終章 寝ぐせ姫と王子様(8)
一年というのはあっという間に過ぎ去っていく、一成はみつきと過ごす一日一日を大切に重ねながらその日を迎えていた。一成の受験もようやく終わり、あとは結果を待つだけとなっている。正直かなりの手ごたえを感じていたし、順当に行けば合格通知が今日にでも届くだろう。一成は卒業証書を片手に自分のブレザーの襟元にとまる校章をゆっくりと取り外した。
教室から出た一成を待ち構えていたのはすすり泣く多くの女生徒だった。そこにみつきの姿はないけれど、いつもよりは静かな出迎えに一成も冷静にそれを迎えることが出来た。
(―いつもこう大人しければ、まだいいのに…)
嬌声も耳障りならこう泣かれても困る、涙に囲まれて一成はため息をついた。すると集団の中ほどで一人の女生徒が勇気を振り絞り震えるままに口を開いた。
「あのっ…カズ先輩…あの…こっ…校章を…校章をくださいっ」
女生徒は涙で泣き腫らした目で一成を見つめ、そうして両手を差し出して頭を下げた。
「ずるいっ、抜け駆けっ」
「カズ先輩っわたしにくださいっ」
「やだっ、わたしもほし~」
口々に甲高い嬌声が上がり、一成は結局その声に最後まで悩まされせることになるのかと顔をしかめた。そうして目の前でつかみかからんばかりに言い合いを続ける女生徒たちに一成は大きな声を出して黙らせた。
「うるせぇなっ」
いがみ合いにらみ合っていた女子達がはっとして一成を見上げると、一成はその視線から少し目をそらして頭をかいた。
「最後くらい静かにしてくれ」
女子たちは一成の、「最後」という言葉に敏感に反応し、また多くの者が涙を流しすすり泣いた。
黎明学園の校章の裏には入学時に生徒各自のイニシャルが刻まれる事になっている。それがいつしか第二ボタンの代わりに、卒業式に交換されるようになったのはここ数年のことだった。一成は手にした校章を握り締めてすすり泣きを続け別れを惜しむ女生徒達に静かに口を開いた。
「…写真は撮るし、花ももらう」
一成はそれが不本意なのだとばかりに顔をしかめつつその場の全員につげると、手にした校章を示して決然と言い放った。
「でも、これはやれねぇ。みつきにやる」
それが当然であるし、それはわかりきったことだった。一成がこうしてこの場で話してくれているのも、すべてみつきのとりなしなのだった。一成のきっぱりとした口調に、女子達は誰も不満を漏らすことなどなかった。
桜の古木の立派な枝ぶりを見つめながら、みつきはあと一月後の自分を思っていた。この枝をすべて隠すほどの桜の花が咲いたら、咲いてしまったら、自分はどうしているだろう。一成がこの一年をどれだけ努力してきたか、みつきは隣で見ることができた。大学に受からなければいい、そんなことは片隅にも思えないほど一成は日々努力を重ねていた。桜を見上げて零れ落ちる涙がみつきの心を濡らし続けるけれど、それは不意にかけられた声に微笑みに取って代わった。
「写真撮ってやるよ」
卒業式からだいぶ時間が経ち、辺りにいた在校生もまばらになっていた。一成の声を振り仰いだみつきにむかって、一成がその手をのばしていた。
「ほら、約束だろ?カメラ出せよ、持ってきたんだろ?」
「…カズ…」
みつきの瞳にたまらず大粒の涙が浮かぶと、一成は眉根を寄せてその涙をそっと指で拭いさった。
「お前はほんとに…そんなに泣くな。それとも泣き顔で撮るのか?」
「やだよぉ…」
そう言いつつもみつきはまた盛大に鼻をすすりあげて一成の胸元にぽすっと飛び込んだ。一成はそのみつきの小さな体を抱きしめながら、いつもよりはくたりと元気のないクセ毛をゆっくりと撫でた。
「みつき…今ならまだ間に合うぞ?」
「なにが…?」
「まだ東都を受けただけだ。入学するって決めたわけじゃない。黎明の進学試験も通っているし、問題はない」
「だめっ」
一成の問いかけにみつきが必死に首を振って答えると、小さく鼻をすすって一成に縋りついた。
「せっかくあんなに頑張ったのに…なんでそんなこというの…?」
「なんでって…離れたくないからだけど?」
「カズ…」
「お前とずっと一緒にいたい。ただそれだけだ」
一成はみつきの前で膝を折るとその頬に手を添えて潤んだ瞳を見上げていた。みつきは一成の大きな手の感触にゆっくりと瞳を瞬くと、目尻にたまっていた涙が一粒零れ落ちた。
「ほら、もう泣くなって言っただろ?」
みつきの睫毛を零れ落ちた涙が濡らしていくと一成は困ったように微笑んで、その涙をまた静かに指先で拭い去った。みつきはそうして一成に微笑まれると同じように困ったように眉尻を下げて、今度は自分の指先でその目をごしごしとこすり上げた。
「もう泣かないよ。カズ、写真とろ」
涙を拭って空元気のままデジカメをカバンから取り出すみつきを見ながら、一成が思い出したような声をあげた。
「あっと…その前に…」
みつきが一成にカメラを差し出そうとしたとき、一成はブレザーのポケットから校章を取り出してみつきにそっと差し出した。
「これ…お前にやる」
みつきは一成の手の中の校章と、一成の顔を交互に見てから満面の笑みを浮かべた。
「ありがと、カズ、うれしい」
きゅっと抱きつくみつきのしぐさは今でも一成の胸を高鳴らせる。1年たっても何年経ってもこの想いは変らないだろう。一成の愛しさの基準点は、みつきを中心に回っている。これ以上でもこれ以下でもなく、みつきだけが一成の想いの対象だった。
「じゃあ、交換」
みつきは一成のブレザーに自分の校章をつけ、自分のブレザーに一成の校章を付け替えた。黎明の校章、それはもう一成にとっては今日で必要のないものだけれど、みつきの校章というのがうれしかった。




