてはみたが、一成が兄弟子に折檻された後の頬はしっかりと赤黒く腫れあがっていた。しかし一成はいさかいの原因を問いただす師範代には固く口を閉ざしたまま、帰り際にすれ違った浩一郎に小さく頭をさげた。
「ありがとう…それから……ごめん…僕、演舞には出ないよ」
痛みに顔をゆがめながら浩一郎の前を通り過ぎる一成の瞳はただまっすぐに自分に課せられた理不尽な妬みや嫉みを睨みつけているように見えた。
「僕がいると道場の雰囲気がわるくなるから」
それはあの折檻からさらに数ヶ月が過ぎた頃だった。道場をやめる事になった旨を浩一郎に報せにやってきたとき、また一成の頬や肩には青黒いアザができていた。今度は浩一郎のあずかり知らない道場以外の場所で何かがあったのだろう、浩一郎は一成のアザや擦り傷が目に痛々しく痛みに顔を歪めて口を開く一成に胸が痛んだ。
「カズ君…ごめん。兄さん達が…」
「ちがう…これは僕のせいだから」
一成は小学生が浮かべるには少し大人びた苦労を背負ってしまった苦渋を滲ませてつぶやいた。努力してもしなくてもやっかまれうとまれる、それは幼い一成の心に大きな傷となっていたにちがいない。今まで一成に言った事はないけれど、浩一郎はあのときの一成の悔しさに紛れた悲しみを今も時おり思い出すことがある。人がうらやむほど恵まれているように見える一成だが、実はそのことを一番悲しんでいるのだと。
どこにいても溶け込めない自分、人とうまく付きあうことの出来ない不器用さ、一成の心の中を察するにはあまりに自分は平凡だった。浩一郎は一成が立ち去った講堂で幼い苦い思い出に小さくため息をついた。