第3章 寝ぐせ姫と鬼王子(3)
一成がみつきにしてやられたあの日から季節がめぐり6月に入った頃、黎明学園では先日行われたテストの総合成績が発表されていた。一成はその努力に呼応するだけの成績を修めていたけれど、一つだけ気にかかることがあった。
一成はテストが返却され始めてから明らかにこそこそと一成を避けるみつきの態度に、ある程度の予想はしていた。そうして言わずと知れた賭けの勝敗を喫しようと、みつき補足のためにマイスナへ足を運んだ一成は、予想外の顛末を耳にして愕然とした。
「赤…2つ…?」
「そうなんだ…どうしたもんかと思ってな」
良太は大きな体に似合わず、心底困った顔で一成を見つめていた。良太から聞かされたみつきのテスト結果は、一成が想像したよりも惨憺たるものだった。みつきは数学と化学で赤点を取り、他の科目においてもぎりぎり平均点をかするくらいだったという。一成は重苦しい良太の口から次々に知らされる事実に、思わずカウンターに拳を叩きつけていた。
「あんのバカやろ…」
一成がここにはいないみつきに向かって苦々しく呟いたその顔を見ながら、良太が突然一成に向かって頭を下げた。
「カズっ、一生のお願いだ。みつきの勉強見てやってくれ、頼むっ」
一成は良太が顔の前で両手を合わせ自分を拝むのを見てほんの少し心が揺れ動いた。けれどあの日の屈辱的なまでのみつきの態度を思い返すと一成の揺れ動いた心は、すぐに強固な意志を持って凝り固まった。
「無理です。だいたい良太さんもあいつがテスト前に俺になんて言ったか知ってますよね?あいつの赤点は自業自得です。あいつが学校で補習受ければいい。なにも良太さんが俺に頭下げることなんかないですよ」
良太に対してではなくその言葉がみつきを突き放しているのは明らかだったけれど、良太はその一成の態度に殊更眉尻を下げた。
「いや、それがな…そうでもないんだ…」
良太は取り付く島も無いほどの一成の拒絶にあいながら、大きな背中を丸めて小さな声で話し出した。
「カズ…前に、みつきの両親が、みつきの小さい時に離婚したのは話したよな?」
「ええ…みつきは父方に引き取られて、その後父親が事故で亡くなったって聞きましたけど…」
みつきの勉強の話から急に話題を変えたような良太の切り出しに、一成は一瞬戸惑いを隠せなかった。けれど、良太はそんな一成の戸惑いをうけあうそぶりも見せず、かなり困ったように眉尻を下げていた。
「そうなんだ…それでみつきの父親が亡くなってからは、俺の姉貴と総一郎、ああ、総一郎ってのはみつきの兄貴なんだが…その3人で暮らしてたんだ。それで去年総一郎が結婚して、姉貴が仕事で渡米することが決まってな、もちろん姉貴はみつきをアメリカに連れて行こうとしたんだ。だけどみつきが日本に残るって言いだしたもんだから、俺が姉貴と総一郎に泣き付かれてな、みつきを説得しようとしたんだが、あいつ意外と頑固だろ…?」
「ですね」
一成は良太に伺うようにされて、その時のみつきにどのくらい手を焼いたか良太の苦労を思いながら大きくうなずいた。
「それでな、少しばかりみつきと姉貴の折り合いが悪いせいもあって、話がスムーズに進まない。アメリカ行きが嫌なら総一郎と暮らせといっても、新婚家庭だから嫌だという…あの時は俺も困ってな…みつきにどうしたいって聞いたらあいつ、こっちで暮らしたいって言いはじめるからまたひと悶着だ。総一郎はみつきがアメリカに行かないなら一緒に暮らせと言い張るし、みつきは離れたくて仕方ない…みつきもみつきなら、総一郎も総一郎なんだ…どっちも頑固で一歩も引かない…」
良太はその時の苦労を思い出したのか、深く沈んでいきそうなほど重苦しい吐息をついて肩を落とした。
「まあ、俺から見ても総一郎はかなりクセのある奴だし、みつきに対して過保護すぎるきらいもある。それがみつきとしてはありがた迷惑な部分もあったんだろう。みつきが突然一人で暮らすって言い出してな、反対する総一郎を押し切って、勝手に俺のところに転がり込んで、勝手にめぼしいマンションを探し出した」
良太の言葉の端々に一成は驚愕を隠せない。あののんきなみつきが母親と折り合いが悪く、兄貴がかなりの曲者だといわれても、どうも結びつきそうにない。けれど一成は良太のそぶりに嘘がないことも見て取れるだけに、どう言葉を返したらいいかわからなかった。
「意外だろ?あのみつきがって思うだろうけど、あいつにはあいつなりに思うところがあってのことなんだ。その辺はカズも分かってくれるよな?」
良太は一成の顔の強張りを読み取って肩をすくめて見せていた。一成はそうしておどけたような良太のそぶりに小さな吐息を重ねて口を開いた。
「しかし、みつきも思い切ったことを…あのどじっぷりじゃあ、みつきの家事のせいで、マンション一個くらい吹き飛ばしそうですけどね」
一成の口調は良太の懸念と苦労を労うような、それでいてみつきの軽はずみな言動を諌めるような複雑な思いを込めたものになっていた。
「そうだよな…俺も総一郎もそれはかなり懸念した。だけどな、総一郎があんまり強情なもんで、俺もつい頭に来てな。総一郎の過保護ぶりじゃあみつきがいつまでたっても大人になれないとかなんとか、偉そうなことを言っちまったんだ。それでとうとう総一郎が折れたんだがそこにはいくつか条件がついてた」
「条件…?まさか…」
「そのまさかだ。みつきの頭の程度をよく心得てる総一郎は俺の言葉に折れた振りして、みつきを手っ取り早く連れ戻すのに、その条件にみつきの成績のことをあげてきたんだ…」
良太の複雑な思いもわかるけれどやはり事の発端はみつきにあった、そこに思い至ると一成はみつきに対してあきれた顔をする以外出来なかった。
「じゃあ、やっぱりあいつが悪いんじゃないですか」
「分かってる。分かってるんだが、なかなか折れない総一郎に、俺もあの時かなり強く言っちまった手前これじゃあ合わせる顔がない。だからなカズにみつきの勉強見てやって欲しいんだ。でないときっと総一郎のことだ、こんな成績を耳にしたら学期途中だろうがなんだろうがみつきは有無を言わさず連れて行かれる…そうなったらあいつは学校も辞めるしかないんだ」
「学校を…辞める…?」
「ああ、そうだ。総一郎の家からじゃあ遠すぎる、あの学校には通えない」
長々と語られた良太の話を締めくくるその言葉は、かなり強固な説得力を持って一成の耳に轟き渡った。
「なっ、だから頼むっ、みつきの勉強見てやってくれっ」
ぐらりと揺らぐ一成の決意に更に畳み掛ける良太の最後の一押しは、良太の想像以上に一成の決意を揺るがせていた。一成は良太の懇願にとうとう力なくうなずく以外他になすべきことが見つからなかった。




