終章 寝ぐせ姫と王子様(3)
桜並木の芽はまだまだ芽吹く気配もなく、立ち枯れた木立が寒々しく二人を迎え入れていた。緩やかな上り坂、校舎まで続く桜並木、あとひと月もすれば美しく咲き誇る桜の姿をその目に浮かべたくなるほど、二人の浮かれた歩調が心地よい。一成はコートを北風に煽られながら、傍らを歩くみつきの手をしっかりと握り締めていた。登校する生徒の姿が列をつくるにはまだ少し早すぎる、けれど一成は想ったとおりの時間に学校につけた事にほっと息をついていた。朝練に向かうには少し遅く、普通に登校するにはまだ早い時間、これがいつもの一成の登校時間だ。 一成が人影のまばらな校舎を抜けみつきとともに中庭に差し掛かったとき、その自動販売機の前には先客がいた。寒さに肩をすくめて小銭を投入し、その人は何かを思案していた。
「せんせ~、おはよ~です」
みつきが一成とつないだその手を離して駆け寄ると、白衣を纏った保健医が一瞬驚いたように目を見開き、そして意外なものをみたとばかりに息をのんでいた。
「お…おう…おはよう」
「どうも…」
保健医に会えた事が嬉しいのか何がうれしいのかにこにこと目の前に立つみつきと、その向こうからやや気恥ずかしげに近づいてくる一成を交互に見つめてやっと保健医の寝起きの頭の回線が繋がったようだった。
「寝ぐせ姫と王子の登場か?」
保健医はようやく決意が決まったのか微糖と無糖のボタンの合間に彷徨っていた指先を無糖にさだめて力を込めた。
「寝ぐせ姫ってなにぃ?」
がこんがこんと激しい音を立てて吐き出されたコーヒーの缶を取り出す保健医の背中にみつきは首をかしげていた。保健医はよく温まった缶で指先を温めるように握り締めながら、その口元をくっと引き上げてみつきの髪をくしゃりと撫でた。
「おまえのことだ、その寝ぐせの頭のこと」
保健医の手にくしゃりと髪を崩されると、みつきは毛並みを乱され顔をしかめた猫のような表情を浮かべてから、保健医の言葉に妙な納得をして見せた。
「なるほどなるほど、せんせ、うまいねぇ。ね、カズ、せんせってすごいね。あたしのこと寝ぐせ姫だって」
みつきが楽しそうに振り向いた先で一成は保健医に崩された髪へぽんっと手をのせると、顔をしかめて腰をかがめた。
「あのな、お前ばかにされたんだぞ?」
一成のしかめた顔にたしなめるような口調にもかかわらず、みつきは満面の笑みを崩さずに誇らしげに一成を見上げていた。
「あたしはいいんだよぉ、せんせの言うとおりだもん。でもカズがあたしの王子様ってのは褒め言葉だよね?」
「みつき…」
一成はその満面の笑みと誇らしげなみつきのそぶりに照れるより先に嬉しさがこみ上げるのをいかんともしがたかった。保健医が目の前で冷めた顔つきで見つめているのもなんのその、一成はあまりの愛おしさにその微笑みを見つめる以外できない。
保健医は目の前で見つめあうその瞳の輝きを見守りながら、溜め息まじりに頭をかいた。今日は朝からついてない。車の調子は悪いし、赤信号にはことごとく引っかかる、いつものコンビニのいつものおにぎりも売れ切れで売れ残りのおにぎりを買うはめになった。ようやくたどり着いた保健室のコーヒーメーカーも壊れていて、いつもはこない中庭までわざわざコーヒーを買いに出るはめになった。
(―出てきてよかったな…こいつのこんな顔を見れたなら…)
保健医は学校というこの場所で多くの生徒を見守りながら、そのふてぶてしさやわがままに辟易とすることが多かった。それでも今日のように子供ながらに悩み苦しみそして成長し掴んだ幸せに身を置く姿を目にすると、まんざらこの仕事も捨てたもんじゃないと思えていた。
「あ~…やっぱり加糖にすればよかったか?」
いまにも口付けそうな盛り上がりを見せる二人の合間に缶コーヒーを突き出して、保健医は片目をつぶって一成を見つめた。
「お前らの甘さに免じてこれはくれてやる。おい、寝ぐせ姫、お前は何飲むんだ」
保健医は小銭入れを覗き込みながらさっきのコーヒーで小銭を使い切ったことを思い出し、やっぱり今日はついてないとつぶやいた。
「あたしこれっ」
みつきはいつものジュースのボタンを指し示し、保健医の折れ曲がった千円札が何度も吐き戻される事に微笑んだ。
「せんせ、お札がせんせのとこから離れたくないって嫌がってるね」
「ば~か、去るもの追わずだ」
保健医がそう嘯いた時嘘のように千円札が自動販売機に吸い込まれ、赤いランプが点灯した。みつきがやたと小さくつぶやいて迷わずいつものジュースのボタンを押すと、いつもの寝ぐせが嬉々としてぴょこりと跳ね上がった。
「せんせ、ありがと」
「祝いの品だ、受け取れ受け取れ」
「祝い?」
「うまくいったんだろ?少し早いけど結婚祝いだな」
まったくお前らは世話が焼けると、保健医は面倒くさそうに小銭を集め、今度こそはと自分のボタンに指を伸ばした。するとその言葉にあわてる一成の後ろから楽しげな洋平の声が中庭に響き渡った。
「カズっ、もうそこまで話がすすんだのっ?」
「洋平…そんなわけねぇだろっ」
「そうかそうか、おめでとうカズ」
「…結婚…ずるい…」
つぎつぎに降って湧いたようにあらわれて好き勝手に好き勝手なことを言い放つ友人の声音に、一成は頬を染めながら声高に否定していく。みつきは立ち去る保健医に手を振りながら、洋平に向き直るとちょこんと頭をさげた。
「洋ちゃんありがと」
「みつきちゃん…」
洋平の軽口がみつきの小さいけれど心のこもったお辞儀に計らずも冷静さを取り戻すと、みつきが続けざまに浩一郎と晴彦にちょこちょこと頭を下げた。
「浩ちゃんも、ハルちゃんもありがと」
「早瀬…」
皆を見つめて微笑んだみつきの瞳の潤みに3人が一瞬その目を細めると、一成の手がそっとその髪を撫であげた。みつきはぐすんと小さく鼻をすすると、照れくさそうに一成の背に隠れるように纏わりついた。一成はそんなみつきの肩に腕を回すと、少し改まったそぶりで3人に頭を下げた。
「みんな…ありがとう…それと…ごめん」
「カズ…」
一成が頭をあげると洋平と浩一郎が互いに目を合わせそして励ますように軽く一成の肩に手をかけて微笑んでいた。
「よかったな、カズ」
浩一郎は潤みそうな瞳を必死に押し隠して、一成の手をみつきがそっと包み込むのを見つめていた。洋平はそんな光景を見つめながら口角を引き上げ、自動販売機の前に佇む晴彦へ目を向けた。
「紅茶…」
「だから小銭くらいいつも持ってなって前も言ったでしょ。なんで僕が野郎のためにお金出さなきゃなんないのさ」
晴彦が消灯したままの購入ボタンを押し続ける傍らで、洋平はなんだかんだとぶつぶつ呟きつつも結局数枚小銭を投入した。がこんと吐き出された紅茶はとてもあたたかく、洋平はそれを放り投げるように晴彦に渡しながらもう一度自動販売機に向き直った。自分のためのココアがしっかりと温かかったら、今日からまた頑張ろう。洋平は勢いよく落ちてきたココアへ手を伸ばし、その缶の温かさにほっと息をついていた。温かな紅茶を手に部室に向かう晴彦に続くように歩き去る一成とみつきの背中に、あらゆる場所から多くの生徒の驚きの視線が集まっている。洋平はそんな二人の幸せを見つめながら、浩一郎に囁いた。
「浩、ぼくも幸せになろうと思う」
「そうか…がんばれ」
「うん…がんばるよ」
洋平は思った以上に温かかったココアを高々と放り投げてから受け止めると、そのココアの甘みに思いを馳せて中庭を軽やかに駆け抜けた。またここからがはじまりなんだ、中庭に差し込む日差しのうららかさが柔らかく降り注いでいた。




