第2章 寝ぐせ姫と桜の木(7)
新学期が始まってから約二週間、一年生達にも午後の授業が組まれるようになると、学食で過ごす初々しい姿が目立つようになった。いつもならばそんな小さな変化など一成にはどうでもよいことだったけれど、今年は自分に降りかかった大きな変化を思わずにいられない。一成が学食で昼食を取ることも稀なら、そこに昼休みの半分を過ぎても座っていることなどいままで皆無だった。しかし今日この日、みつきとの約束を実現させたおかげで学食はいつも以上に混み合い、なかなか席が空く気配を見せない。学食の異様な混み具合に昼食を諦めた生徒も多いようだった。
「カズ、これあげるね」
みつきは自分のトレーからブロッコリーの一団をごろごろと移すと、にこりと微笑んだ。一成はブロッコリーを嫌いではないけれど山ほど食べるほど好きでもない、このままでは一成はみつきに押し付けられたブロッコリーを全て食べなければならなくなる。一成はそれだけは避けたいとブロッコリーをフォークにさして、みつきの目の前に差し出した。
「お前ブロッコリー嫌いじゃないだろ。ちゃんと食え」
「ん~…柔らかいのは好きじゃないんだもん」
みつきはいやいやをするように一成に差し出されたブロッコリーに顔をしかめ、その手を押し戻した。
「わがままいうな、食え」
「ん~…」
「みつき」
「んん~…」
一成がみつきの固く引き結んだ唇にブロッコリーを押し付けるが、みつきはがんとして口を開かない。一成は舌打ちしながら仕方無しにフォークを戻すと、小さく吐息をついた。
「わかった。このブロッコリーとお前のトレーの上のもの、全部食ったらあとでジュース買ってやる」
「ほんとっ」
「ああ。だから食え」
またぐいっと押し付けたブロッコリーに今度は抵抗なくみつきの口が開いた。もぐもぐと緑の塊りを咀嚼していくみつき、それを見てから自分のトレーに残されたブロッコリーの二個目をフォークにさす。
「ほら、もう一個だ」
みつきは一成に言われるままにあぐっとその口を開けた。まるで雛鳥に餌付けしているようだ、親鳥の差し出したエサに条件反射的に口を開ける小鳥のようなみつきの姿がおかしくて、一成はふと笑みをこぼした。その無防備な一成の笑顔には学食中から驚嘆と感嘆の溜め息が巻き起こった。
「カズ先輩が笑ったよぅ…写真撮りたいっ、撮りたいよぅっ」
「カズ先輩笑った顔も素敵…」
「いいなぁ…早瀬さん…私もあ~ん、してほしいっ」
みつきが素直に口をあけることが面白くて、学食のざわめきに紛れ囁かれる声も今は一成には気にならないようだ。貴重な一成の笑顔を学食中の学生が堪能できた頃、ようやくブロッコリーを全て食べ終えたみつきは、チャーハンの残りを急いで食べつくすと、がたんと立ち上がった。
「食べたよ、カズ。早く行こっ」
みつきが最後の一口を飲み込んだのを確認しながら一成がのんきに水を飲んでいると、それをせかしてみつきは歩き出そうとする。一成はコップのフチから零れた水に手を濡らしながら、シャツを引くみつきの力に抵抗を示した。
「ちょっ、ちょっと待てって…食器下げてないだろ」
「あ、そか…」
ジュースに目がくらんで一目散に学食を出ようと勢い込んでいたみつきの力がふと緩んだ。
「ごっちそうさまでした」
みつきが自分のトレーにむかって手をあわせ小さく頭を下げると、そのトレーがふわりと持ち上がった。
「ありゃ…?」
みつきがまるで不思議現象にあったように目を丸くしてトレーを追って行くと、そこでは一成がみつきを見下ろして肩をすくめていた。
「どうせ転ぶから、お前は向こうで待ってろ」
両手に黄色いプラスチックのトレーを手にした一成のその姿も不思議と様になる。まるでただの学食がにわかにおしゃれなカフェにでも変身したようだ。
「はにゃぁ…カズはお盆も似合うんだねぇ」
一成の背中にかけられたみつきの意味の分からない褒め言葉は一成には届かないようだ。一成はやたらと混み合っている学食を不思議に思いながら、食器返却口にまっすぐ歩いていく。
「洋ちゃん、浩ちゃん、元ちゃん。先に中庭行ってるね」
みつきは一成と一緒に学食にいた3人にそう声をかけると、一成に示された学食の出口に向かって歩きだした。
「僕、カズがほんとにお父さんに見えてきたよ」
「だな…」
「ですよね…」
その場の誰もがみつきと一成の食事風景に毒気を抜かれて昼食が進まなかったのは同じだったようだ。学食の中は二人の退室とともに一気に食器が触れ合う音が高まり、慌しい食事風景がいたる所で繰り広げられた。ようやく息をついた3人も、まだ半分ほど残っていた日替わり定食のおかずを箸でつつき始めた。
「まったく毎日毎日ラブラブすぎて、見てるこっちが照れちゃうよ」
「まあまあ、洋平、カズをとられて悔しいのはわかるけどな、そう妬くな」
キャベツの千切りをもてあそびながら口を尖らせる洋平を横目に、浩一郎は冷め切ってしまった味噌汁を飲み干した。
「浩、気持ち悪いこと言わないでよっ、それじゃまるで僕がカズに惚れてるみたいじゃん」
キャベツを口端から覗かせて口を尖らせた洋平に、浩一郎は少し肩をすくめておどけてみせる。
「なんだかんだ喧嘩しながらいつも一緒にいるだろ?」
「それは浩もハルも一緒でしょ」
「そうか?でも、俺が奈緒と付き合い始めたとき、お前はこんなに妬かなかったぞ?」
「浩とカズは別でしょっ」
洋平が浩一郎のからかうような口ぶりに珍しく煽られているのは、虫唾の走るような純愛すぎる光景のせいかもしれない。洋平はそれが不満だとばかりに最後のハムカツに仇のように箸を突き刺した。
「ったく、さっさとつきあっちゃえばいいんだよっ」
浩一郎の鳥肌の立つような冗談に憎々しげにハムカツを食いちぎる洋平の脇から、おずおずと顔を覗かせたのは元だった。
「あのぉ…あの二人って…やっぱまだ付き合って…ないんですよね…?」
「あれ…?君いたんだね。みつきちゃんの同級生ちゃんだったよね?」
「あ…はい、いたんです…ずっと…」
元はいたって普通な自分の存在感がこのメンバーの中で張り合えるわけもない事実をよく心得ていて、洋平の失礼な物言いにも恐縮しきりに背を丸め頭をかいていた。今日もたまたまみつきに誘われるままに学食に来たに過ぎない元は、みつきにはすっかり置いてけぼりを食ったらしい。洋平はぽつんと座っている元の人となりを観察しながら、視線だけを元に向けて面倒くさそうに口を開いた。
「カズはつきあってないっなんて言ってるけど、僕にはどうみても付き合ってるようにしか見えないよ。君もそう思うでしょ?」
洋平は投げやりなそぶりを隠しもせずにそう言うと、残った白米を味噌汁と一緒に流し込む。元はそっけないけれど重大な質問にどう答えようかと最後の漬物を箸先に掴んだまま逡巡した。
「えっ…えと…まあ…あの仲いい兄弟にも見えるかなって…」
元がおそるおそる少し不機嫌な様子の洋平に伺うそぶりを見せると、洋平はふっと大きな瞳を眇め口を開いた。
「はは~ん…君もカズと同じかぁ…みつきちゃんに惚れちゃった?」
「えぇっ…なっ、なっ、なんでそんなことにっ」
「冗談だよ、冗談。カズとみつきちゃんはね~付き合ってない。けど、どうせ近いうちにはそうなるよ」
洋平は元の質問が面倒なのか、それとも一成とみつきの成り行きを考えるのが面倒なのか、無責任な言葉を次々と元に浴びせていく。元は洋平のやつあたりのマトにされているとも知らずにしどろもどろで会話を続けようとしていたけれど、それは浩一郎の溜め息交じりの言葉に遮られていた。
「洋平、そういう適当なことを言ってると、またカズにどやされるぞ」
「え~、だって僕はそう思うんだもん」
カズのことなんて知ったことかといわんばかりの洋平の口ぶりに、浩一郎は小さく吐息をつくと元を振り向いた。
「なあ、坂田。カズと早瀬だけど、今のところ付き合ってるとかそういうんじゃないみたいだ。だから、あんまり不用意に騒がないでやってくれるか」
「い、いえ、俺はその興味本位とかじゃなくて…」
浩一郎の声音にたしなめるような響きを感じて元は慌ててそう言葉をつなげた。その元の人の良さそうなしぐさに、浩一郎は少しほっと息をつくと元に小さく頭を下げた。
「そうか、それならそっとしておいてやってくれ、頼む」
元はそんな浩一郎の殊勝なしぐさと、とても同年代とは思えない思慮深さに気後れしていた。先ほど興味本位では無いと言った元の言葉に嘘はない、無いけれど心の片隅にそんな邪な気持ちが無かったかといわれると強く否定は出来ず、元はまた小さく頭を下げた。
「あ…あの…俺、すいません…」
元は自分でも気付かなかった部分を浩一郎にすっかり見透かされたようで、浩一郎の言葉にそう返すだけが精一杯だった。けれど、そんな元をよそに洋平は締めの漬物をぽりぽりとかみながら浩一郎に向かってあきれたような声を上げた。
「浩、でもさ、それももう遅いよ。カズとみつきちゃんの注目度ってば並じゃないし」
洋平はそういうと先ほどまでの学食の異様な混み具合が、一成の退室とともに閑散としたことを目で示す。浩一郎はそれに小さくうなずくと、また一際困ったように眉根を下げた。
「分かってる。でもな、傍にいる人間が同じようにざわついたら、カズも早瀬も居心地悪いだろ?」
「もう、浩はそうやってすぐカズを甘やかす。だから、カズがわがままになるんだよ」
洋平は浩一郎の言葉に業を煮やすと、とうとう口を尖らせてふてくされてしまった。浩一郎はそんな洋平の背中を励ますようにぽんっと軽くたたくと、あとは困ったように元と視線を合わせて肩をすくめた。




