終章 寝ぐせ姫と王子様(7)
中庭を見下ろす窓という窓から多くの生徒の視線を感じながら一成がようやくみつきのジュースと自分のコーヒーを手にすると、みつきが待つベンチに近寄りながら声をかけた。
「おい、みつき。行くぞ」
「ん?どこ行くの?」
「ここはちょっと…まだ寒いだろ。上行くぞ」
上と言いながら一成が部室の窓に視線を投げるとみつきはあ~いと軽い調子で返事を返して、ベンチからぽんっと舞い降りた。
部室の中は差し込む日差しのあたたかさに満ちていて、一成がいつものソファに腰をおろすとその隣にみつきがぽんっと軽い調子で腰かけた。二人の体を受け止めたソファが少しきしんだ音を立てたけれど、一成は傍らのみつきの肩をそっと抱き寄せて、その目の前にいつものジュースを差し出した。
「ほら」
「ありがと、カズ」
みつきが一成に開封されたジュースに口をつけると、おいしそうに瞳を閉じてその甘みを堪能していく。一成は久しぶりに人の視線を意識し、心身ともにぐったりとした疲労感に包まれていたけれど、ジュースを一口飲むたびにみつきの髪が嬉々として跳ね上がるとそれに小さく微笑んでその髪に手を伸ばした。今は手を伸ばせばそこにあるこの髪が昨日まではとても遠かった、一成はみつきのクセ毛が自分の指先に触れる喜びに微笑んだ。
「どしたの、カズ」
みつきは一成の指先がなんの前触れもなく自分に触れた事に首をかしげながら、一成の笑みに微笑み返した。みつきの瞳が大きく瞬き、柔らかな唇がにこやかに一成に微笑みかけ、あたたかく柔らかな指先と小さな体がそっと一成の腕に触れていた。
「いや…別に…?」
「そ?」
髪に触れるだけ、たったそれだけのことがこれだけ幸せな瞬間に感じるのなら、この先のあらゆることに期待と喜びが膨れ上がる。一成はみつきの髪から指を離すとそっと三樹を抱きしめた。
「カズ…?」
今だけ、ほんの少しだけ、一成は不意に扉が開くかもしれない状況の中できゅっと三樹を抱きしめると、その髪に頬寄せてその柔らかな感触を慈しんだ。みつきは一成にされるがままにその胸元に頬を寄せその温もりを楽しんでいたけれど、やがて何かを思いついたように口を開いた。
「そだ…カズ、元ちゃんがね、おめでとって言ってくれてたよ」
「元が…?」
「うん。おめでとって元ちゃんが朝みんなに言ってくれて、それでみんながおめでとって言ってくれたの」
「そうか…元が…」
みつきの報告に一成が腕を緩めるとそこからみつきが一成を振り仰いで微笑んでいた。その笑みは純粋に元の祝福を喜び、元に感謝を述べていた。一成はそんなみつきの罪作りなまでの微笑みに元の心を思いながら、また乱れた髪をそっと梳くように撫で上げた。
「元気だったか…?元…」
「うん、いつも通りだったよ?」
なんでそんなことを聞くのか、みつきの口調と顔つきにはそんな言葉が書いてあったけれど、一成はそれには答えをもたらさず半分ほど残ったコーヒーに手を伸ばした。一成が一口コーヒーを飲み下すと、同じようにみつきもジュースに手を伸ばしていた。
「そういえば、お前勉強してたか?学年末大丈夫だろうな?」
一成の不意の問いかけにみつきは傾けていたジュースにむせこみそうになりながら目を白黒させていた。一成はあからさまなみつきの動揺にため息をつくとコーヒーの残りを飲み干して、溜め息をついた。
「そんなことだろうと思った。今度赤点取ったら俺はどうしたらいい?」
「と、とらないもん」
「絶対だな?」
一成は口を尖らせるみつきの顔を両手で包み込むとあらぬ方向へ逃れる瞳を追いかけて、軽くねめつけた。
「今度赤点取ったらほんとに辞めさせられるぞ。そうなったら離れ離れだ、それでお前はいいのか?」
「やだよぉ」
「そうだろ?じゃあがんばれるな?」
一成に念を押されてみつきの膨れた頬がシュンとしぼむと、みつきの瞳が一成をまっすぐに捉えていた。
「カズもやだよね…?」
みつきは一成の心の奥底を見通すようにまっすぐに一成の瞳を見つめて小首をかしげた。そうされると一成は嬉しさよりも気恥ずかしさが勝ってしまうのか、あまりにまっすぐなみつきの瞳から思わず視線をそらして口を開いた。
「そりゃ…まあ…やだからお前にがんばれって言ってんだろ?」
「うん、わかった。じゃあ頑張る」
みつきは一成の照れくささを隠したぶっきらぼうな声音に微笑むと、一成の逸らした瞳を追いかけた。
「カズ、またべんきょみてね?」
「ああ…でもそろそろ俺も自分の勉強時間作りたいから、お前一人でも勉強できるようになれよ」
「ん~…考えとく」
「考えとくじゃねぇよ、ばか」
まったく、一成がみつきの逡巡に軽く頭を小突くと、みつきはそれを嬉しそうに受け止めて一成に抱きついた。
「カズ、いつもありがと」
「なっ…なんだよ…急に…」
「だって、カズがそばにいてくれて嬉しいんだもん」
みつきの微笑みと共にちゅっと音を立てて頬に口付けられて、一成は驚きのままその瞳を瞬いた。みつきの触れた頬が熱を持っているように感じられる、自分がするのとされるのではだいぶその後の感動が異なる口付けに、一成はまるで初めてキスされたように胸が高鳴っていた。一成が頬に手を当てたまま硬直していると、遠慮がちな浩一郎の咳払いが廊下に響いていた。
「あ~…晴彦、コーヒーでも買いに行くか?」
「…だね…僕は紅茶がいい…」
二人がわざとらしく声を高めて部室を通り過ぎていくと、みつきがきょとんとしたまま首をかしげた。
「あれぇ…?浩ちゃん達行っちゃった?」
みつきが遠ざかる二人の足音に耳をそばだてていると、一成がその腕を引き寄せた。好きすぎてどうしようもないというのはただの戯言だと思っていた、けれど今ならその気持ちが分かる。一成はあと3分、みつきを抱きしめていられるこの時間を一秒たりとも逃さないようにみつきをかき抱いた。




