第2章 寝ぐせ姫と桜の木(8)
「あのぉ…」
みつきは一成がジュースを買ってくるのを中庭のベンチで待ちながら、すっかり困惑していた。ベンチに座ってしばらく足をぶらぶらさせていると、どこからともなく現れた線の細い綺麗な顔立ちの男の人が自分の頭を撫ではじめたからだ。
まるで小さな子供を愛でるようなしぐさと優しげな視線、そこにはみつきに向けられた愛おしさすら感じる。みつきは見知らぬ人ながら、その人の優しい手つきにきょとんとしたまま目の前の人物を見つめていた。
「ハル…?」
しばらく黙ってされるがままだったみつきと、線の細い人物に一成の声が届いた。そうして呼びかけられてみつきを撫でていた人の手が離れていくと、ようやくその人が口を開いた。
「やぁ、カズ…」
「どうした、お前。今日も休みだったんじゃないか?」
一成はみつきに買ってきたジュースを差し出しながら、晴彦の姿が幻かのようにまたたいている。みつきは一成の買ってきたジュースを嬉しそうに受け取って、鼻歌まじりにプルトップに指をかけた。みつきの鼻歌はこのジュースのCM曲だ。自ら繰り出す軽快なリズムにみつきの寝癖がぴょこぴょこ跳ねた。
「うん…でもね、洋平が今カズが面白い事になってるっていうから…来た」
「なんだそれ」
みつきがプルトップを開けられずに苦戦していると、一成は何も言わずにみつきの手から缶を受け取り、ぷしゅっと一度で引き開けた。みつきが手元に戻ったジュースに歓喜し、また鼻歌まじりに一口ジュースを口に含むと、嬉々として寝癖がぴょこんと跳ねた。
「来て、よかった…」
一成は晴彦の視線がみつきの寝癖を捉えているのを目で追うと、少し気まずそうに眉を下げた。だらしない娘をわびるような顔だ、晴彦は一成の父親然としたそぶりに口元を緩めた。
(―洋平の言うとおり…おもしろいね…)
晴彦が珍しくその口端をほころばせていると、洋平の声音が中庭に響いた。
「あれぇ、ハルじゃん。早速来たんだね」
一成が面白い事になっていると、洋平が晴彦にメールをしたのは昨日のことだ。洋平は晴彦のいつにない反応のよさに満足げに微笑み、浩一郎はその向こうからゆっくりと歩んでくると、晴彦の姿に少し驚いていた。
「洋平…浩…久しぶり」
「どうしたんだハル?しばらく休むんじゃなかったのか?」
浩一郎が晴彦の肩を叩いた時、缶ジュースとその小さな手を合わせぽんっと音を立てた。
「そか、カズのお友達だったんだね」
みつきは一成と晴彦の二人を交互に見つめると、そかそかと一人何かを納得するようにうなずいた。
「ああ、そうか、みつき。お前ハルは初めてだったよな?木月晴彦っていうんだ。しばらく休んでたからお前にはまだ会わせてなかったな」
晴彦はみつきの正面にまた向き直ると、一成から自分に視線を移して微笑むみつきを見つめてぽそりと呟いた。
「…かわいいね…」
「かっ…かわいい…?」
晴彦の呟きはみつきにははっきりとは伝わらなかったのか、みつきは小さく首をかしげている。けれど、その小さな囁きは隣に佇む一成の耳にはしっかりと届いていた。聞き間違いではない、晴彦は確かにみつきを見てかわいいと口にしたはずだ。
「うん、かわいいよ…とても」
追い討ちのように重ねられた晴彦の言葉は、今度はしっかりとその場の全員に届いたはずだ。一成だけでなく、みつき以外の誰もが晴彦の発言に信じられないと目を見張らずにはいられない。
「ハル…?」
(―…本気か…?)
一成はあまりの驚きに言葉が続かず、晴彦のガラスのような瞳の奥に真実を見出そうとしばらく凝視し続けていた。皆も同じ気持ちなのか誰も言葉を発することが出来ない。けれど、晴彦はそんな友人達のことなどお構い無しにふっと微笑むと、再びみつきの髪を撫でながらまた口を開いた。
「うん…ヨーキーみたい。髪が…似てる」
「ヨーキー…?」
「…うん…僕の犬…かわいかった…」
ヨーキーそれは犬の種類ではなく晴彦が幼い頃愛犬につけた名前だった。ここしばらく学校を休んでいたのも老衰で他界したその愛犬を悼んでのことだった。
「犬かよ」
「犬だって…」
「犬って…」
それぞれがそれぞれに思うのは、なんだ犬のことだったのか、そんな落胆にも似た安堵感だった。晴彦が異性に興味を持ったわけでも、みつきが急にもてるようになったわけでもなかった。
「そうか…犬か…」
なんだ、と思いつつほっとしている自分が一成は少し不思議だった。洋平がそんな自分を見ながらまた何か言いたそうにしていたけれど、その場の誰よりも先に口を開いたのはみつきだった。みつきはベンチからぽんっと中庭に降り立つと、片手を晴彦に向けてまっすぐ伸ばして微笑んだ。
「ハルちゃん、みつきだよ。よろしくね」
「ハル…ちゃん…?」
みつきの物怖じしない性格は良くも悪くも驚かされるばかりだ、一成は呆気にとられている晴彦を伺いながら、みつきをたしなめるようにその頭にぽんっと手をのせた。
「みつき、いくら俺の友達っつってももう少しちゃんと挨拶しろ」
「え~、ちゃんと挨拶したよぉ」
「どこがだよ」
「ちゃんとよろしくって言ったもん」
何がいけないの、そんな風にみつきの瞳は一成に抗議している。一成としてはこのみつきの自由奔放さがどこで培われてきたのか不思議でならないが、呆れる一成が次の小言を言う前に晴彦の手が小さなみつきの手をそっと包み込んだ。
「…よろしく…」
「うん、よろしくね」
やや勢いの付きすぎた握手に翻弄されながらも晴彦は微笑んでいた。みつきも満面の笑みでその微笑みに応えていたけれど、この晴彦の笑顔をみて驚いたのは一成だけではない。一成以上に怒りも悲しみも喜びも外にあらわすことのない晴彦の微笑みは、洋平の言葉を借りるなら天変地異を引き起こしそうに思えた。
「あのねハルちゃん、またヨーキーちゃんのこと思い出して寂しくなったらいつでもきてね」
みつきが自分のクセ毛を摘み上げながらそう微笑むと、晴彦は一瞬驚いたように目を見開き、そしてすぐに嬉しそうに口元をほころばせみつきに小さくうなずいた。
「ありがとう…」
晴彦の笑みに満足したのか、みつきはえへへと照れ笑いを浮かべるとその手を放して一成に纏わり付く。その姿は小さな子供が照れ隠しに父親の影に隠れようとしているようにも見え、一成はそんな娘を守る父親のようにみつきの頭を抑えながら、晴彦の反応を知らずと伺っていた。
「カズ…いい子だね…」
晴彦は困惑気味な一成にだけ聞こえるようにそう囁き、洋平はそんな晴彦の言動に本当にどこに逃げるか決めておかなきゃ、そんな風に心に思い描いていた。




