第3章 寝ぐせ姫と鬼王子(1)
4月も終わりを迎える頃、世の中は盆や正月に匹敵する一大イベントのゴールデンウィークに突入した。世間ではこの大型連休に様々な催しを組む企業があまた現れるけれど、一成はどこに行く予定も立てずただ波乗りに没頭しようとマイスナと家の往復を繰り返した。しかし海はそんな一成をあざ笑うように穏やかな水面をきらめかせるばかりで、小さなさざ波が一成の欲求不満を募らせるばかりだった。
大波を期待するわけではないがここまで凪いだ日が続くとさすがに気がめいる。常連ばかりのランチタイムを過ぎた良太が一息ついたとき、一成は恨めしげにピクリとも動かないマイスナの風見鶏を睨み付けていた。
(―もうちょっと動けっ)
いくら睨みつけても微動だにしない風見鶏に、一成は仕方無しにカウンターに参考書を広げ数式と格闘し始めた。そして暇をもてあましたみつきが一成を背もたれにくつろぎ始めると、一成はずしりとのしかかるみつきの背中を冷たく一瞥しうなるような声を上げた。
「お前な、俺が今何してるように見える」
「んと…べんきょでしょ、知ってるよぉ」
みつきは一成の抗議に口を尖らせるとカウンターにゲームの攻略本をどさりと置いた。一成は自分の参考書よりも厚みのあるそれを冷たく目にすると、みつきを突き放すように押しやった。
「分かってんなら寄りかかるなよ、邪魔だ」
「いいじゃん、カズも勉強ばっかしてないで遊ぼうよぉ」
勉強よりもゲーム、それはみつきにとっては最高の誘い文句だ。けれど一成は眉をしかめるばかりで脳天気なみつきの手を邪険に振り払う。
「俺はお前の背もたれになるためにここにいるんじゃねぇ」
「うん、カズはここで勉強しながら海見てんだもんね、ちゃんとわかってるよ?」
全てを心得たように言いながらみつきがゲーム機を起動させると、軽薄な起動音があたりに響いた。それに一成は苛立ちを隠さずにみつきを睨み付けると、みつきの手にしたゲーム機を力任せに掴みあげた。
「じゃあお前は何しに来てんだ」
「ん?バイトだよ?」
一成はのんきなみつきの声音に、シャーペンが折れそうなほどその手を握り締めた。どこの世界に客に寄りかかってゲームをする店員がいるのか、一成はそんな怒りを込めてみつきに向かって怒鳴りつけた。
「だったら、とっとと働けっ」
一成の怒声にみつきはうひゃっと小さく声を上げながら、椅子から転がるように良太の影を目指して一目散に逃げ出した。
「叔父さん、助けて」
みつきの小さな体にまとわりつかれながら良太は返事の代わりに溜息を洩らし、黙々とグラスを磨き続けた。そんな良太の影からみつきは怖いもの見たさとでも言うのか、おそるおそる目だけを出して一成のふてくされた顔を伺い見る。
ちょろりと覗いたみつきの目と一成の怒りに満ちた目が合うと、一成はわざと顔をしかめてみつきを脅しつけた。するとみつきは小さく悲鳴を上げながら良太の背中に隠れ、また少しするとおずおずと顔を出す、繰り返される二人の攻防に今度は良太が大きく溜息を付いた。
「カズ、こんな開店休業の状態で、みつきも暇をもてあましてんだ。気を悪くしないでくれ」
「じゃあ、帰したらいいですよ。こんなのに時給払うなんてやめたほうがいい」
良太のとりなしに一成はみつきを睨みつけていた瞳にようやくほんの少し穏やかさを取り戻しながら、それでもみつきへの怒りに駆られた感情を隠すことなく良太にぶつけた。良太はそれに困ったように眉尻を下げると、今度は背中のみつきに腕を回した。
「みつき、いい加減にしないか。ほら、ちゃんと顔出せ…」
良太はみつきを背中から引きずり出すと、まるで猫のように首根っこをつかまえカウンターの椅子に放り投げた。みつきはきゃふっと小さな悲鳴を上げ、一成はまた隣に座ったみつきに黙ったまま顔をしかめた。
「それからな、カズ、みつきも一応一人暮らしだからな、こいつのバイト代はほとんどがうちでの食費なんだ。それに、ここにいればみつきのどじの監視も出来る、どっかでバカなことやらかしてないか心配するより、傍においといた方がなにかと都合がいいんだ」
「あ…なるほど…そういうことだったんですね」
「そうなのだ、だからいいのだ」
みつきは良太の言葉に勢いづくと、また一成を背もたれにゲームを再開した。そんなみつきの態度に一成はもうあきれてものが言えず、観念しきったようにまた参考書に目を落とした。
良太がカウンターの内側でグラスを磨き、一成が時々参考書のページをめくる音に混じり、一成に強制的に音量を絞られたみつきのゲームの操作音が店内に小さく響いた。良太はカウンターの向こう側で黙々と同じ姿勢を保つ二人の姿に小さく吐息をつきながら苦笑を浮かべた。
そうして良太がちらりと覗き見た一成の参考書はかなり使い込まれた感じがあり、そこに書かれている問題は遠い昔に良太が学んだ数学という教科とは別物に見えた。自分が出来ないのかそれとも一成の頭のレベルが上なのか、良太はそれを考えることも諦めてグラスを磨きながら参考書に取り組む一成の真剣な瞳に小さく首をかしげた。
一成が以前からこうしてカウンターでペンを取っていることは知っていた。図書館や学校という場所は人が多すぎ一成の集中を欠くからで、マイスナのカウンターが一番落ち着くのだと話していたことも知っている。けれどなぜエスカレーター式の学校に通いながら一成がこうも努力しているのか、その根本的な理由は知らなかった。良太は一成がノートに走らせていく几帳面な文字を見つめながらまた小さく首をかしげた。




