終章 寝ぐせ姫と王子様(5)
朝の登校時間がピークを向かえ、ようやく着替えを終えた元が慶太と共にその人波に紛れて教室に向かう途中千秋が慶太の背中をぽんっと叩いた。
「おはよ、慶太」
慶太がネクタイを締めながらその声に振り向くと、そこには泣きはらした瞼を必死に押し隠し微笑む千秋が立っていた。慶太はあからさまな千秋の瞼の腫れから視線をはずすと、いつものポニーテールにむかって口を開いた。
「…よお、千秋」
「元もおはよ」
「おはよ」
あきらかに泣いていたのだろう腫れぼったい瞼と赤い瞳が痛々しい、元も慶太も千秋の笑みのぎこちなさにその先の言葉が続かない。すると千秋がその気まずい沈黙に俯いて、二人の制服の袖をきゅっと握り締めた。
「なに…?二人とも変だよ…?」
千秋が俯いたまま呟きほんの少し鼻をすすり上げるそぶりに、元と慶太は互いの瞳を合わせてその眉尻を下げた。そこには困惑と千秋の葛藤を悼む想いが見て取れて、元は千秋の背中に励ますように手を置いた。
「別に…変じゃねぇよ?」
元のあたたかな声音に千秋はえへへと照れくさそうに顔を上げると、目尻を軽く拭ってポニーテールを一撫でした。
「みつき、よかったね。これで二人とも元気になるよね」
千秋の視線は二人を通り越して廊下の片隅を見つめていたけれど、その口調には悲しみを無理やり覆い隠す苦しさが滲み出ていた。慶太はその声音の苦しさに結びかけていたネクタイを仕損じて、ちっと小さな舌打がもれた。千秋はその慶太の舌打ちに少し驚いたように顔をむけると、慶太はいらだち紛れにネクタイをするりと取り外し結び目を解きながら口を開いた。
「俺はみつきとカズ先輩がうまくいってほんとによかったっておもってるし、みつきのためにも喜んでやりたい。けど、元も千秋も俺の前では無理すんな」
慶太は言葉の上では元と千秋にその言葉を向けながら、その実その瞳は千秋だけを見つめていた。千秋はまっすぐに自分に向けられた慶太の言葉に、またその瞳を潤ませてその顔をくしゃりと崩して顔を伏せた。
「慶太ぁ…」
千秋が慶太のブレザーをつかみ顔を伏せて肩を震わせ始めると、慶太は手にしたネクタイをぎゅっと握り締め伏せたままの千秋のポニーテールを見つめるしかできない。元は突然の千秋の涙に足を止める生徒達の好奇の視線から二人を隠すように背を向けると、いらぬ憶測を睨みつけてその場で腕を組んだ。
「千秋…お前は偉いよ。ずっと苦しかっただろ…?昨日もすげぇ苦しかったよな」
千秋は言葉なく何度もうなずくともうその場に立っていることすら難しいのか、慶太の腕に縋るように泣き続けた。
「俺も苦しかった」
「慶太も…?」
「お前がカズ先輩を諦められないのを見ているたびに、俺は苦しかった」
慶太は千秋の泣きじゃくった瞳に丸めたネクタイを押し付けるようにその涙を拭うと、千秋の瞳がきょとんと自分を見つめていることにはにかんだ。
「ほら、予鈴なるぞ」
慶太は千秋の腕を掴むと、元の背中に声をかけ互いの教室に向かって足を早めた。元は慶太の想いを背中に聞きながら千秋と同じくらい驚いていた。
「人の背中で告白する奴があるか…まったくあいつは…」
元は親友の唐突な告白に悪態をつきながら、それでもその告白に可能性が秘められていることをうらやましく思っていた。元は一人呟きながらカバンからゲーム機を取り出し、不満顔のまま自分の席にどかりと腰掛けた。
「カズ先輩、とうとう早瀬さんと付き合うんだって」
「今日一緒に登校してきたんでしょ?」
「ねぇ、聞いた?森先輩とみつきちゃん…」
「聞いた聞いた、付き合うんでしょ~」
「やっぱりそうなんだ。ねぇ、ねぇ、森先輩と早瀬さん付き合うんだって」
いつもの席にいつもの教室、けれどその教室の中はいつも以上にざわめいていた。廊下から教室までのこの短い距離でも、元の耳には何人もの生徒達がまことしやかに囁きあう噂話が届いていた。
(―やっぱりすげぇ噂になってんな…)
もともと注目度の高い一成とみつきのことだ、こうして囁かれるのは仕方のないことだと分かっているだろう。けれどこの噂話の全てが二人にとって好意的なものばかりでないのは今朝身につまされたばかりだ。どちらにしてもこの勢いなら学校中の生徒にこの噂が事実として認知されるまでそう時間はかからないだろう。きっと今日の学食は超満員に違いない、元は今日の昼食は購買のパンに決めると予鈴と同時に教室に走りこんできたみつきの姿にその口角だけを引き上げた。
「おっはよ、元ちゃん」
「よお」
頬を上気させ息を弾ませたみつきの笑顔がかつて元がほれ込んだものと同じ様に煌き、いつも通り自由にはねた髪と弾んだ声音で呼びかけるみつきの快活さに元は知らずと安堵していた。
「この幸せ者め」
元がみつきを軽く小突くそぶりをしてみせると、みつきはえへへとはにかんでそだそだと両手をぽんっと軽く打ち合わせた。
「元ちゃん、カズから聞いたの、いろいろありがと」
「何言ってんだよ…俺は何もしてねぇよ」
「でもカズが元ちゃんのおかげだって言ってたもん、だから元ちゃんのおかげなの。ありがと」
みつきがもう一度ぺこりと頭をさげたちょうどそのとき、担任の姿が教室に現れみつきは元の返事を待たずに自分の席へ走り出した。元は感謝の言葉も謝罪の言葉ももう何もいらなかった。みつきの笑顔がもとの明るい笑顔に戻っている、それだけで満足だった。元はみつきが瑠奈と笑みをかわし寝ぐせをぽりぽりかきながら席に着くのを見つめていると、教室中から小さな安堵の息がもれた気がした。
(―カズ先輩、やっぱり俺の完敗でしたね…)
元は連絡事項を手短に伝える担任の言葉を聞き流しながら、頬杖をついてみつきの笑顔を盗み見ていた。教室の大半の生徒が元と同じように担任の声など耳にしている様子がないのは、元や千秋のように様々な葛藤に気もそぞろなのかもしれないし、単なる好奇心を刺激されているのかもしれない。けれどみつきはそんな視線などどこ吹く風で、小さな鼻歌まじりに一時限目の準備を楽しげに進めていく。
(―これでよかったんだな)
元はこれまで無理やり自分に言い聞かせてきた言葉をようやく受け入れることが出来ていた。みつきが元気に微笑んで、楽しそうに瞳を輝かせている。これまでの通常をやっと取りもどした教室のなかは、なんとなく浮ついた空気が満ち溢れていた。連絡事項と形ばかりの出欠を確認すると、担任はいつもと違う違和感に首をかしげながら教室を出て行った。
「おい、みつき。よかったな」
元の声が教室の端から窓際のみつきの席にむかって投げられると、教室のそこかしこからざわめきが巻き起こった。いろいろ憶測されあらぬことまでまことしやかに噂されることを牽制するように元はクラス中のざわめきに向かって口を開いた。
「みんなも知ってるよな?みつきは昨日からカズ先輩の彼女だ」
元の張りのある声が教室に響くと、好き勝手に憶測を述べていた口が閉じられ元の言葉に同調するように皆がみつきに向かって微笑んだ。
「みつき、よかったな」
おめでとう、そんな声が教室に満ち溢れ一斉に拍手が巻き起こる。みつきはその思いがけない祝福に一瞬目を見開き、そしてすぐにその顔をほころばせた。
「えへへ…みんな…ありがと」
みつきが照れ笑いしながらそのクセ毛を掻くと、その頬をうれし涙が伝い落ちた。
「みつきちゃん…よかった…やっといつもみたいに笑ってくれた…」
瑠奈が涙を浮かべてみつきの手を握り締めると、みつきはその涙に少し困ったように微笑んで、そして同級生のあたたかな想いにその涙を拭い上げた。
「瑠奈ちゃんごめんね、心配かけて…みんなもほんとにありがとう」
教室にみつきの声が明るく響き渡ると、一時限目の授業に訪れた教科担当がその目をしばたたいて感動渦巻く教室の入り口で気まずそうに佇んでいた。




