終章 寝ぐせ姫と王子様(1)
マイスナの窓から見える海はまだ冬の色を湛えて灰色に澱んでいるように見えた。麗らかな春の陽気が忍び寄りながらその足を緩めた今日、良太は白波たつ沖合いにまた深い溜め息をついていた。春香はそんな夫の力ない肩先を見つめながら、テーブルを拭いていたその手をふと止めた。
「カズ君…」
春香の声音に良太は力なくその目を上向けると、駐車場からみつきの手を引いて現れた一成の姿に息をのんだ。
(―まさか、そんなことが…)
良太の驚愕と同時に春香の瞳にはすでに涙が浮いていた。テーブルを拭いていたダスターを握り締めて春香は良太より先に駐車場に駆け出していた。
「みつきちゃんっ」
春香は一成の手に引かれ嬉しそうに歩くみつきに飛びつくと、あとはもう言葉なくその体を抱きしめた。一成は春香の喜びの涙を目に佇みながら、マイスナから良太の体がのそりと現れると小さく頭を下げてその視線を彷徨わせた。
「カズ…」
一成は良太の太い腕に息がつまるほど抱き寄せられて、盛大に鼻をすする音に瞳を閉じてされるがままに任せていた。息苦しさに耐えながら良太の懐の深さに一成が感じいっていると、春香が優しく良太の腕から一成を救い出してくれた。
「あなた、カズ君がつぶれちゃうわ」
「あ…いや、ああ、そうかそうか。悪い悪い、カズ…」
一成はその二人の仲睦まじさに眩しそうに瞳を細めると、傍らのみつきの手をそっと握り締めた。
「あの…良太さん、春香さん。ほんとにすいません。その、いろいろ迷惑かけて…」
罰が悪そうに顔をしかめて一成が深々と頭を下げると、みつきも一成に倣ってちょこんと頭を下げた。
「おじさん、おばさんありがと」
頭を上げたみつきはにこりと微笑んでいたけれど、一成は恩を仇で返したような日々に申し訳なさが募りしばらく頭を上げることが出来なかった。良太も春香もそんな一成のまっすぐすぎる謝罪に肩をすくめると、良太の大きな手が一成の肩をぽんっと叩いた。
「何言ってんだ…これからもっと迷惑かけるのはこっちなんだ…そうだよな…?」
良太は一成の伏せられた頭を見つめていた視線を傍らのみつきに向けると、すこしその口角を引き上げた。するとその声音の気軽なそぶりに一成もようやく頭を上げ、みつきはその傍らでおじの言葉に頬を膨らませた。
「だいじょぶだよぉ、カズは迷惑だなんて思わないもん、ね?」
みつきは一成の腕に腕を絡め一成を見上げて首を傾げたけれど、一成は困ったようにそしてかなり呆れたようにその髪をくしゃりと撫で上げた。
「迷惑なんて思ってない…ただめんどくさいだけだ」
「ほらね…ん…?」
みつきは一成にまっすぐ見つめられて放たれた言葉に一瞬胸をそらし、そしてすぐに首をかしげた。良太はどんくさいみつきの思考にマイスナの扉をひき開けながら、豪快に笑って二人を招きいれた。
「はは、みつき、お前は相変わらずだな」
「二人ともひどいぃ」
「ふふ…さ、みつきちゃん、中でゆっくり話しましょう、ね?」
みつきは良太に笑われ、一成に手を引かれながら口を尖らせていると、春香がそっとみつきの肩に手を添えて微笑んだ。澱んでいた沖合いの海がいつのまにか春の陽射しにその水面を煌かせていた。
マイスナの店内は変わらない穏やかな暖かさに満ちていた。店内に満ちる心地よいコーヒーの香りといつもの席、そしてその傍らにはみつきが座る。カウンターの向こうには良太の広い背中と春香の穏やかな笑みがある。たった2週間ほど無沙汰をしただけなのに、そのあたたかさが一成には新鮮に思えていた。
みつきは一成の隣に腰掛けながら携帯片手になにやら懸命に文章を打ち込んでいる。概ねその内容の見当がつくだけに、一成は春香に出されたコーヒーカップを見つめてやや照れくさい思いに口元が緩んでいくのをどうしようもない。
「カズ…?なんか面白いこと書いてある?」
「かっ…書いてあるわけないだろっ?」
一成はみつきが小首をかしげて一成のコーヒーカップを覗きこむのを制しながら、ほんのりとその頬を上気させた。みつきは一成の返答に残念そうに体を引くと、おもむろに一成に携帯の画面を差し出して微笑んだ。
「千秋ちゃん返事はやいよぉ、おめでとだって…あ、瑠奈ちゃんは泣いてるよ。うれしいって泣いてるぅ。あ、慶太君もだ…よかったな、だってぇ…えへへ、みんなありがと…と…」
みつきは携帯に向かって微笑みながら、ぶつぶつと呟きながら返事を打ち込んでいく。今一緒だよとか、なんて言われたの?なんて赤裸々な質問にも口頭で答えようとしたときには、さすがに一成がその口を塞くために腕を伸ばした。
「お前はそういうことをぺらぺら言うなっ」
「もがぇ…もがうもがもが…」
一成がみつきの口を塞ぎ、その手の携帯をとりあげるとみつきは頬を膨らませて口を尖らせた。
「なんでぇ…?いいじゃん、うれしいんだもん」
「う…いいから、あんまり言うなっ」
「む~…じゃあカズはやなの?」
嬉しくないわけがない、真冬のまま凍りついていた心がつい数時間前にやっと春を向かえたのだ。みつきが言う嬉しいという気持ちに一成としても異論はない、ないけれど逐一自分の言動を報告されることにはかなり抵抗がある。せめて自分のいないところでやってほしい、そういう意味合いで一成はみつきの携帯を取り上げ、そしてそれをうまく言葉に出来ずその声音がどもりがちになった。
「や…そういうことじゃなくて」
「じゃあいいじゃん」
みつきは一成の逡巡の隙をついて携帯を取り戻そうと一成に縋りついた。すると、春香がみつきにケーキを差し出しながら柔らかく微笑んで、どうぞとみつきを見つめていた。
「みつきちゃん、カズ君もみつきちゃんと同じくらいうれしいの。だからみつきちゃんいまはカズ君との時間を優先してあげてね」
春香のとりなしにみつきは一成のはにかんだそぶりと差し出されたケーキに視線を運んで、そかと小さく呟いてちょこんと一成の隣に腰掛けた。
「カズ…ごめんね?」
一成は春香の言葉に自分がどんな気持ちでいたか、自分でも気付かなかった感情をまざまざと見せ付けられた思いでいた。自分は今、みつきが浮かれていることを喜びながら同時に電話の向こうのみつきの友達に知らずとやきもちを妬いていたようだった。一成は微笑みながら厨房奥の良太に寄り添う春香の背中に感謝しながら、そっとみつきの髪を撫でた。
「気にすんな…みんなに喜んでもらえたなら、俺も安心だ」
「うん…明日、洋ちゃん達にもありがとうって言わないとね」
みつきは一成に髪を撫でられながら微笑んで、春香にだされたチーズケーキに嬉しそうにフォークをさした。
「そうだな…俺もあとでメールだけはしとくか…」
元の返事はあったのだろうか、一成は幸せそうにチーズケーキを味わうみつきを見つめながら、その瞳が少しかげるのを抑えがたかった。元のおかげだ、けれど同時にそれが元を傷つけることも一成には分かっていた。元がみつきのために激しい葛藤を乗り越えてくれた事に感謝しながら、一成はその痛みを十分感じていた。これまでならなんとも思わなかっただろう、人を好きになるということで生まれる葛藤など一成にはあずかり知らない感情だった。けれど今は、今ならばわかる。みつきのそばにいけない間、みつきのそばにいる元をどれだけうらやましく思ったか、一成は苦しいだけの日々を振り返りながら窓の向こうの海に視線を投げた。
日が落ちていく海がセピア色に染まり長い一日の終わりを告げている、一成は元の長い葛藤を悼みながら小さく吐息をつく以外、できることは何もなかった。
長期間の連載休止大変申し訳ありませんでした。ようやく終章連載開始いたしました。どうぞ最後まで一成とみつきをよろしくお願い申しあげます。




