第2章 寝ぐせ姫と桜の木(6)
一成がみつきに腕を引かれて、桜並木で一番の古木の前に来るとそこには数組の家族が順番待ちをしていた。しばらく時間がかかりそうなその気配に一成が小さくため息をついたとき、みつきは人混みの中に見知った顔を見つけたのか大きく手を振るとまた駆けだした。
「元ちゃんっ」
「え…あっ、みつき…」
元と呼ばれたその男子生徒はみつきが駆け寄ってくることに目を見張り、そしてそのすぐ後ろから近づいてくる一成の姿に息を呑んだ。一成はそんな元に近づくと、いまにも元に飛びつきそうなみつきの肩を引き寄せた。
「みつき、誰だ」
一成の声はみつきに向けられながら、見知らぬ男への警戒心に満ち溢れていた。けれどそんな一成の懸念などお構い無しに、みつきは一成を振り仰ぐと屈託無く微笑んだ。
「カズ。あのね、元ちゃんだよ」
「元…?」
「同じクラスで、お隣さんだったんだよ。小さい時からずっと黎明だったから、いろいろ教えてもらったの。それにね元ちゃんゲームもすっごい上手なんだよ。だから明日からいっぱい教えてもらうんだ」
「ふぅん…あんまりゲームばっかしてんじゃねぇぞ」
みつきがまるで自分のことのように自慢げに元を誉めそやす、一成はそれが少し面白くないというように顔をしかめていると、元がおずおずと口を挟んだ。
「あ…あの…カズ先輩、俺、坂田…坂田元って言います。…えっと、それから、あのっ…今朝、掲示板のとこではすいませんでしたっ」
一成とさほど違わない体格ながら一成とは正反対の温厚そうな人柄を思わせるつぶらな瞳、スポーツをしているだろうよく焼けた肌、短い黒髪を天に向かって立たせたその姿、それは一成が今朝声をかけた男子学生によく似ていた。
「…ああ…あのときの…」
そう言われてあのとき声をかけた男子学生が彼だったかどうか明確な判定がつかない。一成は人付き合いという分野に関しては全く働かない自分の記憶力の偏りが少し恨めしく、もやもやとした思いを誤魔化すように元の肩をぽんぽんと軽くたたいた。
「えっと、元…だったか?…みつきが世話になったな。これからも迷惑かけるだろうけど、よろしくな」
一成のまるで父親のような口調に元はただ戸惑うばかりで、どう言葉を返していいのか分からないまま一成の端正な顔を見つめ返していた。するとそんな元の逡巡に生まれた間隙にみつきが一成に向かって口を開いていた。
「あたし元ちゃんに迷惑なんてかけてないよ、カズ見てないくせにひどいぃ」
「見てなくても分かるし、どうせこの先迷惑かけるだろ?」
「む~絶対かけないもん、ね?元ちゃん」
「え…えと…」
もうすでにいくつか世話を焼いた気がする、元がそんな思いでふくれ面のみつきの問いかけに即答しかねていると、ますますふくれたみつきの頬を一成がほらな、と笑ってつついている。
(―カズ先輩が…笑った…?)
今朝の今朝まで森一成という人物は決して人に馴れ合わず、決して笑うことのない人なのだと信じていた。これまでの価値観を覆されたようなカルチャーショックにあんぐりと口を開ける元の顔は、ただひたすらに驚愕し愕然と現を捉えていた。
「元ちゃん、どしたの?」
元はあまりの驚きに時が止まったような感覚がしていた。実際にはそれはつかの間のことだったけれど、気がつけば瞬きすら忘れた様子の元の袖をみつきが繰り返しくいくいと引っ張っていた。
「お~い、元ちゃ~ん…」
「えっ…いや、俺いますげぇ感動しちゃって…」
「感動…?」
「だってあのカズ先輩が俺と話して笑ってるなんて…なぁ?」
わかんねぇ?そんなふうに元はみつきに同意を求めたけれど、みつきは一成と元を何度か見比べ、きょとんとしたまま今度は一成の袖をくいくいと引き下げた。
「元ちゃん感動してるんだって。なんで?」
「俺が知るかっ。そ、そんなことよりほらっ…写真、そろそろいいんじゃねぇか?」
一成は誰もいなくなった桜の下を指差し、面倒な話題から遠ざけるようにみつきの背中を軽く押した。するとみつきは何を思いついたのか、そだ、と小さくつぶやくと一成の手から自分の携帯を奪い取り突然くるりと体を翻した。
「ね、元ちゃん、写真撮って」
元はみつきに押し付けられた携帯と、その携帯を奪われて困惑している一成を交互に見比べると戸惑いを露わに口を開いた。
「え…でも…」
「いいから、いいから」
みつきは自分の行動に戸惑うばかりの二人を差し置いて、元をカメラマンとしての位置に立たせると、今度はにこやかに一成の腕を取った。
「カズ、早く」
「早くって…」
「カズも一緒に入るんだよ」
「えっ…」
みつきがしごく当然のように微笑んで発した言葉に一成が瞠目すると、みつきは少しいたずらっぽく微笑んだ。
「だって記念写真だもん、お父さんも一緒に入らなきゃ」
「いや、俺は写真は苦手…」
「カズ、カメラはあっちだよ。はい、あっち向いて、にっこり~」
「にっこりって…冗談…」
「いいからいいから、ほらあっちだよぉ」
いつになくきびきびと動くみつきに圧倒された一成の頬をみつきが精一杯背伸びして小さな両手で包み込むと、その顔をくいっと元の構えた携帯に振り向けた。
「じゃあ撮りますよぉ」
「おい、元…」
元ののんきな掛け声に一成が抗議の声を上げようとした瞬間だった、元の持った携帯電話のシャッター音があたりに響いた。
「撮れた、撮れた?」
「おう、ばっちりだ。カズ先輩もちゃんとこっち向いてるぞ」
「おお、うまいねっ、元ちゃん」
「まあな」
みつきは元の手から携帯を受け取るとその写真のできばえに瞳を輝かせ、元はそのみつきの感心しきった声音にまんざらでもない様子で少し胸を反らせている。満開の桜の下に並ぶ二人の記念写真は、とてもじゃないけれどその一瞬前までもたもたしていたとは思えない出来栄えだった。
「えへへ、じゃこれ、待ち受けにしちゃおっと」
上機嫌で話す二人の傍で一人騙された思いでふてくされる一成の耳に、そんなみつきの声が不吉に響いた。
「ばっ、ばかなことすんなっ」
写真を撮られただけでも不覚だというのに待ち受けになどされてはたまらない。一成はみつきの手から携帯を取り上げようとしたけれど、みつきは一成の攻撃を思いのほか軽やかにかわし死守した携帯をちらつかせてにこりと微笑んだ。
「いいじゃん、記念だもん。カズにも送ってあげるから大事にしてね」
「するか、ば~か」
嬉しそうに一成に微笑むみつきの瞳には、家族連れを見つめて浮かべていた翳りなど一片も見当たらなくなっていた。みつきが人知れず抱えるもの、それが幼い頃に失った家族のぬくもりを追い求める悲しみだということは一成にもよく分かっていた。
ただ一成にはみつきの翳りの中にはそれだけでは説明のつかないものがあるような気がしてならなかった。けれど、今の一成にとっては目の前にいるみつきが笑っていればそれでよかった。それだけで一成の心は凪いでいくし、みつきもそれで満足しているように思えていた。
いつかのこの時の一成の思いがただの独りよがりだと知る時が来るまで、一成は自分の心に抱いた疑問にそっと蓋をして、しばらくの間見て見ぬ振りを通し続けた。
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