第3章 寝ぐせ姫と鬼王子(4)
良太に拝み倒された次の日、学校に足を運んだ一成は忽然と姿を消したみつきを探し出すことから始めなければならなかった。しかし、休み時間ごとに携帯を鳴らしてもさっぱり音信不通、登校しているかさえも定かではない中一成はみつきの捜索を昼休みに絞る事にした。食べ物に目がないみつきが学食に顔を出さないはずがない、一成がそう算段して一階の廊下に差し掛かったとき、そこに学食に向かう元と慶太の姿を目にとめた。
元は中等部時代からの友人である慶太となにやらのんきに笑いあいながらまっすぐに学食に足を進めていて、一成の射る様な視線には全く気がつくそぶりも見せない。水飲み場のガゼルの方がよっぽど辺りを警戒しているだろうのんきさに、一成は標的を見定めた黒豹のごとくしなやかな足取りでゆっくりと腕を伸ばした。
「おい、元、みつきはどこだ」
怒りを抑え地の底から響くような一成の声音、静かながら凍てつくようなその鋭さに元だけでなく慶太の体も一瞬にして凍りついた。慶太の冗談に笑ったままの笑顔が張り付いた顔で振り向いた元に一成の第二声が轟いた。
「みつきを出せっ」
知りません、そう声を出す前に元はさして変わらぬ体格の一成に胸倉を掴みあげられて、壁に叩き付けられていた。これでは出せと言われてもどうにも答えようがない、元は身に覚えのない罪状を突きつけられた理不尽さに怒るよりも先に、一成への恐怖に強張った顔をどうにか左右に振って見せるしか出来ない。
「正直に言った方が身のためだぞ」
「し…しり…ませ…ん」
ようやく搾り出した元の声はかすれ、裏返り、なんとも情けないものだったけれど、一成はしばらく元を睨みつけながらその冷たい瞳を徐々に細めていぶかしみ始めた。
「ほんとに知らねぇのか…?」
「あい…あいっ」
苦しさに喘ぎながら、元は一成の問いかけに必死に首を上下に振り続ける。そんな元のそぶりにようやく一成がその戒めを緩めると、元は軽く咳き込みながらその場にずるずると力なく沈み込んだ。
「そうか、お前も知らねぇか…悪かったな、元…時間とらせた」
一成はまだ息を整えている元に向かってそれだけ言うと、まるで神隠しにでもあったかのように忽然と姿を消したみつきの意外な才能に舌打ちをもらした。
「あのヤロ…見つけたらただじゃおかねぇ…」
一成はみつきがそこにいるとでも思っているのかゴミ箱を覗きこんでから苛立たしげにそれを蹴飛ばし、掃除用具入れや柱の影、いくら小さいといっても入らないだろう窪みまで覗き込みながら元から遠ざかって行った。元が呆気に取られたまま一成の後ろ姿を見送っていると、ようやく呪縛の解けた慶太が元に向かって手を差し出した。
「だ、大丈夫か、元?」
「あ…ああ…」
元は慶太の手を借りて体を起こすと曲がったネクタイを直し、慶太は一成のいなくなった廊下へ視線を走らせて小さく吐息をついた。
「カズ先輩のあの様子じゃあ、みつきが逃げ回りたくなるのも分かるな」
「そうだな…逃げ回ってる理由も理由だしな」
慶太の言葉に同意を示しながら、同時にみつきに対して苦笑を浮かべる元の姿に、慶太は伺うように元を覗き見た。
「なあ、お前さ…ほんとに知らなかったわけ?」
慶太の何かを含んだ物言いを元は一蹴するように肩をすくめた。
「知らねぇよ。あいつ突然『あたしはいない』って、どっか行っちまったんだ。ほんとどこ行ったんだか、俺のほうこそききてぇよ」
「ふ~ん…しっかし意外だな…カズ先輩はみつきが絡むとあんな熱くなる人だったんだな…な、やっぱ付き合ってんのか、あの二人?」
意味深な慶太の視線に伺うようにされて、元はうわずりそうな声を必死に抑えて呟いた。
「つ、付き合ってねぇ…」
らしい、付け足すような元の声に慶太は少し目を見張りながら、その声音と同じくらい自信なさげに丸めた元の背中を軽くはたいた。
「そうか、良かったな、元。それならお前にもまだまだチャンスはあるってことだろ?」
「なっ…なに言ってんだよ…」
元は言葉に詰まりながら皆まで言うな、そう慶太の顔に書いてあるのを読み取ると慌てて慶太から顔をそらした。それでも隠し切れない元の耳が真っ赤に染まっていることに慶太は小さく微笑むと、元の冷や汗だらけの背中をまた軽くたたいた。
「じゃ、元、早く学食行こうぜ、俺腹減った。ああ、そうだ…今日は口止め料代わりにおごってくれてもいいぞ?」
慶太は冗談交じりに元を冷やかしながら、それに慌てふためく元を促して学食に向かってさっさと足を進めた。元はむなしいあがきと分かっていても、先を行く慶太の背中に言い訳がましい言葉を昇らせながら、軽やかな足取りの慶太を追いかけた。
午後の授業が始まる直前に教室に滑り込んだみつきは、授業などそっちのけで頭を抱えて小さくうなり続けた。けれど、そのうなりは授業の内容に頭を悩ませているからでなく、このあと一成から姿をくらまし続ける算段を立てなければならないがゆえのものだった。
静まり返った教室に響く数学教師の声、黒板に書かれていく数式はみつきにとってはもはやただの暗号文以外の何ものでもない、一成にあんな大口を叩いておきながらみつきは赤点を取る前から数学などとうに捨てきっていた。
(―何で数学なんてあるのぉ…)
みつきがそんな思いのまま恨めしげに黒板を睨み付けていると、隣の席から紙切れが投げ込まれた。全てのことの成り行きを知っている元からの手紙、みつきは元が妙案を思いついたかと期待を込めてそれを開き、そうしてすぐにその顔をこわばらせた。
『カズ先輩が本気で怒ってるぞ、会いに行け』
みつきはその一文で元の裏切りを悟り、元からの忠告の手紙を握りつぶした。今のみつきが一成に会いに行くということ、それは死刑執行台に自ら進んで首を差し入れるようなものだ。みつきはそんな自殺行為を進める元の薄情さに向かって、裏切られた悲しさと恨めしさを消しゴムと一緒に投げつけた。
そうしてみつきが怒りをこめて投げつけた消しゴムは、うまいこと元の頭にぶつかって机の下に落ちた。元は小さくいてっと呟くと、消しゴムの当たった頭を掻きながらメモを広げた。
『元ちゃんのばかっ、裏切り者っ。もう元ちゃんとは、絶交だっ』
元は小学生の捨て台詞のようなみつきのメモに小さく吹き出しながら、消しゴムにメモを添えてみつきに返した。
『ば~か』
みつきはその元のつたない文字で書かれた侮蔑の言葉に一層腹を立てると、今度は書くのも面倒くさいとばかりに元に向かって口パクでば~かとやり返し、そしてとどめにい~としてみせた。そんなみつきの子供っぽいそぶりに、元はもう笑う余裕は無かった。二人はそのあと何度と無く小学生のようなやり取りを繰り返し、見かねた教師にお互いに頭をはたかれるまでし烈な戦いを繰り広げた。
戦いの結果は見るも無残だった。二人だけに与えられた課題は数学教師の悪意に満ちていて、見るからに難解で膨大な設問にみつきと元は互いに向かって激しい闘志を駆り立てた。
「お前のせいでやんなくていい課題まで出されただろっ」
「元ちゃんが余計なことするからだっ」
「俺はお前のために言ってやってんだろっ、なんでわかんねぇんだよっ」
「あたしのためじゃないでしょっ、どーせ、カズに脅されたんだっ」
「おど…脅されてなんかないぞっ」
全てを見ていたかのようなみつきの口ぶりに元は思わず言いよどむと、みつきはその隙を逃さず一気に畳み掛けた。
「ど~だかねっ」
ふんっと、みつきが鼻息荒く腕を組みぷいっとそっぽを向いたそのとき、みつきの襟首が何かにがっちりと押さえられた。
「お前らは小学生か?」
みつきの襟首を掴んだのは一成だった。みつきは元のことなど構わずに逃げなくてはいけなかったのに、つい元の挑発に乗ってしまった自分を激しく、激しく後悔した。
一成はぎゃあぎゃとわめきながら無駄な抵抗を続けるみつきを軽々と押さえつけ、脅しつけるように低い声を出した。
「みつき、良太さんから全部聞いたぞ。お前の一人暮らしの条件」
「えっ…」
みつきはばたつかせていた手足をぱたっと止め、油の切れた人形のようにぎこちなく一成を振り返った。




